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管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月13日(土)21時06分58秒 softbank126074092131.bbtec.net
返信・引用
  愚人殿。増長もいい加減に致せよ。

大聖人の御金言が灯明とならば、お主こそは其の光明に照らされる小人の一類である。

 ・差別面から言えば、其の通りです。平等面から言えば、小人である私も日蓮聖人も共に妙法蓮華経です。

されば、日蓮、などと呼び捨てるものではない!

 ・日蓮聖人は、そんな事を気にはしません。

>>『日蓮本仏義』のやり取りについては、其の後と言っているでしょう。

>・常に根底で論じていますけどね。

屁理屈などはよろしい!

 ・真実を言ったまでです。管理人の説は日蓮本仏の立場から論じ、私は日蓮非本仏の立場から論じていますよ。

>・管理人さんの求めに応じて、感応道交して答えているのに詰問される覚えはありません。

呆怒。何を云う。当方と感応道交しておらんから、こうやって詰問しているのではないか。

 ・私は管理人さんの答えて欲しいという願いに応じて、答えているのですが。

さても法華講員の当方が、本山に弓引く法華講員を問い詰めずして何とするか!

 ・私は弓を持っていないので、弓を引くことはできません。

覚えがないのは、お主の脳髄が麻痺しているからである!

 ・脳髄が麻痺していたら、こうして投稿など出来ていません。

して其の麻痺とは何にか。其れこそは講員でありながら、持すべき教義に違背する、其の麻痺を云うものである!

 ・なあ~んだ。そういう意味でしたか。

>・何ですかとは、何ですか。

呆。恍けるのもいい加減に致せ。

 ・惚けていません。真面目にやってます。

言っておくが、惚(とぼ)けてなんかおりません、などと言う恍けた返事などは要らんぞ。

 ・すみません。惚けた返事をしてしまいました。

哀。己(おのれ)と同じ考えであれば、其れこそが正しい、という事か。哀哀。

 ・私と同じ考えだということです。

よいか。そーゆーのを『我見』と言うのである。

 ・私も管理人さんも我見で投稿しているのでは?。

日蓮正宗しかよく知りません?

小笑。何をか云う。お主などは何も知っておらん。よいか、正宗に於いて「知る」という事は、当宗に随順する、
という事である。お主こそは、先ず以って信仰の何たるかを勉強しなさい。

 ・「信仰」をググってみます。

>「非日蓮本仏」と「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

呆哀。お主の頭は、七分に割れておるのか。

 ・七分に破れていたら、死んでいます。

日蓮大聖人は仏には非ず、而して、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、とな。

 ・えっ?!。日蓮聖人は漫茶羅本意ではないのですか?。管理人さんは日蓮聖人は、仏像本意だと考えているのですか?。

爾して、お主は言う。

末法の仏とは凡夫身の釈迦如来のことである。と。

されば、凡夫身の釈迦如来とは何か。して、凡夫身は何処(どこ)に居るか。答えよ。

 ・凡夫身の釈迦如来とは色相荘厳の仏様ではなく、凡身の仏様です。

して、お主は更に言う。

法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となる。と。

 ・はい。言いました。

されば問う。其の寿量品の教主は非仏であるか。此に答えよ。

 ・末法の法華経の行者である日蓮は、残念ながら非仏です。年のために言っときますが、非仏とは本仏ではないということですよ。

日蓮大聖人が曰く『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり』
仍って申さく『あにかの仏に異(かは)るべきや』と。【新編 262】

 ・私も管理人さんも本仏ではないが、仏です。文意は「当体義抄」と同じです。管理人さんは、「無始色心・・・金剛不壊の仏身とな」[新編御書262]ったから自分も本仏だと思うのですか?。

>「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

鼻笑。そうか。ならば言う。日蓮大聖人と御本尊との関係を此に述べよ。

 ・日蓮聖人は釈迦如来からの付嘱に順じて漫茶羅本尊を書き顕してくれる関係。

御義口伝第廿五 建立御本尊の事に曰く『日蓮慥(たしか)に霊山に於て面授口決せしなり。
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』と。【新編 1773】

 ・はい。漫茶羅本尊は、釈迦如来からの付嘱に順じたものであり、其の曼荼羅本尊は法華経の行者である釈迦如来の一身の当体です。

ったく、何ですかとは、何ですか。などと惚(とぼ)けている場合ではないぞ!

 ・だから、惚けていません!。


一、法華講員でありながら、宗門根義に唾し、違背する、其の本意は何か。

 ・籍だけ法華講員ですので、唾をかけるとか違背しているとかの感覚がありません。

>・信じていないので、違背云々の感覚自体がありません。

哀。だから、講員として脳髄が麻痺している、と言っているのである。間違いなかろうて!

 ・脳髄が麻痺していないから、こうして投稿をしています。

そーか。教判の基は、お主が感じた事をして云うか。鼻笑。

 ・笑って頂けて光栄です。

して、其れに感じて『日蓮は』とは大したものである。

 ・お褒めを頂きありがとうございます。

呆怒。小学者気取りもいい加減に致せよ。

 ・気取っていませんが・・・。

三、して、其の教判の基からして、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等の門流の何れが正義正統であるのか。

呆笑。お主の考える正義正統などは、其の本からして破綻しておるよ。無論、其れこそが己義の特徴でもあるが。鼻笑。

 ・ここでも笑って頂けて嬉しいです。

怒。一々の小返事はよい!

 ・早く言ってよ~ぅ。

だから、弥四郎国重の願(戒壇建立)に応じて、日蓮大聖人が戒壇本尊を開顕した、という事であろうが。

 ・『三大秘法抄』に戒壇と本尊を別けているように弥四郎国重法華講衆等の願いは本尊ではなく、戒壇です。

爾して、其の「願」と「開」は、応に能所一体の阿吽にして、『敬白』の意こそは、能所に於て亘るのである。

 ・「開」・・・どの「開」ですか?。私が南無妙法蓮華経から開いたと書いた「開」ですか?。

②加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

呆哀。だから、弥勒が願う処の『誠諦之語』とは何か、と訊いておる!

 ・国語の読解力のテストならば、「誠諦之語」で正解ですよ。

して、其の釈迦如来の自らの意思とは、一体何に依って表示と相成るか!

 ・経文に明らかです。前の投稿に書いた通りです。

さても『合掌して仏に白(もう)して』との続文は、応に『敬白』の意を示す唯願の文ではないか。

 ・その言葉が釈迦如来の「誠諦之語」を受けてのものであることが、解らないのですか?。釈迦如来は彌勒菩薩を首とする菩薩大衆に向かって、「誠諦之語」を「信解すべし」と言っているのです。菩薩大衆の願いに応じて「信解すべし」と言ったのではありません。
 天台大師が『法華文句』に、

 誠は是れ忠誠、諦は是れ真実なり。物を欺からざるの言は則ち真に詣る。昔の七方便は随他意にして誠実を告ぐるに非ず。今は随自意語にして之を示すに要を以てす、故に誠諦と云う、

と言われている通りです。

果たして、仏の本意は法華経を説く事にある、という。
しかし、衆生の願いは、仏の出世のみにて、法華経を説いて貰う事ではない、という。

ならば、衆生たる弥四郎国重法華講衆の願主たるは、何を願って願主と相成ったか。

 ・同じことを二回も書かせないで下さい。

と訊いているのである!

 ・同じことを二回も聞かないで下さい。

さても、弥勒が願う処の『誠諦之語』とは一体何か! 此に答えよ!

 ・釈迦如来の寿命に関する説法です。

③されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

呆哀。されば、凡夫僧の釈迦如来とは何か。

 ・本仏に即した凡夫僧です。これは日蓮正宗でも凡夫僧を本仏としているのですから理解できるのでは?。

爾して、地涌の菩薩は凡夫に非ざるか。

 ・「法華経」は直達正観ですから仏であると開いていたと思います。しかしそれは九界即仏界です。本仏ではありません。

爾して、日蓮大聖人は凡夫僧に非ざるか。

 ・凡夫僧です。

重ねて問う。

とお主は言うが、されば、其の久末一同に亘る付属の法とは一体何か。

 ・三大秘法です。

して、日蓮大聖人が、五百塵点劫の当初の衆生に説かれた、とは如何なる事か。

 ・前に説明した通りです。

されば、其の意こそ元初本因凡夫僧の御本仏に即するものではないか。

 ・それは五百塵点劫の当初の釈迦如来のことです。

須らく答えよ。

 ・答えました。

して、お主が申さく、

ならば、久末の衆生は、何の下種を受けて得道したか。

 ・南無妙法蓮華経です。

加えて『如来是一切衆生』の大義からすれば、当に地涌の菩薩こそも、衆生の一類と成るではないか。

 ・はい。

爾して、お主が言う。

されば、法華経に至らぬ菩薩の誓願とは、一体、如何なる法教を以って為し得るか。

 ・釈迦如来が、五百塵点劫の当初に修行した三大秘法です。

爾して、菩薩の願とは、即ち衆生の願に有らずや。

 菩薩の願いとは「四句誓願」です。また仏に教化された衆生と仏に教化されていない修行の間には能化の差別があります。

して曰く『今末法に入りて法華経の行者は、四弘能所感応の即身成仏の四弘なり』と。【新編 1862】

今こそ、此に答えるべし。

 ・日蓮聖人は地涌菩薩として「四句誓願」を行じたのです。

哀怒。詭弁を弄するものではない!

