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大白法;老僧の御教導

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月26日(月)00時47分29秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  日蓮大聖人の仏法を釈迦牟尼仏や天台大師の仏教の焼き直しと捉えては何ら智解を得る事は出来ないと日蓮正宗O住職より昭和の50年台にご教導頂きました。
義道の落居なくして天台の学問致すべからず。との日興上人の御遺戒置文にも有ります。
義道とは大聖人様の御内証の南無妙法蓮華経の法体。
即ち一大秘法の御本尊様を信授する事であるとのご教授でありました。
教学がなくとも赤子が乳を含めば成長するように素直に持ち受けて題目を唱えれば即身成仏の境涯が湧現する。
只末法の荒凡夫は邪智に満ちているのでそういう単純明解なことも出来ない。
そのために日目聖人に変わって御法主上人や愚僧ごときが手綱引きとして大聖人様にお仕えしておる。
斯様に申されて居りましたが、教学をやる上での注意点を聞いてメモして居りましたので
投稿させて頂きます。

①釈迦仏教の要点は如是三事。從本空無。非我眞我。云何於是而生愛染。觀是三事。爲繋所縛飄流苦海。以如是事。常自呵責。三大諦者。 一謂菩提之道。是平等諦。非不平等諦。二謂大覺正智得諦。非邪 智得諦。三謂慧定無異行入諦。非雜行入諦。
と法華経の十如是、寿量品の大事に尽きる。宗門の相伝にも十如是の諸法実相の秘法があると伝え聞いておる。十二箇条のご相伝の中身は儂は知らんが猊下様にのみ相承されておるので猊下様の御内証は生身の大聖人様と拝しておくことも大事であるぞ。無論欠点も有り有徳の方々ばかりでは無き場合も有ろうが相伝の器であるが故に尊いのは間違いない。

②儂らは小僧の時分よりいろんな猊下様にお仕えし爾来数十年仏飯を喰んでいる身ではあるが、天台や御遺文も仲々手に入らない仲で師僧や猊下様の教えを頂き仏法を学んできた。昭和の戦後に御書全集や相伝書が発刊されたが儂らの学んできた仏法は何一つ御遺文や三大部に反する様な教えでは無かった。
反ってそれらが仏法の教えの正しさを証明するとさえ言えるものだった。

③創価学会は罰功徳論で教勢を拡大し我が宗も目を疑う様な豪華絢爛なものになった。素晴らしい組織力で多くの青年が我が宗を盛り立ててくれた。反面猊下が憂慮されているように○?本仏論というもんが根強く蔓延って来ておる。
儂も訪ね来る青年部と話し込んだりして時を過ごすことも有るのだが、一つ心配しておるのが師匠が地獄へ行くなら私も行っても構わんという莫迦者がママおるんだ。
法を信じきれておらん証拠じゃよ。
あんたももうすぐ35じゃろ。人間35過ぎると見塵惑というのが正面から出てくるもんじゃ。とにかく世間を生きる上でも行道でも年寄りのいうこともたまには聞くもんじゃ。
○?も最初は好青年で有ったがのぅ見塵惑に負けたと云うか過去世で正法誹謗した燻習種子というもんが出てきておるんじゃろうのう。
天界の鍵というかそういう邪見の悟りを得ておるから栄耀栄華を極めておるんじゃ。
お前さんに一つだけ言っておく。
仏法は引き算じゃ。けっして足し算の人生や修行をせぬ事ことじゃ。
悟りを得ようというのも一つの惑障じゃからの。結果だけ求めんことだ。
一つ一つ削ぎ落として純粋な真人間になれたら良いのだからのう。


****************************************

その他にも色々と御教導頂きましたが、故人となられた現在ご冥福を御祈念します。
当時正信覚醒運動盛んな居り、青年部のスパイ活動に従事して居りました私でありましたが、斯様な有り難い親身な御教導を頂き、ついぞ上長に会話の内容とを報告する事は有りませんでした。
拙い昔話では有りますが参考になりましたら幸いで有ります。


 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月25日(日)23時43分45秒 softbank126094226119.bbtec.net
返信・引用
   扶桑社刊 エリコ・ロウ著 『死んだ後には続きがあるのか』を読んでいますが、初めにアメリカ在住の医師による臨死体験が綴られていますが、今は、そこを読書中です。

 アメリカのバージニア大学の故イアン・スティーブンソン博士がインドとヨーロッパの子供たちの語る生まれ変わり体験を現地調査をして纏めた『前世を語る子供たち』『前世を語る子供たち2』を読んで、生まれ変わりは有ると思っています。

 そこで死んで生まれ変わるまでの中間生を知る為に、これまで三冊の臨死体験解説本を読みましたが中間生も存在すると思います。そこは絶対の愛と至福に包まれた世界だそうです。この世で極悪の人間でも其処に行くそうです。但し、死後に振り返る人生のパノラマ映像を見た時に、深い深い後悔の念に墜ちますが、その後は至福を味わえるそうです。当然、本門戒壇の大御本尊を誹謗しても地獄には堕ちません。地獄は無いのですから。

 この世は、魂の学びの場です。大事なのは慈悲と愛をもって人に優しくすることです。
 
 

法介さんへ

 投稿者:妙介  投稿日:2016年 9月25日(日)22時23分19秒 pool-200-232.aitai.ne.jp
返信・引用
  法介さん、こんばんは。頑張ってますね^^

ちょっと気になった事があるので、一点だけ。

以前マラソンランナーの例を出して、「仮諦」について考察されていましたが、

我々が像法時代の衆生で、天台を学んでいるのであれば

あのような表現も、あるいは成り立つかもしれませんが、

末法の我々の心をいくら観じても、「虚妄仮」しか出てこないのでは・・・。

「仮諦」とは諦の字が付いていることでもわかるように「悟り」ですから、

「仮諦」「空諦」「中諦」の「円融の三諦」=「御本尊様」というふうに

限定的に理解しておいた方が安全ではないかと思います。


お手紙の返事、今日投函しました。

ステキな「おまけ」を入れておいたので、楽しみに待っていてください。
 

お馬鹿さんへ

 投稿者:大爆笑  投稿日:2016年 9月25日(日)22時06分15秒 sp49-98-155-122.msd.spmode.ne.jp
返信・引用
  池田が、法華経の敵でなかったら
法華経の敵なんてどこにもいないよ
 

茄子の花様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月25日(日)20時03分41秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  初めまして。
頭破3氏(妙介様、法介様、愚人くん)の相手はしない方がいいですよ。
法を下げるだけですし、十四誹謗の輩につられて一緒に十四誹謗をしても詮無いことです。
創価脳の彼らは今、髄液が溢れ、憎しみと苦しみの快楽に浸りながら、学会名物ポンポン踊りに浸っていますので、ひたらしておくのがよろしいかと(笑)

またこう書くと、彼らは脳髄プシャーっなって快楽にひたり始めますから楽しく観ていましょう(^ ^)
 

茄子の花さんへ

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月25日(日)18時42分38秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  もう少し丁寧に返答しておきます。

>問ふ、其の義を知らざる人、唯南無妙法蓮華経と唱えて解義の功徳を具する
>や否や。

>答ふ、小児乳を含むに其の味を知らずとも自然に身を益す。
>耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん。
>水、心無けれども火を消し火物を焼く、豈覚えあらんや


南無妙法蓮華経の意味や難しい教学を正しく理解しないと功徳は得られないのかという質問に対し、大聖人様がそんな事はありませんよ。
意味や教義は理解出来なくとも唯南無妙法蓮華経と励むことで仏の悟を得ることができます。とお答えになっています。


その通りだと思います。


しかし、教学を研鑽する事は、また意味合いが違うと思います。

毎月の御講は何の為に皆さん参加されているのですか?