 ・奇弁?。不愉快だなあ。

お主の脳眼が腐っておるから、そーゆー風にしか見えないのである。

 ・腐ってたら生きていません。

さても、熱原の信者らが自らに対して『右現当二世の為に造立件の如し』などと記(しる)す筈も無く、
其れこそ、自身らの為に未来戒壇の建立を願って本尊を図顕するなど、彼の安永弁哲も引っ繰り返る程の
痴論である!

 ・そう思うのは自由です。

されば『当世の人人何の宗々にか本門の本尊戒壇等を弘通せる、仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず』との
御意こそは、応に来る御本懐の熟意にして、熱原農民の立ち入る法域ではないのである。

 ・そもそも私は弥四郎国重法華講衆等が熱原の農民だとは書いていませんよ。

されば言う。お主の様な腐眼の主(ぬし)こそ、我が富士門家の法義からして、全くの愚人である!
さても、名は体を顕すとは、此の事か。

 ・覚者ではないので愚人です。管理人さんは、覚者なのですか?。

個人の自由? ならば、宗教など必要ないわ! 此の言っている意味、解ろうか。哀哀。

いや、解るまいて。鼻笑。

 ・はい。解りません。

おお。ならば、他宗信徒の根本尊崇に唾するでない!

 ・管理人さんは他宗信徒の本尊に唾していないのですか?。

お主が自由ならば、こちらとて自由になろうが!

 ・はい。自由です。

果たして、互いが自由を尊ぶならば、批判など在り様もない! そうであろうが!

 ・管理人さんの願いに応じて答えているだけです。

ったく、お主は何も解っておらん! 応に愚人其のものである!

 ・先程も書いたように、私は覚者ではないので愚人です。

おお。お主の希望どおり「本性」にて書いたぞ。
本より、其の『本性』こそは、獅子身中の蝗蟲に対する呵責叱責である!
最早、お主などに「軟語」など必要ない。

 ・はい。必要ないです。

尚言うが、当方が一番に嫌うは、慇懃無礼な言動である。


以後、気を付けられよ。

 ・管理人さんも気をつけて下さい。

哀笑。さもありなん。

法華講員にして釈迦本仏を唱え、剰(あまつさ)え、バラモンに傾斜するとは。呆哀哀。

だからこそ、呵責するのである!

 ・管理人さんも読んでみて下さい。
 

石山厳虎殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月13日(土)16時58分38秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >初投稿です。

ようこそ破邪の蘭室へ。

>現在、日蓮正宗系無所属信徒という立場でありますが、少しだけ意見を言わせていただきたいと思います。

はて、日蓮正宗系無所属信徒とは是れ如何に。

果たして『系』とは「傍系」の意でありますか?

差支え無くば、お答え下さい。

>ようするに爾前権経は衆生のレベルに応じてさまざまの方便を設けて説いている。
>法華経は衆生のレベルに関係なく、いきなり真実を説いている。ゆえに難信難解なのですね。
>いずれにしても衆生の求めに応じて法を説くのは同じことで、でなければ仏様とはいったいナニサマなのか、
>ということになってしまいます。

其のとおりです。

其れが故の「能所一体」であります。

爾して『機根』と『機縁』は、同義に非ず。

実(げ)に其の大義こそ、大御本尊に示される『仏滅讃文』なのであります。

尚、当室に於いては、投稿文が即時に掲載されませんので、予めご了承下さい。

又、本日午後六時以降から明朝まで、当方管理人は不在となりますので、
今よりの御投稿は、明日の掲載となります。

あしからず。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月13日(土)16時56分4秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >私は日蓮聖人の「遺文を島(灯明)」とし「自己を島(灯明)」としています。

愚人殿。増長もいい加減に致せよ。

大聖人の御金言が灯明とならば、お主こそは其の光明に照らされる小人の一類である。

されば、日蓮、などと呼び捨てるものではない!

>>『日蓮本仏義』のやり取りについては、其の後と言っているでしょう。

>・常に根底で論じていますけどね。

屁理屈などはよろしい!

>・管理人さんの求めに応じて、感応道交して答えているのに詰問される覚えはありません。

呆怒。何を云う。当方と感応道交しておらんから、こうやって詰問しているのではないか。

さても法華講員の当方が、本山に弓引く法華講員を問い詰めずして何とするか!

覚えがないのは、お主の脳髄が麻痺しているからである!

して其の麻痺とは何にか。其れこそは講員でありながら、持すべき教義に違背する、其の麻痺を云うものである!

>・何ですかとは、何ですか。

呆。恍けるのもいい加減に致せ。

言っておくが、惚(とぼ)けてなんかおりません、などと言う恍けた返事などは要らんぞ。

>>だから当方は、そーゆー貴殿の日蓮正宗に対する執拗な違背心に対し、ならば一体、日蓮宗のどの門流教義が
>>貴殿にとって正義正統であるのか、と問うているのです。

>・日蓮正宗しかよく知りませんが、「非日蓮本仏」と「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

哀。己(おのれ)と同じ考えであれば、其れこそが正しい、という事か。哀哀。

よいか。そーゆーのを『我見』と言うのである。

日蓮正宗しかよく知りません?

小笑。何をか云う。お主などは何も知っておらん。よいか、正宗に於いて「知る」という事は、当宗に随順する、
という事である。お主こそは、先ず以って信仰の何たるかを勉強しなさい。

>「非日蓮本仏」と「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

呆哀。お主の頭は、七分に割れておるのか。

日蓮大聖人は仏には非ず、而して、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、とな。

爾して、お主は言う。

末法の仏とは凡夫身の釈迦如来のことである。と。

されば、凡夫身の釈迦如来とは何か。して、凡夫身は何処(どこ)に居るか。答えよ。

して、お主は更に言う。

法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となる。と。

されば問う。其の寿量品の教主は非仏であるか。此に答えよ。

日蓮大聖人が曰く『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり』
仍って申さく『あにかの仏に異(かは)るべきや』と。【新編 262】

>「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

鼻笑。そうか。ならば言う。日蓮大聖人と御本尊との関係を此に述べよ。

御義口伝第廿五 建立御本尊の事に曰く『日蓮慥(たしか)に霊山に於て面授口決せしなり。
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』と。【新編 1773】

ったく、何ですかとは、何ですか。などと惚(とぼ)けている場合ではないぞ!


一、法華講員でありながら、宗門根義に唾し、違背する、其の本意は何か。

>・信じていないので、違背云々の感覚自体がありません。

哀。だから、講員として脳髄が麻痺している、と言っているのである。間違いなかろうて!

二、して、其れらの思動を発(お)こしめる、教判の基とは何か。

>・日蓮聖人の遺文を読んで、感じた事を投稿しているだけです。

そーか。教判の基は、お主が感じた事をして云うか。鼻笑。

して、其れに感じて『日蓮は』とは大したものである。

呆怒。小学者気取りもいい加減に致せよ。

三、して、其の教判の基からして、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等の門流の何れが正義正統であるのか。

>・日蓮非本仏・漫茶羅本意・法勝人劣なら私の考える正義正統です。

呆笑。お主の考える正義正統などは、其の本からして破綻しておるよ。無論、其れこそが己義の特徴でもあるが。鼻笑。

>>此の三問についてお答え頂きたい。

>・答えました。

怒。一々の小返事はよい!

①ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

>・戒壇建立で、日蓮聖人の本尊は南無妙法蓮華経を開いたものだと考えています。

だから、弥四郎国重の願(戒壇建立)に応じて、日蓮大聖人が戒壇本尊を開顕した、という事であろうが。
爾して、其の「願」と「開」は、応に能所一体の阿吽にして、『敬白』の意こそは、能所に於て亘るのである。

②加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

>・この文の前に釈迦如来の言葉で釈迦如来が自らの意思で、
>諸の善男子、汝等當に、如来のジョウ諦の語を信受すべし[新編法華経428]
>と言っています。「之」とは釈迦如来が「随自意」で説く所の「ジョウ諦の語」です。(ジョウは言に成)

呆哀。だから、弥勒が願う処の『誠諦之語』とは何か、と訊いておる!

して、其の釈迦如来の自らの意思とは、一体何に依って表示と相成るか!

さても『合掌して仏に白(もう)して』との続文は、応に『敬白』の意を示す唯願の文ではないか。

よいか。此の詰問は、

>仏様の出世の本意は法華経を説くことである。
>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という、お主の言い分に対して向けているのである。

果たして、仏の本意は法華経を説く事にある、という。
しかし、衆生の願いは、仏の出世のみにて、法華経を説いて貰う事ではない、という。

ならば、衆生たる弥四郎国重法華講衆の願主たるは、何を願って願主と相成ったか。

と訊いているのである!

さても、弥勒が願う処の『誠諦之語』とは一体何か! 此に答えよ!

③されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

>・文のままです。五百塵点劫の当初において衆生は釈迦如来からではなく、釈迦如来から付嘱を受けた地涌菩薩から
>下種を受けて得道したように、末法に於ても釈迦如来から付嘱を受けた地涌菩薩から下種を受けて得道するということ
>です。

呆哀。されば、凡夫僧の釈迦如来とは何か。
爾して、地涌の菩薩は凡夫に非ざるか。
爾して、日蓮大聖人は凡夫僧に非ざるか。

重ねて問う。

>三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したもので、日蓮聖人は、それを付嘱されて五百塵点劫の当初の衆生と
>末法の衆生、則ち本未有善の衆生に説かれたのです

とお主は言うが、されば、其の久末一同に亘る付属の法とは一体何か。
して、日蓮大聖人が、五百塵点劫の当初の衆生に説かれた、とは如何なる事か。
されば、其の意こそ元初本因凡夫僧の御本仏に即するものではないか。

須らく答えよ。

して、お主が申さく、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。と。

ならば、久末の衆生は、何の下種を受けて得道したか。

加えて『如来是一切衆生』の大義からすれば、当に地涌の菩薩こそも、衆生の一類と成るではないか。

爾して、お主が言う。

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。と。

されば、法華経に至らぬ菩薩の誓願とは、一体、如何なる法教を以って為し得るか。

爾して、菩薩の願とは、即ち衆生の願に有らずや。

して曰く『今末法に入りて法華経の行者は、四弘能所感応の即身成仏の四弘なり』と。【新編 1862】

今こそ、此に答えるべし。

>>とまれ、貴殿が言っている事は、信者が作成した板本尊を、日蓮大聖人の大本懐と詐(いつわ)り、

>・私は、日蓮聖人が図顕したものであると偽っていません。

哀怒。詭弁を弄するものではない!

>・だから私は、初めから此処まで信者が造立したものであると書いています。

お主の脳眼が腐っておるから、そーゆー風にしか見えないのである。

さても、熱原の信者らが自らに対して『右現当二世の為に造立件の如し』などと記(しる)す筈も無く、
其れこそ、自身らの為に未来戒壇の建立を願って本尊を図顕するなど、彼の安永弁哲も引っ繰り返る程の
痴論である!

されば『当世の人人何の宗々にか本門の本尊戒壇等を弘通せる、仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず』との
御意こそは、応に来る御本懐の熟意にして、熱原農民の立ち入る法域ではないのである。

されば言う。お主の様な腐眼の主(ぬし)こそ、我が富士門家の法義からして、全くの愚人である!
さても、名は体を顕すとは、此の事か。

>・そう思うのは個人の自由です。

個人の自由? ならば、宗教など必要ないわ! 此の言っている意味、解ろうか。哀哀。

いや、解るまいて。鼻笑。

>・そう思うのは個人の自由です。

おお。ならば、他宗信徒の根本尊崇に唾するでない!

お主が自由ならば、こちらとて自由になろうが!

果たして、互いが自由を尊ぶならば、批判など在り様もない! そうであろうが!

ったく、お主は何も解っておらん! 応に愚人其のものである!


>・管理人さんの「本性」の言葉で書いてください。
>・よろしくお願いします。

おお。お主の希望どおり「本性」にて書いたぞ。
本より、其の『本性』こそは、獅子身中の蝗蟲に対する呵責叱責である!
最早、お主などに「軟語」など必要ない。

尚言うが、当方が一番に嫌うは、慇懃無礼な言動である。

以後、気を付けられよ。


追記。

>書き忘れましたが、私は最近になってヒンデゥイズムに興味を持ち、その関係の本をよんでいます。
>ラーマ・クリシュナの言葉を記録した『不滅の言葉』を読むと、ブッダと弟子との会話の様子が思いうかびます。
>また、ヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』も素晴らしいです。
>ここに書かれていることを出来ることから実践していきたいです

哀笑。さもありなん。

法華講員にして釈迦本仏を唱え、剰(あまつさ)え、バラモンに傾斜するとは。呆哀哀。

だからこそ、呵責するのである!
 

初投稿

 投稿者:石山巌虎  投稿日:2018年 1月13日(土)15時57分47秒 softbank126075083064.bbtec.net
返信・引用
  初投稿です。現在、日蓮正宗系無所属信徒という立場でありますが、少しだけ意見を言わせていただきたいと思います。

随自意・随他意の意味は、仏様が衆生の求めに応じて法を説いたのかどうかではなく、方便を帯びているかどうかの問題です。そこを勘違いしちゃいけませんね。難しい文証ですが、御書1651ページに伝教大師の言葉が出ています。

「但随他の五種性等・門外の方便・差別の権教・帯権の一乗を説いて未だ随自一仏乗等・露地の真実・平等の直道・捨権の一乗を顕はさず。」

これはかなり難しい文証ですが、話は簡単でしょう。ようするに爾前権経は衆生のレベルに応じてさまざまの方便を設けて説いている。法華経は衆生のレベルに関係なく、いきなり真実を説いている。ゆえに難信難解なのですね。いずれにしても衆生の求めに応じて法を説くのは同じことで、でなければ仏様とはいったいナニサマなのか、ということになってしまいます。

いわゆる大日如来がそうでして、615ページで大聖人は次のごとく仰せです。

「対機説法の仏は八相作仏す。」

これは大日批判ですが、もし法華経で説くところの久遠本仏が対機説法の仏でないとすると、まったくもってブーメラン状態になってしまいます。

言葉の意味を間違えて理解していると、その後の論理の組み立てもぜんぶ間違えちゃうことになりかねません。気をつけたいものですね。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月13日(土)07時18分21秒 softbank126074092131.bbtec.net
返信・引用
   書き忘れましたが、私は最近になってヒンデゥイズムに興味を持ち、その関係の本をよんでいます。ラーマ・クリシュナの言葉を記録した『不滅の言葉』を読むと、ブッダと弟子との会話の様子が思いうかびます。また、ヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』も素晴らしいです。ここに書かれていることを出来ることから実践していきたいです。  

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月13日(土)06時13分29秒 softbank126074092131.bbtec.net
返信・引用
  『日蓮本仏義』のやり取りについては、其の後と言っているでしょう。

 ・常に根底で論じていますけどね。

今は、在家・弥四郎国重法華講衆が、日蓮大聖人に敬白して、弘安二年の大御本尊を図顕し建立した、という
貴殿の妄言に対して、其の詰問を起こしている処です。

 ・管理人さんの求めに応じて、感応道交して答えているのに詰問される覚えはありません。

そして、其の対論に付随して、貴殿の立ち位置というものを、今一度確認すべく、貴殿の信条たるものを、此に
問うているのです。

して、その答えが、

>法華講員でも個の意見を投稿するのは自由であると、私は考えている。

とは何ですか。

 ・何ですかとは、何ですか。

さても、法華講衆の一員が、個人の自由であるから、日蓮と呼ぼうとも、日寛と呼ぼうとも、いやいや、
其れこそは、大御本尊は在家信者が造ったものだと言おうとも、個人の意見であるから構わない、と。

 ・その通りです。

よろしいか、愚人殿。

 ・はい。

そーゆー姿勢を仏法からして謗法違背というのです。

 ・私は日蓮聖人の「遺文を島(灯明)」とし「自己を島(灯明)」としています。

だから当方は、そーゆー貴殿の日蓮正宗に対する執拗な違背心に対し、ならば一体、日蓮宗のどの門流教義が
貴殿にとって正義正統であるのか、と問うているのです。

 ・日蓮正宗しかよく知りませんが、「非日蓮本仏」と「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

よろしいですか。本仏義は其の後の事です。

・根底では論じていますけどね。

では今一度問います。

・はい。

一、法華講員でありながら、宗門根義に唾し、違背する、其の本意は何か。

 ・信じていないので、違背云々の感覚自体がありません。

二、して、其れらの思動を発(お)こしめる、教判の基とは何か。

 ・日蓮聖人の遺文を読んで、感じた事を投稿しているだけです。

三、して、其の教判の基からして、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等の門流の何れが正義正統であるのか。

 ・日蓮非本仏・漫茶羅本意・法勝人劣なら私の考える正義正統です。

此の三問についてお答え頂きたい。

 ・答えました。

そして、其の後に於いて、当方からの詰問。

所謂、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という貴殿のセリフに対する、

①ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

 ・戒壇建立で、日蓮聖人の本尊は南無妙法蓮華経を開いたものだと考えています。


②加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

 ・この文の前に釈迦如来の言葉で釈迦如来が自らの意思で、


 諸の善男子、汝等當に、如来のジョウ諦の語を信受すべし[新編法華経428]


と言っています。「之」とは釈迦如来が「随自意」で説く所の「ジョウ諦の語」です。(ジョウは言に成)

③されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

 ・文のままです。五百塵点劫の当初において衆生は釈迦如来からではなく、釈迦如来から付嘱を受けた地涌菩薩から下種を受けて得道したように、末法に於ても釈迦如来から付嘱を受けた地涌菩薩から下種を受けて得道するということです。