教学研鑽に対してこの御請訓をあてはめてしまうと、

御講に行く必要なんかないじゃないかとなってしまいます。



御書は何の為に学ぶのかというと、自身の信心を深める為であり、なによりも

大聖人様が『聖愚問答抄』で


   「今の世は濁世せなり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。

         此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。

         只ただ折伏を行じて力あらば威勢を以もって謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」


と仰られておりますとおり、法門を以って邪義を砕く為に学ぶものだと私は思います。

我々が折伏を実践していく際の最大の武器が、教学ではないでしょうか。


法華講員さんの中には、「自分たち在家が法を語るなんてとんでもない」と言われる方もおられますが、

では、あなたはどうやって折伏をしているのですか? と私は聞きたいです。

 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月25日(日)16時36分13秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  「臨死体験の解説本」読み終わったら感想などお伺いしたいです。死後の世界に関しては、私も色々意見を持っていますので、そのうちそういったテーマで語り合うのも面白いかもですね。

日寛上人の「六巻鈔」あたりに記述があるかなと思い、調べてみましたがないですね。

色々調べてみます。しばらく趣味の方を堪能されてください。ありがとうございました。
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月25日(日)15時44分35秒 om126186240167.7.openmobile.ne.jp
返信・引用 編集済
   セブンネットで臨死体験の解説本と微生物の解説本と選択本願念仏集の解説本を購入し受け取りにいってきたので、これから読み始めます。 自分は日蓮聖人の遺文に引用されている選択集しか、また、日蓮聖人の遺文によって作られた選択集のイメージしかありませんので、原文と現代訳文と解説文を読むのが楽しみです。なので、もし私宛に投稿なされても直ぐには返信が出来ないと思いますので了承して下さい。日蓮聖人の天台大師が薬王菩薩の再誕との話は「霊山同聴」「大蘇開悟」のキーワードで記事検索しダウンロードした論文の中にはありませんでした。薬王菩薩の再誕との話は、日蓮聖人の作り話だと思いますが、三冊の本を読み終えたら書籍なども購入して調べたいと思います。

 それと私は、日寛上人の十如是の三転読誦に関する教示を読んだ記憶はありません。
 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月25日(日)14時26分14秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  愚人さん、なるほど、そのような落ちがあったんですね。

愚人さんなら知っていて当然そうな質問をわざわざされてきたので、

不思議に思いながら返答した次第でした。

日寛上人あたりがこの件(3度読み)についてご指導されている文献は、ありませんか?
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月25日(日)14時25分10秒 softbank126094242064.bbtec.net
返信・引用
   御法主日顕上人猊下御説法

  十如是事(2)

 「其の故は百界と云ふは仮諦なり」。この百界の「界」ということは区切りを意味し、それぞれの果報によって世界が異なるということです。例えば魚は水の世界の生物であり、陸へ揚げれば死んでしまいます。そこに一つの境があり、区切りがあります。また、人間が水のなかへ入れば死んでしまいます。このようにそれぞれの果報によっての界が存するのですが、この十界、百界は差別の世界であり、因縁和合の姿でありますから仮諦ということになるのです。(中略)このように大小、善悪、すべてに徹底した差別が存するのです。この姿が仮諦であるとおっしゃっているのです。
 「千如と云ふは空諦なり」というのは、「如」に不異、つまり異ならざるという意味があるからです。すなわち、事々物々の一切に共通しておる実相実体の意義がある故に空諦であります。
 「三千と云ふは中諦なり」というのは、仮諦である百界と空諦である千如を兼ね具え、さらに五陰世間・衆生世間・国土世間の三世間を具えておりますから、円満な一念のなかに具わる実相を示しておるが故に中道であるということであります。このところは実に難しいところですが、この三千が一切を含み、通じているが故に中諦であると御理解いただきたいと思います。(大日蓮平成五年五月号55・56頁)
 

茄子の花氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月25日(日)13時53分6秒 softbank126094231074.bbtec.net
返信・引用 編集済
   私は成人していて母乳ではなく牛乳を飲んでいます。牛乳の大まかな成分はパックに表示されています。  

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月25日(日)13時48分19秒 softbank126094242064.bbtec.net
返信・引用 編集済
   日蓮正宗が十如是を「仮諦読み」する理由です。

 御法主日顕上人猊下御説法

  十如是事 (2)

         平成元年六月三十日
         経王寺新築落慶法要の砌

 しかしながら、これは天台の法門であって、本宗では我々の命の実相の上から妙法を具現していくわけですから、我々の持って生まれた当体をもって、女は女、男は男、賢きは賢き、愚かは愚かなままで、そのまま妙法の命を顕すのであります。したがって、仮諦読みでいいのです。すなわち、我々の姿は仮の姿ではあるけれども、この仮の姿のまま凡夫身に妙法の仏性、仏の当体を顕していくという意義なのです。故に本宗においては、三諦読みに執われず、「如是相、如是性、如是体・・・・・・」と三回とも仮諦読みで読むのが通例であります。(大日蓮平成五年五月号57・58ページ)
 

はじめまして

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月25日(日)12時57分11秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  茄子の花さん、はじめまして。

愚・妙・法 三氏とありますのでご返答させて頂きます。

新池御書に、

「有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」

とありますとおりだと思います。
 

愚・妙・法 三氏

 投稿者:茄子の花  投稿日:2016年 9月25日(日)12時29分19秒 ag220-213-220-206.ccnw.ne.jp
返信・引用
  問ふ、其の義を知らざる人、唯南無妙法蓮華経と唱えて解義の功徳を具する
や否や。

答ふ、小児乳を含むに其の味を知らずとも自然に身を益す。
耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん。
水、心無けれども火を消し火物を焼く、豈覚えあらんや


 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月25日(日)11時52分43秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身般若解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。


と一念三千法門御書にありますとおり、本来は3度読み繰り返す度に、

区切り方を変えて唱えるのが正しいやり方です。御説法でもよく語られる話ですし、古い学会員さんなんかも知っている人多いでしょうから、ぽんぽこ狸さんなんかはご存知でしょう。

是相如(空の義)
如是相(仮の義)
相如是(中道)


 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月25日(日)11時26分24秒 om126161001126.8.openmobile.ne.jp
返信・引用
   因みに、勤行の時の十如是は、仮諦読みですか?。空諦読みですか?。中諦読みですか?。  

ぽんぽこ狸様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月25日(日)10時29分44秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用
  ね。ほら、反応するでしょ。
脳髄がうずくんでしょうね、頭破3氏(妙介様、法介様、愚人くん)は(笑)
普通恥ずかしくて反応しないんですが、快楽が先にくるようです(笑)
 

ほんぽこ狸様

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月25日(日)10時21分41秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  愚人さん、ありがとうございます。参考にさせて頂きます。


ほんぽこ狸様、ご返答ありがとうございます。


なるほどです。そういうことなんですね、納得いたしました。


では、一念三千の法門の解釈が客観認識の(分別)説明になっている事は、どう受け止めたら良いのでしょうか?


ちなみに、私の所属寺院のご住職様に
私が書いた分別でもあり無分別でもあるという一念三千の法門の解釈の原稿をご指導頂こうと手渡しておいたのですが、
その後、副ご住職様から頭ごなしに「これはあなたの我見でしょ!」と物凄い勢いで怒鳴られまして、
私は何度も「間違っているのであれば、どこがどう間違いなのか、解るようにご説明頂けないでしょうか」とお願いしましたが、
ただ頭ごなしに怒鳴り返してくるだけでした。

納得のいかない私は、近くにある別の正宗のお寺を訪ねてみることにしました。

そちらのご住職様に事情をお話しましたところ、年配の穏やかなご住職は「読んでみましょう」と笑顔で受け取って下さいました。
その際にご住職様に「石田教学をご存知でしょうか?」と尋ねてみましたところ「ああ、石田教学ね」とご存知でしたので更に

「石田教学は間違いなのでしょうか?」と尋ねてみました。

なぜその質問をしたのかと言いますと。同じ質問を所属寺院の副ご住職様にも以前にした事がありまして、その時のご返答は
「石田次男なんて男はクズですよ。あんな奴が書いた論文なんて読む価値もありませんよ」といったものでした。

しかし、こちらの年配のご住職様は笑顔で「間違いという程のものはではないのでは」と、良く石田教学をご存知のようでした。

数日後、読んで頂いた結果をご指導頂こうと、そのお寺を再び訪ねました。

ご住職様が「原稿読ませて頂きました」と私に話しかけて真っ先に言われたことは

「これを読んで所属寺院の副ご住職は、なんといわれたんですか?」という内容でしたので、

「あなたの我見でしょ」と言われたままをお伝えしました。

それを聞いて、ご住職様は「間違ってはおりません」とご返答され、

確認する意味で私が「一念三千の解釈も間違っていませんか?」と尋ねると、

「間違っておりません」と言ってくださいました。





現在は、そちらのお寺に通わせて頂いているのですが、その際に所属寺院のご住職様に宛てた私のお手紙の内容をここに貼り付けておきます。





■■■住職様(私の所属寺院)

先日は、長時間に渡り、私事にお付き合い頂き心よりお礼申し上げます。

あの時お渡ししました2回目の原稿こそが私が声を大にして訴えたい内容でございます。大聖人様の御法門は、あくまでも「己心の法」であるにも関わらず、なぜに宗門も「池田大作が悪の根源だ!」などと言って心外に悪を実体化(池田大作氏及び学会員)して攻撃するのでしょうか。

大聖人様は、執権・北条時頼や時宗また平左衛門頼綱や極楽寺良観を悪人呼ばわりして個人攻撃をされたのでしょうか。御書の中では、「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。」「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。」(曽谷殿御返事)、「日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚まり起こせるなり。」(佐渡御書)とありますように、「法華経の敵」や「謗法」を攻めなさいと言われています。

更に、「我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき」(十如是事)と対象の方には善も悪もない(無我・無自性)とも言われています。従って池田氏を悪だとして実体化(有我・有自性)する行為は、「外道は一切衆生に我有りと云い仏は無我と説き給う」(一代聖教大意)との御指南に反するものと思われます。
そのような行為こそ、「故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教還同外見と釈せり」(一生成仏抄)ではないのでしょうか。

私からみて創価学会も日蓮正宗も互いに相手を罵り合ってる時点で、明らかに教義から逸脱している(心外の法になっている)としか思えません。学会の教学逸脱(客観的に法門を展開している)の原因は現代教育(客観教育)の弊害であると原稿に結論づけましたが、それは学会に限った事ではなく同じように現代の客観教育を受けて育たれた宗門の御僧侶方に於いても同じ事が起きていると思います。その根拠は、互いに罵り合ってる現状以外にも、私が提示し破折した「池田氏の三諦論」、これは昭和40年代に学会から出版された御義口伝講義に掲載されているものですが、監修されたのは御先師日達上人です。戸田先生の「生命論」の中でも、客観的に解釈されたおかしな三諦論が存在します。と言うよりも「生命論」自体が「仏法哲学」という名で大々的に客観展開されていたという事実を教義指導する立場にあった宗門はどのように受け止めておられるのでしょうか。

我々が戦うべき対象は、現代教育(客観主義)に潜む「我有り・実態有り」の「心外の法」であるところの「外道の法門」ではないかと私は思います。
法華講員さんが池田大作さんや学会員さんの事をまるで悪人のように語っておられるのを度々耳にしてきました。実際、慧妙にもそのような記事が沢山記載されています。繰り返し言わせて頂きますが、大聖人様の仏法では、外に善も悪も無いのです。
学会にいた頃は、池田さんのことを人生の師匠として尊敬しておりましたが、その頃の自分が愚かだったなと反省すると同時に、未だにその池田さんを崇拝して信心している兄や姉を救ってあげれない自分が不甲斐無いとも思います。
何とか救ってあげたいと日々信心に励んでおりますが「己心の法」の信心を実践している私にとって、池田さんがどうのこうのと言った話は全く関係ありません。

○○寺法華講に私がなかなか馴染めなかったのは、講中に学会員さん達の事を悪く言う雰囲気が充満しているからです。私の知る学会員さん達は亡くなった父母をはじめ兄弟、親戚そして関わってきた多くの学会員さん、みんな良い人ばかりです。そういった学会員さんの事を「ヤツラ」呼ばわりされる事に私はこれ以上耐え切れません。

「脱寺」という言葉があるのかどうかは解りませんが、先日お話しました通り、私と妻と次男の三人で○○寺を出て行くことを決意いたしました。これから三人で△△寺の門を叩いてみます。

長男と長女はひきつづきお世話になりますが、○○寺の方々は皆さん良い人ばかりなので、私は安心して大切な子供達をおまかせできます。特に今から法華講青年部で信心をはじめる長女には、講中においては「■■さんを法華講の母と慕って、■■副御住職、■■青年部長にしっかりとついて行きなさい。そして困った事があったら、ご住職を父と思って相談にのってもらいなさい。」と伝えております。まだまだ至らぬ所ばかりの二人ではありますが、ご指導の程宜しくお願い申し上げます。またこのような勝手極まりない私の我がままをどうかお許し下さい。

最後にご住職に私の信念をお伝えしておきます。

「折伏とは教義の誤りを折り伏せることであり、決して個人を罵る行為などではない。」

                                        以上
平成28年2月11日

                                            ■■ ■■

 

講談社学術文庫刊 中村元著 『龍樹』 より

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月25日(日)10時04分14秒 softbank126094220113.bbtec.net
返信・引用 編集済
   法介氏。参考にして下さい。