との三詰について、お答えを頂戴したい。

 ・詰問される覚えはありませんが、答えました。

とまれ、貴殿が言っている事は、信者が作成した板本尊を、日蓮大聖人の大本懐と詐(いつわ)り、

 ・私は、日蓮聖人が図顕したものであると偽っていません。

日寛上人が文段にて仰せの『就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり』という教示こそ、応に信徒を欺く謀言
であり、さもなくば、当人の無知が生(な)せる虚文である、と言っているに等しいものであります。

 ・だから私は、日蓮聖人が図顕したものであると偽っていません。初めから此処まで信者が造立したものであると書いています。

本より、弥四郎国重を首(はじめ)とする在家法華講衆が、弘安期の曼荼羅相貌を踏襲し図顕し彫刻し、以って其の首題
直下に、日蓮大聖人の花押を大書刻印するなど、どんな少脳を以ってしても、理在と成るものではありません。

 ・そう思うのは個人の自由です。

さてさて、丁寧語は此処(ここ)迄となりましょうか。

 いや、其れがなるか、ならぬかは、貴殿からの御返答によります。

 ・管理人さんの「本性」の言葉で書いてください。

それではよろしく。

 ・よろしくお願いします。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月12日(金)15時21分40秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  『日蓮本仏義』のやり取りについては、其の後と言っているでしょう。

今は、在家・弥四郎国重法華講衆が、日蓮大聖人に敬白して、弘安二年の大御本尊を図顕し建立した、という
貴殿の妄言に対して、其の詰問を起こしている処です。

そして、其の対論に付随して、貴殿の立ち位置というものを、今一度確認すべく、貴殿の信条たるものを、此に
問うているのです。

して、その答えが、

>法華講員でも個の意見を投稿するのは自由であると、私は考えている。

とは何ですか。

さても、法華講衆の一員が、個人の自由であるから、日蓮と呼ぼうとも、日寛と呼ぼうとも、いやいや、
其れこそは、大御本尊は在家信者が造ったものだと言おうとも、個人の意見であるから構わない、と。

よろしいか、愚人殿。

そーゆー姿勢を仏法からして謗法違背というのです。

だから当方は、そーゆー貴殿の日蓮正宗に対する執拗な違背心に対し、ならば一体、日蓮宗のどの門流教義が
貴殿にとって正義正統であるのか、と問うているのです。

よろしいですか。本仏義は其の後の事です。

では今一度問います。

一、法華講員でありながら、宗門根義に唾し、違背する、其の本意は何か。

二、して、其れらの思動を発(お)こしめる、教判の基とは何か。

三、して、其の教判の基からして、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等の門流の何れが正義正統であるのか。

此の三問についてお答え頂きたい。

そして、其の後に於いて、当方からの詰問。

所謂、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という貴殿のセリフに対する、

①ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

②加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

③されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

との三詰について、お答えを頂戴したい。

とまれ、貴殿が言っている事は、信者が作成した板本尊を、日蓮大聖人の大本懐と詐(いつわ)り、日寛上人が文段にて
仰せの『就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり』という教示こそ、応に信徒を欺く謀言
であり、さもなくば、当人の無知が生(な)せる虚文である、と言っているに等しいものであります。

本より、弥四郎国重を首(はじめ)とする在家法華講衆が、弘安期の曼荼羅相貌を踏襲し図顕し彫刻し、以って其の首題
直下に、日蓮大聖人の花押を大書刻印するなど、どんな少脳を以ってしても、理在と成るものではありません。

さてさて、丁寧語は此処(ここ)迄となりましょうか。

いや、其れがなるか、ならぬかは、貴殿からの御返答によります。

それではよろしく。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月12日(金)09時17分55秒 om126211037000.13.openmobile.ne.jp
返信・引用
   書き足し、書き足しで申し訳ないです。

 日蓮本仏の文証となっているものに、「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり」というものがある。しかし、この文は釈迦本仏の文証であって、日蓮本仏の文証ではない。

 『総勘文抄』の「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」の文に明らかなように、五百塵点劫の当初に即座開悟した釈迦如来は凡夫身であり、凡夫僧である。

 末法は五百塵点劫の当初と同じ下種の時であり、拝する仏は凡夫身、凡夫僧である。凡夫身の釈迦如来。凡夫身の仏。「末法の仏とは、凡夫身の釈迦如来なり、凡夫僧の釈迦如来なり」

 この仏の事を『三大秘法抄』には、

 五百塵点劫の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作の三身の教主釈尊

と称している。つまり『御義口伝』の「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり」とは、凡夫身の釈迦如来のことである。




 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月12日(金)06時33分21秒 softbank126074121200.bbtec.net
返信・引用
   ・日興上人の本尊に日蓮聖人の判があっても、その本尊は日蓮聖人が書いたものではない。日興上人が書いたものである。  

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月12日(金)06時13分36秒 softbank126074121200.bbtec.net
返信・引用
   ・法華講員でも個の意見を投稿するのは自由であると、私は考えている。  

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月12日(金)04時54分10秒 softbank126074121200.bbtec.net
返信・引用
   ・弥四郎国重法華講衆等は日蓮聖人の檀那ですから、三大秘法です。その三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したもので、日蓮聖人は、それを付嘱されて五百塵点劫の当初の衆生と末法の衆生、則ち本未有善の衆生に説かれたのです。本仏は釈迦如来です。

 ・先に経文を出したように『法華経』は衆生の願いに応じて説かれたお経ではなく、仏様が自らの意思で説かれたお経です。寿量品に彼の文があっても日蓮聖人が言われているように『法華経』は随自意のお経です。

 ・三大秘法は日蓮聖人が釈迦如来から付嘱されて末法の衆生に説かれているのですから、弥四郎国重法華講衆等は日蓮聖人に戒壇建立を願いでたのです。しかしながら当時の状況から推察するに、「勅宣並びに御教書」は申し下されなかったと思います。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月11日(木)16時45分0秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  して観れば、三詰への御返答などは為されていない様であるが、本より多忙であろうから、御返答は追々でもよろしい。
兎も角、在家弥四郎国重等の敬白文による大御本尊の造立、つまり、弘安二年十月十二日の造立大御本尊とは、
在家弥四郎国重法華講衆等が造立した本尊の事だ、とする貴殿の結論が、今応に当室に於いて詰義分解されて、
実(げ)に貴殿の結論こそが、単なる未熟妄断の小論であった、という事が、此に今、決判されようとしている。

>管理人さんは、日蓮本仏論(義)の上から、本仏である日蓮聖人が衆生の機が熟したのを知り、衆生が日蓮が
>出世の本懐を遂げる事を願う機に応じて戒壇本尊を図顕したという論理でありましょう

うむ。其れも一理であるが、愚人殿。本より仏として機よりも大事なものがある。
無論、其の事もしっかと戒壇本尊に認(したた)められている。

まぁ、其れらの事は近日に譲るとして。

本日は改めて、愚人殿の御立場(信条)を此にお尋ねしたい。

果たして愚人殿は、自らの所属を日蓮正宗法華講に置いているが、そんなお主が『日蓮が』『日寛が』などと諸所に
於いて呼び捨てにし、当宗の根本義に対して疑難中傷するは、一体、何の目的が在って、其の様な行動を取っておるのか。
而して貴殿は、末法の本仏こそは釈迦如来などとも言っているが、ならば、末法の御本仏こそはお釈迦様だ、という、
所謂(いわゆる)、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等々の日蓮宗の何れの門流が、大聖人已来の正統正義を
伝持しておると云うか。いやいや、さに匪ず、何れの門流も皆同じく正義であると言うか。否、其れとも不正義であると
言うか。とまれ、其の判別の根拠を此に於いて示して戴きたい。さても、不信心者が日蓮法門を判釈批評するなどは、
是れ全く仏法義からズレ落ちるモノであるが、兎も角、法華講員にして釈迦本仏論を唱える、其の奇怪なる思動こそを、
今此に改めて論明して戴きたい。

※三詰への御返答は、其れからでもよろしい。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月11日(木)07時01分56秒 softbank126074103047.bbtec.net
返信・引用
   管理人さんは、某掲示板の閲覧者であれば、私が日蓮本仏論(義)者でないことなどしっていましょうに。

 管理人さんの説の根本は、この日蓮本仏論(義)にありましょう。その是非を論ずるのは必要なことだと思います。

 管理人さんは、日蓮本仏論(義)の上から、本仏である日蓮聖人が衆生の機が熟したのを知り、衆生が日蓮が出世の本懐を遂げる事を願う機に応じて戒壇本尊を図顕したという論理でありましょう。しかし釈迦如来の出世の本懐である法華経は、衆生の機が熟したのを知るも、衆生の求めに応じて説かれたのではないのです。

 仕事が有るので、このへんで。

 
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月10日(水)20時03分49秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用 編集済
  >仏様は衆生の願いに応じてでわなく、自ら法華経を説かれたのである。これを「随自意」というのである。
>管理人さんが言うが如く、衆生の願いによって説かれたのではないのである。

愚人殿。

当方が何時「法華経は衆生の願いによって説かれたものだ」と申したか。
其れこそは、論弁の転嫁ではないか。

さても、己(おのれ)の作文をして、相手の言い分に置き換えるとは、是れ如何。

よろしいか、愚人殿。

当方が(御義口伝に示さる文句の意を通して)述べた事は、大御本尊の対告衆は一体誰であるのか、との詰問に於いて、
まさか、其れこそは日蓮大聖人ではありますまい、との文に続き、

『されば、衆生に此の機有って仏を感ずる、とは応に願主の意に通じ、仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、とは応に
図顕造立に通ず』と述べ、加えて『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり』との当体義抄の一文を添えて、応に戒壇本尊に標さる『造立如件 本門戒壇之願主
弥四郎国重法華講衆等 敬白』とは、応に是れこそ能所一体の敬白文なりと述べ、更には『能とは衆生を救う仏をして
云うのであり、所とは仏に救われる衆生をして云うのある。而して其の両者は、因果に於いて一体である』と述べて、
此に結んだのである。

爾して当方は『能所一体であるからこそ、本懐造立の縁起となった弥四郎国重法華講衆に対し、お主等こそ所化の
大鏡であり、 応に未来法華本門大戒壇の建立願主に相応しい者達である。仍って此に能化たる日蓮が、現当二世の
大義を以って敬白し、此の大御本尊を図顕造立したのである。爾して【南無妙法蓮華経 日蓮】也と』と加文して、
仏と衆生との同體義、つまりは能所一体・能所不二に於ける機感相応・因果共生の極意を、戒壇本尊に標さる「敬白」
に即して述べたのである。

其れを貴殿は、不読の故か、不解の故か、いや、其れこそは故意であるのか。

当方の記述をして「管理人さんが言うが如く、(法華経は)衆生の願いによって説かれたのではないのである」と
其の論弁を転嫁したのである。

よろしいか、愚人殿。

抑も当方が論詰しておるのは、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という貴殿のセリフに対して、

ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

という三詰であって『法華経は衆生の願いによって説かれたものだ』などと一偏に論じているものではない。

愚人殿には、改めて紙背に徹し再読して戴こう。

して、其の後の論交に於いて、当方の『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり』という当体義抄の一文に関し、
当方が『当該文を別義からすれば、日蓮大聖人御一人こそが無作三身の教主にして能居の大主なのである』との結論を
提示した所、貴殿は「無作三身の仏様とは釈迦如来の事だ」と曰(のたま)って、とうとう其の馬脚を現したのである。

なんと。創価の弾(はじ)け者ならいざ知らず、我が日蓮正宗法華講の信徒から『仏様とはお釈迦様の事だ』とのセリフを
聞こうとは、当に末法、此の世も末と言えようか。呆哀哀。

されば、当方が示した本門寿量品の御文に対して、

>管理人さんは寿量品の文を出してあーでもない、コーデもないと書いているが、その文があったとしても『法華経』を
>「随自意」と称することは……

などと、当方が示した本門寿量品の文に対し「あったしても」とソッポを向いて、迹門方便品の一文を持ち出すとは、
其れこそ、アーでもない以下の、小駄話ではないか、と此に呆笑するものである。

其れにしても、

>下種を為す地涌菩薩すなわち法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となるのである。

との言い様は、応に当方が言う処の『機感相応』『能所一体』の姿に即するものではないか。

然るに『本未有善の衆生に「対して」は寿量品の教主と「なる」』とは、実(げ)に是れこそ『機感相応』『能所一体』の
顕文になるものではないか。

而して貴殿は「衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない」と断言したが、
実(げ)に「本未有善の衆生をして妙法を説く」とは、応に随自・随他を包含する、能所感応の極意ではないか。

曰く『能と云ふは如来なり。所と云ふは衆生なり、能所各別するは権教の故なり。法華経の意は能所一体なり』と。

                                      【新編 1862】

愚人殿。

解りょうか。


而して貴殿はこうも言う。『日蓮聖人が(無作三身の)教主だという説は誤りである』と。

ならば言おう。

即ち、御義口伝寿量品二十七箇の大事に曰く『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては
本地無作の三身なり。 今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。
されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり』と。

爾して、別すれば「末法の法華経の行者」とは応に日蓮大聖人の御事なり。

仍って当方が申さく『日蓮大聖人こそ無作三身の教主』也と。

果たして、無作の三身とは末法の法華経の行者なり。爾して、其の『法華経の行者(別して日蓮大聖人)をして
『無作三身の教主』とするに何の誤謬がある。本より、教主とは仏の異名である。爾して曰く『末法の仏とは
凡夫なり凡夫僧なり』と。

されば『日蓮聖人が教主だという説は誤りである』という貴殿の言い分こそ、彼の安永弁哲や、執行海秀や、
つまりは、そーゆー邪宗日蓮宗に属する小僧の主張に追従するものであり、当に釈迦円仏主義に汚染された
己義私見の増長弁であると、此に於いて責断するものである。

おっと。是れ以上は申すまい。是れ以上申せば、論点が『日蓮本仏論』に拡散していまうわい。
あいや、法華講員と対するならば『日蓮本仏論』ではなく『日蓮本仏義』と成るのであろうが、
とまれ、今の論点は『在家弥四郎国重等の敬白文による大御本尊の造立』の是非に関しての事であるから、
其の論駁の優勢を決判した後に、多忙時間の許される範囲に於いて『日蓮本仏義』を論証したいと思うものである。

其れでは愚人殿。

当方からの詰問、匆(いそがし)いとは思うが、須らく御返答頂こう。

無論、追々で結構。

当方とて忙しい身である。

尚、当方に対する直接のメールについては、当方連日の閲覧はしておらず、下手をすれば、五日後、七日後と
其のメール内容の確認が遅れる事も多々ある由。其の点、愚人殿には予めご了承願いたい。
一月六日のメール内容は、本日確認した次第。尚、本日は、今より明朝まで不在となる。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 9日(火)23時20分6秒 softbank126074087224.bbtec.net
返信・引用
   仏様が衆生の求めに応じて説かれたお経なのだろうか。『法華経/序品』を読むと、こんな文がある。


 諸の菩薩の為に、大乗経を説きたもう。無量義と名づくるなり。(中略)佛、此の経を説き已って、結跏趺坐し、無量義処三昧に入って、身心動じたまわず。[新編法華経59]


 この文から仏様は、無量義経を説いたあと禅定に入り、そのまま禅定を続けていたことが解る。そして『法華経/方便品』に進むと、


 爾の時に世尊、三昧より、安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、
 諸佛の智慧は甚深無量なり。


と、仏様は衆生の願いに応じてでわなく、自ら法華経を説かれたのである。これを「随自意」というのである。管理人さんが言うが如く、衆生の願いによって説かれたのではないのである。
 また、管理人さんは寿量品の文を出してあーでもない、コーデもないと書いているが、その文があったとしても『法華経』を「随自意」と称することは、日蓮聖人が、管理人さんが提示の文があるにも拘わらず


 法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり[新編御書1365)


と教示している通りであり、


 本門は三説の外ほかの難信難解・随自意なり[新編御書655]


と教示している通りである。



 総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。[新編御書1765]


 この「本地無作三身」とは日蓮聖人が『総勘文抄』に、


 釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして・・・


と教示しているように、釈迦如来である。日蓮は、『曾谷入道殿許御書』に、


 釈尊に随って久遠より已来初発心の弟子なり[新編御書784]


とあるように、釈迦如来の弟子の立場である。



 日蓮が弟子檀那等を「無作三身」成らしめる法はなにか、如何なる信心修行をして「無作三身」足らしめるのか。それは、『三大秘法抄』に、


 実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり[新編御書1593]


とある所の三大秘法である。日蓮聖人は、釈迦如来が五百塵点劫の当初に修行した、この三大秘法を神力品に於いて付嘱されたのである。



 『御義口伝』に、


 寿量品の教主とは我等法華の行者なり。さては我等の事なり[新編御書1779]


とある。これはどういう意味か。『曾谷入道殿許御書』を開くと、地涌菩薩について


 娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり[新編御書784]


とある。五百塵点劫の当初において、下種を施す時においては、衆生に対する下種は仏様ではなく菩薩が為したのである。末法という下種を施す時も五百塵点劫の当初の時と同じ様に、衆生に下種を施すのは仏様ではなく菩薩である。法華経の行者である。釈迦如来から付嘱を受け南無妙法蓮華経を唱え衆生に下種を為す地涌菩薩すなわち法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となるのである。
 ここで注意しなくてはいけないのは、釈迦如来からの付嘱が前提条件となっていることである。

 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 9日(火)15時05分44秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >一大事因縁こそが仏様の出世の本意なのである。つまり仏様の出世の本意は法華経を説くことである。