 このように空といい無自性といっても、ともに「縁起」を意味しているのであるから、空観はしばしば誤解されるようにあらゆる事象を否定したり、空虚なものであるとみなして無視するものではなくて、実はあらゆる事象を建設し成立させるものである。『中論』によれば、
 「空が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。空が適合しないものに対しては、あらゆるものが適合しない」」 (第二十四章・第一四詩)
という。ナーガールジュナの著『異論の排斥』においても、
 「この空性の成立する人にとっては、一切のものが成立する。空性の成立しない人にとっては、何ものも成立しない」
といって同趣意の思想をいだいている。(中略)すなわち一切皆空であるが故に一切が成立しているのであり、もしも一切が不空であり実有であるならば一切は成立しえないではないか、というのである。(同書238頁から239頁)
 

新手の創価員による【掲示板荒らし】である。

 投稿者:黒川 和雄@日蓮正宗  投稿日:2016年 9月25日(日)09時51分40秒 p1137-ipbfp2603osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  ◎初投稿の方は、所属宗派・教団を名乗って下さい。
尚、所属不明者の投稿については警告の上、順次削除致します。

◎当室は日蓮正宗と他宗・他教団との法論を主としておりますので、
無宗教 の方は御遠慮下さい。
 

ぽんぽこ狸様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月25日(日)09時36分41秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  頭破3氏(妙介様、法介様、愚人くん)は創価脳ですので、人の話や文章などを正しく理解することができません。
我見・思い込みが先にきますので、何を言っても無駄ですね。
せっかく、創価脳で学会名物ポンポン踊りをして自身の境涯を晒してますから、ここは見物しておけばいいと思いますよ。彼らは今脳髄が疼いて怒りと苦しみの快楽の最中ですから、快楽を謳歌してあげる方が幸せだと思います。

また、脳髄が疼いて「ポンポン!ポンポン!」と快感コメントを書いてくるでしょうけど(笑)
反論の内容も、彼らは思い込みで理解できませんから、書くだけ法を下げると思います。

こう書くと「法を下げる」に反応するかも(笑)

管理人様
いつもご迷惑をおかけします。
哀れな頭破3氏の脳髄快楽コメントはまとめてご削除ください。
 

他山の石

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月25日(日)09時30分45秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  以下は日蓮正宗や創価学会を批判しておる他門の僧侶のブログの一部で有りますが、以下に他門の葬式坊主が堕落しておるかが述懐されています。
それに引き換え一部の例外はあるものの当宗の御尊師方は権勢有力者に媚び諂うこと無く行軆堅固で頑固一徹な方が多く信心に精進するうえで誠に持ってよい環境を与えて頂いて居ると思います。

(参考)
ttp://www.kempon.net/shumonGenjo.html
 

平等界;仏教用語

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月25日(日)06時56分48秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  仏教語辞典を調べました所平等界(ぺいとう)とは一切の差別(しゃべつ)のない真如の世界と有ります。
真如を調べますと真空妙有と出てまいりましたのでなんぞやということで又調べました。


(真空妙有)

仏教用語。真如があらゆる妄想を離れて空であるところから真空といい,常住不変であって仮有ではなく真実の有であるところから妙有といわれる。また真の空が現実世界の種々の妙なる姿を展開することをいう。

****************************

なんら日顕御隠尊猊下の御説法の内容と矛盾しておるようには見受けられません。
あらゆる妄想を離れて空であるところから真空という反省判断と一切の事物には実体がないという事と内容的にはなんら変わらないと思いますが。

真実の有を宇宙霊の一実体等と解釈してしまう池田大作のようなことになりますと仏法が仏法に非ざるものに変質しますのでご注意下さい。

 

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月25日(日)02時00分39秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  >因みに日蓮正宗の阿倍日顕氏も空を平等、仮を差別、中を差別即平等とし、それそれ平等、自由、尊厳ともしています。

どうやら、そのようなことが最新の書籍の中でも見受けられますね。

となると、

日蓮正宗の教学

  〈空諦〉

   精神のあるものも、ないものも、一切世間のものはすべて因縁によって生じており、
   因縁によって生じる事物は、それ自体に実体はないとし、これを空と説いています。
   つまり、一切の事物には実体がないという真理を空諦と言うのです。


日顕御隠尊猊下

     「三諦」とは空・仮・中であり、そのうちの仮を取れば、あらゆる存在は因縁が異なるので、
      すべてが差別し相違している。すなわち十界は、ことごとく各別の相を表している。
      次に空を取れば、あらゆる物事は互いに具し合っているので、その通同の辺において互具円融し、
      すべてが平等である。
                                  ( 平成27年4月28日 初版発行 三大秘法義 )


と、正宗内で解釈に相違がおきていますが・・・


私的には、「空」を「平等」と解釈してしまうと「無我・無自称」つまり、「一切の事物には実体がない」にならないと思うんですけど。
 

Re: 妙介さん:懲戒処分規定

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月25日(日)01時15分58秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  ◇信者への懲戒

日蓮正宗の宗規・第二百四十六条では「住職又は主管は、所属の檀信徒が次の各号の一に該当するときは、総監の承認を得て、除名に処することができる」と規定している。

① 教義上の異説を唱え、又は信仰の改変を企てたとき。
② 管長その他の本宗の僧侶又は寺族を誹毀又は讒謗したとき。
③ 本宗の法規又は寺院若しくは教会の規則に違反したとき。
④ 管長その他の本宗の僧侶又は寺族に対し、その職務を妨げ、その他不正行為をなしたとき。
⑤ 寺院又は教会の財産に関して不正行為をなしたとき。
⑥ その他本宗、寺院又は教会の秩序又は平穏を乱したとき。

***********************************************

上記規定を勧戒式が終わり次の週に頂きましたが、妙介さんは頂かれなかったでしょうか。
まともなご住職様でしたらきちんと説明される筈です。
総監の承認を得てと有りますが懲戒の判断は警察組織と同じく現場裁量に任せるというのが了解事項で有ります。
寺院出入り禁止は未だご住職の寛大さが伺える措置かとも言えます。
学会時代でしたら、金銭的に金づるを失いたくないので除名処分には絶対致しませんが、本部長裁量で座談会、本部幹部会出席禁止は確実です。
それより恐ろしいのは罵詈讒言の風評被害。
ご経験がお有りだと存じ上げます。
比較対照するのも何ですが、創価学会よりも遥かに寛大な目で信徒を見ているというのが私をも含めた感想であります。
どういう経緯であるのかは、所属も状況もわからないの推測でしか判断出来ませんが、上記規則が有ります事をお伝えします。
 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月25日(日)01時10分52秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  なるほど、愚人さんの情報処理能力は関心します。

人間って実は愚かじゃないですか。

愚かなくせに、解った風なことを言いたがる。←こいつも^^

でも愚かさを熟知している人は、簡単に物事を断定しない。

だって間違っていたら因果応報で自分が責任をとらされる訳ですからね。


噂や憶測で物事を判断しない!



う~ん、間違いない!