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

はて、仏の本意は法華経を説く事にある、という。
しかし、衆生の願いは、仏の出世のみにて、法華経を説いて貰う事ではない、という。

ならば、衆生たる弥四郎国重法華講衆の願主たるは、何を願って願主と相成ったか。

御答え頂こう。

爾して、寿量品に曰く『我等愚癡 誤服毒薬 願見救療 更賜寿命』と。

【我ら愚癡にして、誤って毒薬を服せり。願わくは救療せられて、更に寿命を賜えと】

されば、此等衆生の仏に対する救療願とは何か。

貴殿は言う。衆生が願ったのは仏の出世であり、法華経を説いて貰うことではない、と。

されば問う。

『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは何か。

さても貴殿の弁からすれば、此の寿量品こそは随他意の小品と相成るか。

して曰く『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』と。果たして此の文如何。


>『法華文句』の文は管理人さんの説の文証として適切ではないと指摘する。

さに匪ず。そこに示さる仏と衆生の因縁こそは、応に機感相応にして、能所一体の姿である。

然るに所生は必ず能生に帰す。以って、本懐大御本尊の造立縁起を此に思うべし。

>また、日蓮聖人が(無作三身の)教主だという説は誤りである。※( )内は筆者。
>日蓮聖人が『当体義抄』で明らかにした教主とは、「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して、
>世々番々に成道を唱へ、(中略)今日又中天竺の摩訶陀国に出世して……

御義口伝に曰く『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。
今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは
末法の法華経の行者なり』と。

仍って曰く『過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり。此の釈尊は寿量品の教主なり。寿量品の教主とは
我等法華の行者なり。さては我等が事なり』と。

されば、寿量品の教主とは、法華経の行者なり。爾して、法華経の行者とは無作の三身なりと云々。

仍って申さく『日蓮大聖人こそ無作三身の教主』也と。

>念のために付加しておくが、弥四郎国重法華講衆等が教主でないことは勿論であり、修行を考案し、
>仏力法力を拵えたのでもないことは当然である。また、信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、
>その成就は仏様の教えによるものであるから、そこに自ずと次第は存する。

だからこそ問うておる。

弥四郎国重法華講衆の在家らが、其の境涯を以って大御本尊を顕したという、その境涯とは、如何なる
仏道修行に依って得られたのか。当方は其の事を問うているのである。

して観れば、

>信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。

と言ってはいたが、今観れば、

>信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、その成就は仏様の教えによるものであるから、
>そこに自ずと次第は存する。

と述べられて、ようやく能所不二の実義を領解した様ではある。

以って其れを思ふ可し。

されば、本門戒壇の大御本尊こそ、応に弟子檀那に授与されし御本尊であり、願主弥四郎国重は、
応に未来戒壇必設の願主と成って、其の未来戒壇に御格護さる大御本尊建立の対告衆と相成ったのである。
爾して其の阿吽こそは、応に能所に於いて機感相応し、遂には戒壇大御本尊の御建立と成って結したのである。
実(げ)に『敬白』とは、其の大義を以って拝しなければならない。

尚、愚人殿は、文中に於いて「仏様の教え」「仏様と同じ仏身」などと言われているが、其の『仏様』とは、
誰の事を指しておるのか。されば、弥四郎国重法華講衆が、其の『仏様の教え』によって『仏様と同じ仏身』に成り、
大御本尊を造立した、という事になるが、其れで間違いないか。

とまれ、反詰が重なってしまったが、一つ一つで良いから、御返答願いたい。
無論、忙しいのはお互い様であるから、一遍にこなす必要もなし。

須らく追々でよろしい。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 8日(月)23時03分52秒 softbank126074092117.bbtec.net
返信・引用
  衆生に此の機有って仏を感ずる。故に名づけて因となす。

 この「因」とは、純円の機根の衆生が仏様を感ずることである。


仏機を承けて而も応ず。故に名づけて縁と為す。

 この「縁」とは、仏様が純円の機根の衆生の機に応ずること。


是を出世の本意と為す。

 一大事因縁こそが仏様の出世の本意なのである。つまり仏様の出世の本意は法華経を説くことである。

 衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。もし仏様が衆生の法華経を求める心に応じて法華経を説いたのならば、法華経は「随自意」の経ではなく「随他意」の経となってしまい、爾前権経と同列になってしまう。よって、この『法華文句』の文は管理人さんの説の文証として適切ではないと指摘する。また『当体義抄』の文も然りである。

 また、日蓮聖人が教主だという説は誤りである。日蓮聖人が『当体義抄』で明らかにした教主とは、「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して、世々番々に成道を唱へ、(中略)今日又中天竺の摩訶陀国に出世して、(中略)唯一の妙法蓮華を説[新編696]」いた仏様のことであり、日蓮聖人のことではない。念のために付加しておくが、弥四郎国重法華講衆等が教主でないことは勿論であり、修行を考案し、仏力法力を拵えたのでもないことは当然である。

 また、信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、その成就は仏様の教えによるものであるから、そこに自ずと次第は存する。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 8日(月)14時37分58秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。
>その境涯をもって顕した大漫茶羅に失はありません。

だから、其の能所一体の意義に於いて、(大聖人が)弥四郎国重等を召し出し、大御本尊を御図顕遊ばされたのである。
よろしいか。(弥四郎国重法華講衆)が大聖人を召し出して、大御本尊を図顕造立したのではないのである。

>管理人さんが提示した、
>能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。
>是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず之を疑うべからず
>との文は、その前文から読めば、日蓮聖人が弟子檀那等に信心修行の功徳を述べた文であり、日蓮とその弟子と檀那は、
>仏力・法力・信力・行力の四力が合して、その身は仏身と顕れ、その身の住む処は寂光土となることを明かした文である。

愚人殿。よく観られよ。

其の当方が提示した上記文の前に、御義口伝の一節を提示しているであろう。

曰く『衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』と。

されば、衆生に此の機有って仏を感ずる、とは応に願主の意に通じ、仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
とは応に図顕造立に通ず。

仍って、其の機縁の倶時、則ち、能所一体の意義に於いて、当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀等那の中の事なり、
と結文したのである。

よろしいか、愚人殿。

お主が論じておるのは、総義であって、当該文を別義からすれば、日蓮大聖人御一人こそが無作三身の教主にして
能居の大主なのである。

仍って申さく『一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏(つつ)み、
末代幼稚の頸(くび)に懸けさしめたまふ』と。【観心本尊抄】

本より、五字の内に珠を裏み、とは大曼荼羅御図顕の事であり、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ、とは
応に曼荼羅御本尊授与の事をして云うのである。

よろしいか。愚人殿。大慈悲の仏とは、在家信者の弥四郎国重法華講衆等を指すものではなく、其れこそは
大能化たる日蓮大聖人の御事を指して云うものである。

して観るに、

>日蓮聖人が弟子檀那等に信心修行の功徳を述べた文であり、日蓮とその弟子と檀那は、仏力・法力・信力・行力の
>四力が合して、その身は仏身と顕れ、その身の住む処は寂光土となることを明かした文である。
>信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。

などと貴殿は言っておるが、ならば、其の仏道修行、其の功徳を得給う仏道修行とは一体誰が拵(こしら)えたのか。
まさか在家衆生が修行を考案し、仏力法力を拵(こしら)えたとでも言うか。哀。

愚人殿。

一体に於いても総別の二義が存在する、という事を領解しなさい。
さすれば、真(まこと)の能所不二が観えてこよう。

猶(なお)此に言うが、以後、敬白の文を以って、大御本尊を疑難するのは、やめた方がよろしい。

決定打無くば、其れこそは凡打と成る。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 7日(日)22時21分11秒 om126211002096.13.openmobile.ne.jp
返信・引用 編集済
   ○管理人さんが提示した、


 能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず之を疑うべからず


との文は、その前文から読めば、日蓮聖人が弟子檀那等に信心修行の功徳を述べた文であり、日蓮とその弟子と檀那は、仏力・法力・信力・行力の四力が合して、その身は仏身と顕れ、その身の住む処は寂光土となることを明かした文である。

 信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。その境涯をもって顕した大漫茶羅に失はありません。


 
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 7日(日)19時22分57秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >私は、初信の位なのですか?。だとしたら六即でいえば名字即ですね。

愚人殿。何を言っておるのか。

当方が言ったのは、一般に云う初心に立ち戻ってという意味に於いて『初信』云々を述べたのであって、
貴殿が名字即だの、どーのなどと、そんな意味で申しているものではない。哀。

愚人殿。

其の様に理屈を捏ねていると、真に観えるものも観えなくなさってしまうぞえ。

>(弥四郎国重法華講衆等が造立した大漫茶羅に)「日蓮敬白」の文字は在りません。
>(日向が造立した板本尊に)「日向敬白」はなくとも日向上人の署名はあるのでは?。

哀。愚人殿。「敬白」がなくとも署名があるのでは、とは如何なる事か。

貴殿は「日蓮敬白」という四文字が願文に記(しる)されていないから、その本尊は弥四郎の本尊だ、と
言っているのであろう。其のお主が「敬白はなくとも本人の署名があるのではないか?」とは如何なる事か。

ならば言う。

署名とは花押の事であるのか。してそれは違うというのであれば、何をして違うのか。して其れに軽重はあるか。
加えて、首題直下の「日蓮」大書のお認(したた)めは、其(そ)も著名であるか、其れとも花押であるか。
而して、署名と花押が同義となれば、其れこそ「日蓮敬白」はなくとも、日蓮大聖人の署名(花押)があるのでは?
という貴殿の理屈に適うのではないか。されば問う。造立主の弥四郎国重の花押は何処(どこ)にあるか。