 

黒川様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月25日(日)00時43分51秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  まあ、いずれ全て消去されるでしょうから、放置でよろしいかと思います。
「思い込みで人の話を正しく聞くことができない。人に正しく伝えることができない。コミュニケーション能力がおかしくなる」と言う創価脳の本質を指摘されて、怒りと苦しみの快楽に溢れ、学会脳特有のどんちゃん騒ぎを披露してるだけですから。
池田氏の
「なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴っていけばいいんだ!」
が脳髄に叩き込まれてますから、創価脳の本質を指摘されると脳髄が疼いて「怒りと苦しみの快楽状態」になるのでしょう。

頭では「創価でない」と思いたくても、脳髄が疼いてしまうんでしょうね。恐らく頭破3氏は自分が如何に恥ずかしいかも理解できてませんし。

哀れな方々です。
常識人なら恥ずかしくて騒ぎませんが、創価脳ですから仕方ないかと。

以前、学会員の大勝利氏には、この快楽症状を「学会員のポンポン踊り」と揶揄しましたが、彼らは大勝利氏より重症のようです。
 

黒川さま。

 投稿者:H27脱会@法華講員  投稿日:2016年 9月25日(日)00時31分0秒 220-208-80-79.koalanet.ne.jp
返信・引用
  確かに…。
よしんば、創価学会員であろうと、法華講員であろうと、彼ら3名は、既に、
空理空論の世界に陶酔してると思います。
せいぜい、人間、生きて80年、100年か…。

どれ程の、教学を学ぼうとも、さまざま、増上慢とも取れる発言、乃至は、
部分観に囚われ、結果≪信≫を失っては、詮の無い事です。

信仰の有るべき姿、見失ってしまっては、何に成るのでしょう?

そもそも、日蓮大聖人さま、御本仏は、罰を与えようとして仏法を説かれたん
でしょうか?

下種御三宝尊は、罰を与えるだけの存在なんでしょうか?

私は、この様な、教学の空理空論者を垣間見ると、しみじみ、創価学会員、特には
創価の男性に多いのですが、虚しさを覚えないか…と思います。

小理屈こねて、挙句、我見に陥り、囚われて、信を失う。
散々、この様な人々を見て来ました。

御書は、その通りと、仰せの通りと拝すものです。

また、御法主上人猊下さま、ご指南も同じくです。
何か、誤りが有るんじゃ無いかと、猜疑から聴聞して、何になるでしょう。
誤りが有るとするなら、日蓮大聖人さま、下種ご三宝尊が正されます。
なので、何も、間違いが、御歴代の御法主上人さまに存しないのです。
凡智の計り知る所ではございません。

その様な信仰に、何の心の安寧ももたらさないと思うのです。
私は、常々、たまたま、お隣にお座りに成られる、法華講の、翁、媼、年上の
お爺さま、お婆さまの、ひたぶるなまでの、合掌の姿が、≪尊い≫いなあ…
と思います。

斯様な、素直で実直な信心をさせて頂きたいと、朝な夕なの勤行で願っています。

こちら、掲示板の品位を守って頂いて、ありがとうございました。

 

Re: 妙介さん:学会教学の功罪

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月25日(日)00時28分54秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  >>これは的を射た感想であり、正しい分析だと思います。
ここに集われている方々の中で正信に戻れる素質が一番ありそうなのは、ぽんぽこ狸さんだとお見受けしていますが、
(法介さんは既に仲間なので除外)
黒川さんの書き込みを見てもわかる通り、かつての日顕猊下のお考えで書かれた本です。

>>私は、自身の所属寺院の御住職に「このような文章が放置されているのは良くない、修正していただきたい」と御住職にお願いして、寺院出入り禁止になりました。


************************************************

どちらの寺院かは存じ上げませんが、出入り禁止にする程の事ではないかと思います。
只、日達上人猊下時代に僧侶が不足し少年得度者以外に中途得度者が多数出家なさいました。
その御尊師方は**道と云う法号を持たれています。
創価学会二世で青年部幹部の方が多かったと伝え聞いて居ります。
この方々は今は亡き原島嵩教学部長の薫陶を受けられた方も少なからず居られ、創価学会の教授、師範クラスの方もいます。
当然御書のみならず日寛上人の六巻抄や文段もも試験に出てまいりますので中には当時のご住職よりも教学力に秀でた人もいました。
本来なら少年得度で御伝土代や天台三大部から入る所を最初から下種仏法の種脱法門を会得されておるが為、基礎のところが曖昧な部分も有ろうかとは思われます。
宗門の根幹である中堅から権僧正クラスの方も多く宗門の屋台骨を支えられて居られるのもこの御尊師方であります。
職業僧侶でなく道心から僧侶に成られている方が大半で有りますから、信心堅固この方々なしにはエンジンのない車の如き宗門で有りましょう。
只融通が利かぬというか頑固一徹の方も多いのです。
ひところ前の創価学会の辻副会長の如きタイプも多いのです。
組織を何が何でも守りぬく、命を惜しむこともなく法を弘む為には身命を惜しまずという姿勢です。
信徒の立場として自分が正しいという態度では頭ごなしに拒否というのは目に見えております。
自分の立場を守ると云うより宗門、猊下様をお守りするということが第一命題で有りますからして、柔軟にご住職の意見をお聞かせ願えませんかという姿勢で対応される事をお勧めします。
上古の仙代問答や天目破門騒動を見るまでも無く教学上の事は勝劣派では火種の元になりかねず、法華講組織の分裂や寺院間の勢力争いを惹起しかねません。
「このような文章が放置されているのは良くない、修正していただきたい」と依頼されても
お立場上拒否されるのは普通でしょうが、寺院出入り禁止は人間関係の問題だと推測します。
信徒のお立場として質問形式で人間関係を壊さないように精進なされることをご祈念申し上げます。

 

妙介と愚人=創価員ですよ。

 投稿者:黒川 和雄@日蓮正宗  投稿日:2016年 9月24日(土)23時41分25秒 p1137-ipbfp2603osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  新手の掲示板荒らしです。

このような阿呆にイチイチ反応する必要はありません。


 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)22時43分49秒 softbank126094220251.bbtec.net
返信・引用 編集済
   天台宗ホームページ並びに天台寺門宗ホームページや比叡山ホームページ並びに三井寺ホームページで調べると、南岳・天台の「霊山同聴」の話は出ていますが、南岳が観音の再誕・天台が薬王の再誕の話はでていません。ネットで読める南岳の『立誓願文』には、南岳が死後に六回転生するとはありますが、自身の前世については記載がありません。日蓮の「観音・薬王が南岳・天台として示現し出現した」との再誕話は、「霊山同聴」と「大蘇開悟」を結び付けて作られたものと現時点では推測します。(初めて調べたので、後で改める可能性があります)  

ぽんぽこ狸さんへ

 投稿者:妙介  投稿日:2016年 9月24日(土)21時51分23秒 pool-200-232.aitai.ne.jp
返信・引用
  ぽんぽこ貍さんへのお返事です。

> ◇至理は名無し聖人理を観じて萬物に名を付る時因果倶時不思議の一法之有り之を名けて妙法蓮華と為す 此妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足してケツ闕減無し之を修行する者仏因仏果同時に之を得るなり聖人化法を師と為して修行覚道し給へば妙因妙果倶時に感得し給ふが故に妙覚果満の如来と成り給し也(当体義鈔)
>
> ***********************************************
>
> 貴方が創価学会員でも出入り禁止法華講員でも構いませんが、空についての頓珍漢な解釈を窘められて空とは反省判断であるとされたのは「空も又空なり」との言葉通り正解で有ると思います。
>
> 上記ご金言(一説には偽書説もあるが)に付いて長文に成っても構いませんので貴方のおっしゃる外道義の解釈と石田氏からご教授されたという正統的な解釈をお聞かせ願えませんか。
> 大聖人の仏法の根幹の処が短い御文章に凝縮されていると判断していますので、ご高説を承りたいと思います。
>


ぽんぽこ狸さんから大変な宿題をいただいてしまったので、久しぶりの投稿となりました。
まだまだ信心未熟でありますが、ご指名ですので僭越ながら解説させていただきます。

当抄は、文永十(一二七三)年、日蓮大聖人様が五十二歳の御時、佐渡一谷において御著述され、最蓮房に与えられたと伝えられています。
「開目抄」を教の重、「観心本尊抄」を行の重、そして証の重に配当されるのが当抄で、大変重要な御抄です。
最蓮房については謎が多くてよくわからない人物ですが、大聖人様にお給仕するために天台僧に身をやつした日興上人ではないか、という説もあります。最蓮房が頂いた御書の内容を考えれば、案外そうかもしれないとも思っています。

○至理は名無し

天台大師の法華玄義の「当体蓮華、譬喩蓮華」の釈を引いて、この釈の意は…と、説き進められておりますが、もちろん天台大師の釈をさらに解説するために説いておられるのではありません。天台大師の釈の文を借りて、大聖人様御自身が所持されている覚りをお説きなされているのだと解釈するべきでしょう。
至理とは「まことにもっともな道理。至極(しごく)の道理。」ということですが、当体義抄の文脈の上からは、至理=妙法、と解釈して良いと思います。
妙法には名前がない、という事です。

〇聖人理を観じて萬物に名を付る時

ここでの聖人とは「理を観じて物事に名前を付けることの出来る人」つまり一般的な意味での「偉い人」という意味でしょう。もしかしたらそういう「偉い人」は全て仏様の化身というか、そのような方かもわかりませんが、検証しようのないことです。
ただ一点、心に留めておかなければならない事は、泥の中に咲く花を見て、「プンダーリカ」と名付けた人「蓮華」と名付けた人、そういう諸々の人々の営み、長い長い歴史の準備を経て、仏様が世に出て法を説く準備が整って、ようやく釈尊が現れ仏法を説き、弟子檀那が法を伝え、そうやって作られた下地の上に、日蓮大聖人様が「妙法」を説かれているのだ、という理解です。
何もない所に、いきなり聖人が顕れて法を説いたりすることはないという、当たり前の事を当たり前に理解できる知恵は、仏法理解のために不可欠でしょう。

〇因果倶時不思議の一法之有り

「因位」つまり仏の弟子である修行者としての「本因妙」という立場を表にして法を説かれた大聖人様ですが、
本当は「果位」の立場、つまり教主の立場にある仏様です。
「因果倶時不思議の一法之有り」とは、まさにその法を所持されている大聖人様だけが言える言葉だと思います。

〇之を名けて妙法蓮華と為す

大聖人様が御自身のお覚りに「南無妙法蓮華経」と名付けられたという事です。

〇此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し

この部分が、外道義の人とそうでない人で解釈が大きく異なる部分でしょう。
仏法とは修行者一人ひとりの主観的な心を「一念」として捉え、その迷悟を、地獄~仏界の十界と表現し、仏界を目指させ、仏界を証得させるという教えです。
大聖人様の大聖人様から見た主観的な宇宙と大聖人様とは一体であり、大聖人様の一念に「十界三千の諸法を具足して欠減無し」という事で、大聖人様の宇宙は寂光土なのです。
大聖人様と同じ時間・同じ場所にいる平左衛門尉の宇宙が、同じ時間・同じ場所なのに寂光土ではないのは、それぞれの宇宙がそれぞれにとっての主観的な宇宙だからです。

そうであるのに半端な科学知識が災いして、万有引力の法則があるように宇宙と生命を貫く法則があるんだ、それが妙法なんだ、と思ってしまうのです。
生命と宇宙が一体である事、それ自体はなんの悟りでもありません。人間はおろか、そこらでワンワン吠えてる犬でもニャーニャーいってる猫でもみんな宇宙と一体です。
宇宙と一体でありながら、ウンウン苦しんでいるのです。
仏法と科学とは何の関係もありません。科学が遅れていて、地動説も知らず、疫病の原因が細菌やウィルスであることを知らず悪霊の祟だと思っているような社会でも、その時に相応した仏法を正しく信じれば、成仏できるのです。

〇之を修行する者仏因仏果同時に之を得るなり聖人化法を師と為して修行覚道し給へば妙因妙果倶時に感得し給ふが故に妙覚果満の如来と成り給し也

もうここは解説を加えるまでも無いでしょう。書いてある通りです。
そもそも、御書とは、ただひたすら有難いと思って拝読するのが基本で、自分自身の立場を有利にするために「切り文」したりしてはいけないと、常々思っています。
時々ネットで「経文に明らかならんを用ひよ、文証無からんをば捨てよ」(聖愚問答抄)等を拠り所に、切り文御書を貼り付けて大聖人気取りで悦に入ってる御仁を見かけますが、全くわかってない。
どんなに御書を貼り付けて「大聖人様の考えはこうだ」と叫んでみても、それは「切り文した人の考え」に過ぎないのです。
傍証として御金言を引用するのは、まぁいいとしても、その意見は大聖人様の意見ではなく、御書を引用して何がしかを主張している、その人の意見なのです。

その意見が道理に叶い大聖人の仏法を賛嘆している時に、それを読んだ人は、ああ素晴らしいな、有難いなと思うのではないでしょうか。例えば、日淳上人の御説法のようにです。


> 上記ご金言(一説には偽書説もあるが)に付いて長文に成っても構いませんので貴方のおっしゃる外道義の解釈と石田氏からご教授されたという正統的な解釈をお聞かせ願えませんか。

私の解釈は、上記のようなものです。「石田氏からご教授された」というのは少々事実誤認であり、石田氏の意見は大いに参考にさせていただきましたが、私自身の体験と研鑽で掴んだ、私自身の意見です。

>貴方のおっしゃる外道義の解釈

これについては、先日紹介した「日蓮正宗要義」が良い例だと思います。
これを初めて読まれた時のぽんぽこ狸さんの感想、

>>日蓮正宗要義初めて拝見しました。
  これを書かれた方はどなたですか。
  ご住職にお尋ねになられたのでしょうか?
  ハッキリ言いまして当宗の妙法観ではないです。
  真言密教の教義による妙法の説明です。
  又大霊等は聖書の創世記を彷彿とさせます。
  まず御法主上人猊下が書かれた書物では有りません。


これは的を射た感想であり、正しい分析だと思います。
ここに集われている方々の中で正信に戻れる素質が一番ありそうなのは、ぽんぽこ狸さんだとお見受けしていますが、
(法介さんは既に仲間なので除外)
黒川さんの書き込みを見てもわかる通り、かつての日顕猊下のお考えで書かれた本です。

私は、自身の所属寺院の御住職に「このような文章が放置されているのは良くない、修正していただきたい」と御住職にお願いして、寺院出入り禁止になりました。


ぽんぽこ狸さんにご質問します。
私が御住職にしたお願いは「寺院出入り禁止」になるような破仏法の行為なのでしょうか。
ご意見をお聞かせください。

 

天台大師

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)19時21分8秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  愚人さん、ご返答ありがとうございます。


愚人さんほどのお方であれば、日蓮大聖人の仏法と天台の仏法の違いなど既に頭に入っておられるものと思われます。


その上で、現在のようなポジションに身をおかれているという事を理解して、私なりに思う事をぶつけてみます。


天台大師は薬王菩薩の生まれ変わり?  という噂がありますが、愚人さんはどう思われます?