>日蓮本尊集を見ますと日蓮聖人の本尊には授与書きの無い本尊がありますが、その本尊の対告衆は誰なのでしょうか?。

ならば、本門戒壇の大御本尊に授与書きは無いか。
して、無いとなれば、造立主(ぬし)の弥四郎国重は、誰に此の大御本尊を授与したのか。
して、有るとなれば、此の大御本尊の対告衆は誰か。まさか、日蓮大聖人であるのか。

>能所一体の上から在家が大漫茶羅を造立しても良いのでは?。

哀哀。おいおい愚人殿。

能所一体とは、其の様な意味ではないぞ。

能とは衆生を救う仏をして云うのであり、
所とは仏に救われる衆生をして云うのある。
而して其の両者は、因果に於いて一体である、という意味である。

よいか愚人殿。一体とは同等の意ではない。其れこそは不二の意である。
本より、師弟不二の意も然りである。
さても、貴殿の解釈からすれば、仏と衆生は一体であるから、衆生が仏に成り代わって仏菩薩を教化するも良し、
という事になる。其れで間違いないか。

>日蓮聖人が造立したとしたら「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白」と書いた理由が解らない。
>能所一体だからと言って何故に「弥四郎国重法華講衆等敬白」と書く必要が有ったのか?。

能所一体であるからこそ、本懐造立の縁起となった弥四郎国重法華講衆に対し、お主等こそ所化の大鏡であり、
応に未来法華本門大戒壇の建立願主に相応しい者達である。仍って此に能化たる日蓮が、現当二世の大義を以って
敬白し、此の大御本尊を図顕造立したのである。爾して【南無妙法蓮華経 日蓮】也と。

よろしいか。愚人殿。此の文節の意が理解出来ないとなれば、今一度、而二不二論を再勉し、其れこそは、
総別二義、当文跨節・大綱網目・待絶二妙・体内体外等を学び直して、当に真の依義判文の遊撃手となる
事こそが、貴殿にとって最良の選択である、という事を、此に改めて諫言するものである。

尚、

>日蓮聖人が造立したとしたら「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白」と書いた理由が解らない。
>能所一体だからと言って何故に「弥四郎国重法華講衆等敬白」と書く必要が有ったのか?。

などと文句を言っておるが、

当方からして言えば、もし、弥四郎国重等が願主として敬白するならば、

「本門戒壇之願主 法華講衆弥四郎国重 敬白」文

と書くのが自然であり、

「本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白」文

などと、弥四郎国重法華講衆自らを指して「等」に纏めるなどは、まこと不自然な書き様と言わざるを得ない。

よろしか。愚人殿。

御本尊は須らく、日蓮大聖人から弟子檀那に授与されるものである。爾して願主は、其の御本尊授与を
願うのである。しかも其の阿吽は、強盛なる信心に於いて感応道交し、以って敬白の意は、能所不二の
尊形と成って、御本尊の態相を顕すのである。


尚、当方は本日は午後八時より、明日以降は午後五時より留守となり、何れも帰宅は翌早朝と相成る。
しかも、其れから就寝する故に、投稿文の確認掲載は、帰宅後すぐに行うも、投稿のやり取りなどは
一日ずれる事もある。誠に申し訳ないが、其の点については予め御了承願いたい。

さても「遊撃」の「遊」が、「遊戯雑談」の「天台遊」に成らざる事を、唯々願うのみである。


          以如件 願主 破邪の蘭室管理人 大月天 敬白

 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 6日(土)21時37分43秒 softbank126074085016.bbtec.net
返信・引用
   私の再投稿、お手数をかけてしまい申し訳ありませんでした。

して観れば、深夜から早朝へと弛(たゆ)まぬ御投稿。

時間が乏しい当方からして、何とも羨ましい限りではある。

 ○九連休で時間がタップリありました。

されば、彼の人には遊戦、あの人には真戦なりと…。

はて、当方には、彼の人、あの人の区別など付かないが、とまれ「遊戦」の「遊」こそは「遊撃」の「遊」であって
欲しいと願うものである。本より法華講員同士、大御本尊の御事について遊ばれては堪らない。

 ○私が遊んでいるのは、彼の人です。

本より、大御本尊の脇書に記(しる)されし「法華講衆等」とは「法華講の衆」と読むのではなく「法華の講衆」と
読むが正解である。例としては「上野講衆等」という呼名があるが、是れこそも「上野講の衆等」と読むものでは
ない。然るに「法華講衆」「上野講衆」をして「御講衆」と呼ぶものである。依って大御本尊に「法華講」という
文字があるから、後世の偽作である、などという疑難は、其れこそ単なる難癖として片付けられるものである。
しかし、我ら法華講員が、其の『法華講衆』をして、現在の法華講に当て嵌めるは、決して我田引水ではない。

とまれ、愚人殿が「講衆」の意に於いて、大御本尊は後世の造立ではない、という、法華講員としての初信に立ち
戻れた事は、何よりも重要である。

 ○私は、初信の位なのですか?。だとしたら六即でいえば名字即ですね。

愚人殿。

其れこそは「遊言」ではないか。

 ○そうなんですか?。

一体、弥四郎国重を首(はじめ)とする法華講衆の在家らが、現当二世という謳い文句を奉じて、大御本尊の甚深なる
御相貌を、しかも弘安期の筆例を以って御板に図顕彫刻するなど、創価の阿呆ではあるまいし、其れこそは文面の配列に
眼目を奪われた、応に管見の痴読であると、此に諫言申し上げよう。

 ○痴読であると断言されても、私は弥四郎国重法華講衆等が大漫荼羅を造立したと思っています。

>此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。

此処(ここ)とは何処(どこ)か。

さても、此処(ここ)とは、何処(どこ)の此処(ここ)であるか。

 ○弥四郎国重法華講衆等が造立した大漫茶羅です。

言うまでもない。此処も何処も、皆、戒壇御本尊の御尊体の中に御坐(おわ)します。

 ○私は、弥四郎国重法華講衆等が造立したと思っていますので。

されば、首題直下に認(したた)めらる御花押【日蓮】の御大書こそ、全ての御文字に往き亘る御允判である、という事を
此に領解しなければならない。

されば、日蓮花押と中央に御大書されるに、加えて又、日蓮敬白などと御名は書かれまい。
本より大書花押こそが全てである。

 ○日興上人が書いた本尊には、日興上人が「日興花押」と署名しています。弥四郎国重法華講衆等が造立した大漫茶羅には、弥四郎国重法華講衆等が「弥四郎国重法華講衆等敬白」と署名したのです。

尚、対比するには、余りに御無礼とは思うが、身延日向の幽霊板本尊には、

【日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す】(大白蓮華・堀上人に富士宗門史を聞く)

と在るようだが、此にも「日向敬白」という文字其のものの配列はない。

 ○「日向敬白」はなくとも日向上人の署名はあるのでは?。

其れよりもよりも、弥四郎国重法華講衆等が大御本尊を敬白造立したとなれば、果たして、此の戒壇御本尊の対告衆は
一体誰であるのか。まさか日蓮大聖人では有りますまい。ならば願主弥四郎国重、己(おのれ)をして対告衆と為すか。

 ○日蓮本尊集を見ますと日蓮聖人の本尊には授与書きの無い本尊がありますが、その本尊の対告衆は誰なのでしょうか?。
 私は、四条金吾や富木常忍が自分が拝む為に仏像を造立したように、弥四郎国重法華講衆等も自分達で拝む為に大漫茶羅を造立したと推測します。

御義口伝に曰く『衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』と。

 ○感応道交。仏様は衆生の仏様を求める機に応じて娑婆世界に出世するということを示した文ですね。

仍って、当体義抄に曰く『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず、
之を疑うべからず』と。


爾して大御本尊の脇書に曰く『右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白』と。

うむ。応に是れこそ能所一体の敬白文。

 ○能所一体の上から在家が大漫茶羅を造立しても良いのでは?。


実(げ)に之を思え、之を思え。

 ○日蓮聖人が造立したとしたら「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白」と書いた理由が解らない。能所一体だからと言って何故に「弥四郎国重法華講衆等敬白」と書く必要が有ったのか?。


 

如水さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 6日(土)20時37分40秒 softbank126074085016.bbtec.net
返信・引用
  横からご意見申し上げます。

 ○これからもお願いします。

> 戒壇の大御本尊は在家信者達が造立した

仏様はモノじゃない!