他の皆さんのご意見も伺いたいです^^
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)17時53分25秒 softbank126094226146.bbtec.net
返信・引用 編集済
   私は、名前だけ法華講員ですが、日蓮教の信者ではありませんし、勿論、最澄教の信者でもありません。天台宗寺院のホームページを引用したのは、空・仮・中の三諦と差別・平等・差別即平等の解説が平易で解りやすいからです。

 うちには、日蓮正宗の出版物が多くあるので日蓮正宗の教義は調べられます。ただし、一大秘法は南無妙法蓮華経の七字であり、日蓮には成道した意識はあっても日蓮正宗の主張する日蓮本仏論は無かったと考えています。また私は、深く対論出きるほどではありません。
 

愚人さんへ

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)16時51分1秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  今後の議論の方向性を見極める意味に於いて、愚人さんに一つ質問させて下さい。

私は大聖人様の仏法を基準に信心をしておりますが(法華講に席を置いております)、

愚人さんは、天台宗の教義を基準に置かれているのでしょうか?
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)16時07分13秒 softbank126094207185.bbtec.net
返信・引用 編集済
   天台宗寺院 福寿山観音寺のホームページからです。

 icon 今月の言葉

  凡そ差別なきの平等は仏法に順ぜず 悪平等の故なり
  また
  平等なきの差別も仏法に順ぜず 悪差別の故なり
  (伝教大師最澄『法華去惑』)

2009年12月1日(火)


これは、宗祖伝教大師さまの『法華去惑』という著作のなかにでてくるお言葉です。差別は「しゃべつ」と呉音で読みます。

さて、みなさんも、中道(ちゅうどう)という言葉を耳にしたことがあると思います。中道というのは、仏教におけるものの正しい見かたのことです。仏教では、偏ったものの見かたを戒めます。宗祖のこのお言葉は、まさにそのことを語っています。

仏教ではすべての事象は「空」であると考えます。たとえば、りんご、と私たちが認識する果物には、それ自身に独立して、その果物をりんごたらしめる、いわばりんご性というものがあるわけではなく、複雑多様な関係性、つまり縁起というありかたのもと、仮にりんごなるものとしてあるにすぎないととらえるわけです。

このことは、私たちをとりまくあらゆる存在、運動、要素、言葉その他すべてにあてはまり、実体的な我はないという意味(諸法無我)において、一切諸法は成り立ちとして平等であると、仏教ではみるのです。

ただ、宗祖はこの諸法の平等面だけを強調したとらえかたを「悪平等」と表現し、仏教的なみかたではないといっています。なるほど諸法は平等な原理で成立しているとしても、私たちが眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官と意という知覚器官を通して認識するさまざまな事象は、いわば空の作用としてそれぞれ独自の個性をもち、異なるすがたをして存在し、現実世界を構成しています。宗祖は、この現実相を全く無視した平等論は一面的な理想論にすぎないと批判しているのです。

では、外界の事象の差別相をどう観るべきか。この点、宗祖は一切皆空の理を得道し、諸法の本質的平等を観ずる目をもたず、無節操に現実相にとらわれるならば、前述の偏った平等の主張同様に仏教の道理にかなわない「悪差別」になるといっています。

もうおわかりだと思いますが、今回採り上げた言葉は、「悪平等」、「悪差別」の用語によって仏教的外界のとらえかたである中道について説いているのです。さまざまな誘惑に満ち溢れた世界に生きる私たちの欲望は、次から次へと湧き起こり尽きることがありません。このカラフルな差別相によって成立する現実世界で、日々、過度の執着をもたず真に自由に生きていくには、「悪平等・悪差別」に陥らないようにすることが肝要なのです。


 因みに日蓮正宗の阿倍日顕氏も空を平等、仮を差別、中を差別即平等とし、それそれ平等、自由、尊厳ともしています。

 また、『日蓮正宗要義』には、

 万物にそれぞれの差別を忘却した平等の性質を内包するその理を名付けて空諦というのである。(日蓮正宗要義三五ニ頁)

とあります。更に、三諦と自由・平等・尊厳の関係については、『日蓮正宗要義』の三五四頁から三五九頁を参照して下さい。阿倍日顕氏のは、探すのが面倒です。

 更に、更にお示しの大白法の記事の空の説明は、中村元著『龍樹』に詳しく載っています。
 

私の解釈の根拠

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)15時08分11秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  愚人さんへ

ttp://tidouji.la.coocan.jp/kyougaku/kiso-923.pdf
↑大白法・平成27年12月16日刊(第923号)に掲載された三諦の解説があります。


〈空諦〉

  「空」の字は一般的に「うつろ・ない・欠けた」という意味に理解されていますから、
  「空とは無(非存在)」と考えがちですが、仏教では精神のあるものも、ないものも、
   一切世間のものはすべて因縁によって生じており、因縁によって生じる事物は、それ自
   体に実体はないとし、これを空と説いています。つまり、一切の事物には実体がないと
   いう真理を空諦と言うのです。

 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)14時50分46秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  愚人さんは、

>互具は、仏から地獄まで互いに互いを具すので平等であるので空諦である。

空諦=平等

と解釈されていると受け止めて宜しいでしょうか?
 

ぽんぽこ狸様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)14時37分21秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用
  *法論法義があってこその当板です。
○全くその通りと存じますが「私の解釈」などと我見の自慰行為は法論法義とは言えないのかと思います。

法論法義は、我見でなく法に則らなければ、議論のしようがないですね。
今、この掲示板を荒らしに来ている3名の頭破者は、人の書いた内容を正しく読めない者どもと判断しています。
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)14時15分45秒 softbank126094212001.bbtec.net
返信・引用 編集済
   □十界互具は、差別にして而も無差別であり分別にして而も無差別を説く中諦である。(而二不二)

と、相違が生じておりますが、どう説明されます?

 ■十界は、仏から地獄まで差別の相なので仮諦である。
 互具は、仏から地獄まで互いに互いを具すので平等であるので空諦である。
 十界互具で差別即平等となり中諦である。

 私の文は、『一念三千法門』の十界互具の文を別して分けた文である。

 一念三千は、差別/仮諦に執われず、平等/空諦に執われず、而も差別/仮諦を認め、平等/空諦を認める差別即平等/中諦を説いたものである。

 法華講員と創価学会員とは差別の相があるが、互いに仏性を備えているので平等である。差別と平等を互いに認め合い互いに尊敬しあう事が大事だ。
 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)14時00分17秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  ちなみに、わたしの解釈は

百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり

    一般世間で認識されるところの百界の相 (仮諦)

千如は総て空の義なれば空諦の一なり

    百界を形成しているのは十如是というカラクリであるので実体無しの(空諦)

三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、

    五陰世間、衆生世間、国土世間が加わると言う事は、
    十界互具いずれかの境涯で働いた十如是によってもたらされた報い(宿業)が、
    五陰世間(身体や感性等々)をつくり、
    衆生世間(関わる人物等々)が決まり、
    国土世間(どこに生まれてくるか等々)が決まってくる。

    要するに、三千世間は現在の自分の姿であり、

    悩み苦しんでいる状態の自身の姿は仮諦で、
    仏の智恵に導かれて悟りを得た状態の自身の姿が中諦。

    よって而ニ不ニ。

というものです。
 

法介様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)13時56分30秒 pw126245072216.16.panda-world.ne.jp
返信・引用
  法介さんへのお返事です。

> 私にはどこにも書かれていないように見えるのですが、通りすがりの法華講員さんには、書いてあるように見えているのでしょうか?確認の為、その部分を貼り付けて頂けますか?
○???
何を書いてらっしゃるのか理解不能ですね。
私が何か書きましたか?
いよいよ幻覚の域にいかれたようですね。
 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)13時35分42秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  御書の一念三千法門には、

百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり
千如は総て空の義なれば空諦の一なり
三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、

とあります。

愚人さんが書かれている

>十界互具は、差別にして而も無差別であり分別にして而も無差別を説く中諦である。(而二不二)

と、相違が生じておりますが、どう説明されます?

 

Re:黒川 和雄@日蓮正宗様

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月24日(土)13時15分47秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  この版の管理人様は大月天さんでは無いのでしょうか。
黒川 和雄@日蓮正宗さんと言葉のニュアンスが若干違っている様に思うのですが、最近管理人様の投稿がないのでご多忙なのかなと心配していました。
当板は創価学会の某板や反某板のような便所の書き込みのような下劣、三流週刊誌並の痴呆板と違うので全国版としての品位は保たれていると存じ上げます。
法論法義があってこその当板です。
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)12時35分54秒 om126204058206.3.openmobile.ne.jp
返信・引用 編集済
   一念とは、0・018秒という極短い瞬間の心であり、心は、非情・有情に等しく具わる故に無差別であり空諦である。

 三千は、森羅万象差別の相にして仮諦である。

 一念の心は三千であり、三千は一念の心であるが故に而ニ不ニにして中諦である。

 
 

所属宗派を名乗りなさい。

 投稿者:黒川 和雄@日蓮正宗  投稿日:2016年 9月24日(土)10時47分10秒 p1137-ipbfp2603osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  ◎初投稿の方は、所属宗派・教団を名乗って下さい。
尚、所属不明者の投稿については警告の上、順次削除致します。

◎当室は日蓮正宗と他宗・他教団との法論を主としておりますので、
無宗教 の方は御遠慮下さい。
 

一念三千の法門

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)09時17分11秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  私が言ってる事がどういうことか

具体的に解りやすく説明しておきます。


<一念三千の法門>


「一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり」と御書にある通り、十如是がはじまりとなります。

例えばフルマラソンを走りぬいたランナーがいたとします。
このランナーは、汗びっしょりでクタクタの如是相と如是性をそなえた如是体という当体です。
そんなランナーの前に一杯のコップに注がれた水が差し出されました。のどがカラカラのランナーは差し出された水が如是縁(外縁)となって、如是力(内在する力)が発動しコップを手に取り、如是作(作用)と転じて水を一気に飲み干します。
飲み干したことが如是因(原因)となって如是果(結果)としてランナーはお腹を壊して、如是報(報い)の苦しみを味わいます。

ランナーが飲み干した水は、実は友人がうっかり放置していた腐った水だったのです。

クタクタで喉がカラカラだったランナーは、正常な状態ならば気づいたであろう水の腐りを、全く気づかないまま飲み干してしまったのです。
仏法では苦しみは煩悩から生じるとしますが、具体的には様々な物事への執着から起こります。このランナーは水が飲みたいという欲望に執着するあまり判断を誤ってお腹をこわして大変な目にあいます。
そのことがきっかけとなり腐った水を置いていた友人と喧嘩するにまで至りました。

このランナーが腐った水を飲んでしまい苦しんでいる姿は、空仮中の三諦でいうところの仮諦の姿にあたります。勤行で十如是の所を3回繰り返しますが、そのうちの一つはこの仮諦の「仮」の姿を捉えた十如是(仮の義で読む十如是)です。

友人と喧嘩別れしたランナーは家に帰って勤行をはじめます。最初は腐った水を放置しておいた友人に対する怒りで一杯でしたが、唱題していくなかで御本尊様の仏界の境地に感応し、怒りも静まり空の真理を得る(空の義で読む十如是)ことで、「物事には実体はない、友人の方に問題があるのではない。」と己の心と向き合う姿勢が出来ます。

そして、腐った水に気づかなかった自身のふがいなさを反省し「明日、友人に謝りに行こう!」という一つの悟り(中の義で読む十如是)を得て、友人との仲は修復されました。

この一連の流れの中で、ランナーの心は餓鬼界になったり修羅界になったり人界になったりで、十如是が起点となって十界が変動して現れていくのです。
このような当事者の心の動きを内道として主観的認識で説きあらわされたのが一念三千の法門です。

それを客観的な解説に陥ると、「分別・差別」(違い)という客観的認識(仮諦)で終わってしまい、空諦、そして中諦の悟りまで辿りつけません。だから学会員さんや法華講員さん達は、悪を実体化(差別)し本来は「実体無し」と判断すべき「仮の姿」(仮諦)に執着し、醜い攻撃を繰り返すのでしょう。

そもそも、宗門が客観認識(分別・差別)で展開された誤った一念三千の法門を説いているところに重大な問題があるのではないでしょうか。

以下に示す御書の内容が只今の解説です。


《一念三千法門》

此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身般若解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。


《 総勘文抄》

十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是(※ 衆生の仮諦の十如是)は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是(※ 仏の中諦の十如是)は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是(※ 仮諦の十如是)なり末とは諸仏の十如是(※ 中諦の十如是)なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去現在未来の三世の虚夢を見るなり(※ 仮諦)、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く(※中諦)夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり(※ 境地妙合のこと)

 

愚人さんへ

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)08時46分4秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  愚人さんへもう一つ

「空諦」に拘っているのではなく

「空の義の一念三千」を理解しないと「中の義の一念三千」の説明に進めないからです。
 

愚人さんへ

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)08時39分5秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  日蓮正宗宗務院発行の「日蓮正宗入門」の「釈尊一代の教え」五時八教の項で
(ttp://www.geocities.jp/shoshu_newmon/syakuson_2.htm)

    三諦円融・十界互具の原理を基として、一念三千という法門が明かされています。

と説明されていますように三諦は一念三千という法門を構成する大事な要素だからです。

正しく大聖人様の「一念三千の法門」を理解出来ているのであれば

三諦を抜いて一念三千の法門を語ることは出来ないと解るはずです。
 

返答

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)08時18分9秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  愚人さんへ

>一念三千もまた、無差別にして而も差別であり無分別にして分別

の部分を解り易く、具体的に説明してもらえると助かります。
 

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