ので、上記のもの言いは不信の言葉です。

 ○在家が板本尊を造立しても、その板本尊には妙楽大師が「乃ち是一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」と教示しているように、仏性が具わっているのです。ですからモノではあっても、お互いに其所は弁えて扱いたいですね。私は、つい乱暴に扱ってしまいますが。

個人個人で多種多様な思いがあるのは当たり前ですが、私たち日蓮正宗の信徒の根幹は、戒壇の大御本尊様と血脈付法の御法主様を信じ奉ることですから、不信が生じれば、お師匠様にご指導を願い、公言は控えましょう。

 ○初めから信なくして入っているので。

必ず後悔なさいますから

 ○たぶん、苦しむということだとおもいますが、強盛な信心を貫き通した日蓮聖人は、晩年に手紙に署名を出来ないぐらい病に苦しむ衰弱してしまいました。日蓮聖人には、病に苦しんで衰弱するという何かしらの因縁があったのでしょう。私も苦しんで衰弱することがあれば、それは過去世からの因縁だと思って受け入れていくつもりです。
 

投稿者各位

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)18時14分29秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  誠に恐れ入りますが、急用が入り、今より、明朝まで留守となります。(其の後・就寝)
従いまして、其の間の投稿文は、即時に掲載されません。

実に不便と承知はしておりますが、これも、宿坊を首(はじめ)とする私憤アンチからの荒らし投稿を防止する為の
ものであり、現に其の抑止が効いている状態であります。

重ねまして、投稿者各位には、御寛容の程、お願い致します。

其れでは、今より出掛けます。
 

如水殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)17時53分39秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  御注意の程、御尤(もっと)もであります。

法華講員として、本門戒壇の大御本尊を疑するは、是れ全く身蟲の其れでありますから、そういう御仁に対しては、
応に慈折の意を以って論ずるのみであります。

しかし、日蓮大聖人の御内証を、我ら凡愚なる庶人が、何にをか量らんなどとは、当に増上慢の極みとなりましょう。

とまれ、疑難の箇所を、種々破折するに於いては、充分に気を付けて参りたいと思っております。

尚、如水殿に於かれましても、御自身の許容する範囲に於いて、是非とも、正義顕揚・邪義破折の論弁を投じられます
よう、当室管理人として此に願うものであります。


【お知らせ】

※当室の投稿モードは「確認後掲載」となっておりますので、投稿文が即時掲載される事はありません。
あくまでも管理人が新たな投稿文の有無を確認した後の掲載となりますので、管理人が不在となる場合は、
掲載が数日後になる事もありますので、予め御了解の程、お願い申し上げます。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)17時52分0秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >苦戦?。遊戦ですね。彼の人が遊戦なので私も遊戦をしています。あの人は真戦のようなので私も真戦をしました。

して観れば、深夜から早朝へと弛(たゆ)まぬ御投稿。

時間が乏しい当方からして、何とも羨ましい限りではある。

されば、彼の人には遊戦、あの人には真戦なりと…。

はて、当方には、彼の人、あの人の区別など付かないが、とまれ「遊戦」の「遊」こそは「遊撃」の「遊」であって
欲しいと願うものである。本より法華講員同士、大御本尊の御事について遊ばれては堪らない。

>日蓮聖人の時代に「○○講衆」の文はなく、板本尊は日蓮滅後に造立されたものと考えていましたが、
>『講衆に関する研究』という論文を読み、日蓮聖人の時代に、「○○講衆」が仏像・鐘を造立したことを知り、
>日蓮聖人の檀那達が「法華講衆」として曼荼羅を造立することは有りうると考えた次第です。但し、日蓮聖人が
>知っていたかは解りません。

本より、大御本尊の脇書に記(しる)されし「法華講衆等」とは「法華講の衆」と読むのではなく「法華の講衆」と
読むが正解である。例としては「上野講衆等」という呼名があるが、是れこそも「上野講の衆等」と読むものでは
ない。然るに「法華講衆」「上野講衆」をして「御講衆」と呼ぶものである。依って大御本尊に「法華講」という
文字があるから、後世の偽作である、などという疑難は、其れこそ単なる難癖として片付けられるものである。
しかし、我ら法華講員が、其の『法華講衆』をして、現在の法華講に当て嵌めるは、決して我田引水ではない。

とまれ、愚人殿が「講衆」の意に於いて、大御本尊は後世の造立ではない、という、法華講員としての初信に立ち
戻れた事は、何よりも重要である。

>弥四郎国重法華講衆等が「敬白」した内容は、「現「佛滅後二千二百二十四年・・・大曼荼羅」を「現当二世為」に
>「造立」したことです。此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。

愚人殿。

其れこそは「遊言」ではないか。

一体、弥四郎国重を首(はじめ)とする法華講衆の在家らが、現当二世という謳い文句を奉じて、大御本尊の甚深なる
御相貌を、しかも弘安期の筆例を以って御板に図顕彫刻するなど、創価の阿呆ではあるまいし、其れこそは文面の配列に
眼目を奪われた、応に管見の痴読であると、此に諫言申し上げよう。

>此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。

此処(ここ)とは何処(どこ)か。

さても、此処(ここ)とは、何処(どこ)の此処(ここ)であるか。

言うまでもない。此処も何処も、皆、戒壇御本尊の御尊体の中に御坐(おわ)します。

されば、首題直下に認(したた)めらる御花押【日蓮】の御大書こそ、全ての御文字に往き亘る御允判である、という事を
此に領解しなければならない。

されば、日蓮花押と中央に御大書されるに、加えて又、日蓮敬白などと御名は書かれまい。
本より大書花押こそが全てである。

尚、対比するには、余りに御無礼とは思うが、身延日向の幽霊板本尊には、

【日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す】(大白蓮華・堀上人に富士宗門史を聞く)

と在るようだが、此にも「日向敬白」という文字其のものの配列はない。

其れよりも何よりも、弥四郎国重法華講衆等が大御本尊を敬白造立したとなれば、果たして、此の戒壇御本尊の対告衆は
一体誰であるのか。まさか日蓮大聖人では有りますまい。ならば願主弥四郎国重、己(おのれ)をして対告衆と為すか。

御義口伝に曰く『衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』と。

仍って、当体義抄に曰く『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず、
之を疑うべからず』と。

爾して大御本尊の脇書に曰く『右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白』と。

うむ。応に是れこそ能所一体の敬白文。

実(げ)に之を思え、之を思え。
 

一水四見

 投稿者:如水  投稿日:2018年 1月 6日(土)13時02分39秒 sp49-96-24-34.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  横からご意見申し上げます。

> 戒壇の大御本尊は在家信者達が造立した

仏様はモノじゃない!

ので、上記のもの言いは不信の言葉です。

個人個人で多種多様な思いがあるのは当たり前ですが、私たち日蓮正宗の信徒の根幹は、戒壇の大御本尊様と血脈付法の御法主様を信じ奉ることですから、不信が生じれば、お師匠様にご指導を願い、公言は控えましょう。

必ず後悔なさいますから。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 6日(土)10時43分47秒 softbank126074115165.bbtec.net
返信・引用 編集済
   私の他板での投稿を閲覧して頂きありがとうございます。

 苦戦?。遊戦ですね。彼の人が遊戦なので私も遊戦をしています。あの人は真戦のようなので私も真戦をしました。

 日蓮聖人の時代に「○○講衆」の文はなく、板本尊は日蓮滅後に造立されたものと考えていましたが、『講衆に関する研究』という論文を読み、日蓮聖人の時代に、「○○講衆」が仏像・鐘を造立したことを知り、日蓮聖人の檀那達が「法華講衆」として漫荼羅を造立することは有りうると考えた次第です。但し、日蓮聖人が知っていたかは解りません。


 「佛滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也 右為現当二世 造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重 法華講衆等敬白」

 弥四郎国重法華講衆等が「敬白」した内容は、「現「佛滅後二千二百二十四年・・・大漫荼羅」を「現当二世為」に「造立」したことです。此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。



 14:10頃に「曼」を「漫」に、「未有」を「未曾有」に、「本門戒壇之本尊」を「本門戒壇」に訂正しました。    
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)09時35分18秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  何やら苦戦を強いられている様であるが、やはり貴殿の言う『戒壇の大御本尊は在家信者達が造立した」というのは
無理があるのではないか。当方、今まで色々と大御本尊に対する疑難を論駁して来たが、在家信者の集団が大御本尊を
図顕建立した、という話は、あまり聞いた事が無い。

本より大御本尊に認(したた)めたる「敬白」とは、能所一体、つまりは、所化以って同体なり、という日蓮大聖人の
御内心から拝さなければ、其の深義などは読み取れないであろう。

爾して、法華講に身を置く貴殿が、上記の様な発言をするとは、余りにも残念ではあるが、とまれ、御講衆の人々が
其れが弥四郎であれ神四郎であれ、そういう信者なりが敬白の意を以って寄り集まり、戒壇の御本尊を造立したという
論説は、到底、戴けるものではない。

兎も角、在家信者が御板御本尊を図顕建立した、という主張は、控えた方がよろしい。
いや、其れこそは訂正すべきであろうと思う。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 3日(水)22時21分46秒 softbank126074098128.bbtec.net
返信・引用
  愚人殿はどうでしょうか。無差別主義者でありますか?


 愚人は、無差別主義者ではありません。


優しく振る舞う人間と、子供を何人も殺した殺人鬼と、果たして其の両者に対して同じ態度言動で
臨まれますか?


 実際に殺人鬼と接したことはありませんが、接する機会があった時は同じ態度で臨みたいと思っています。


当方は、優しく振る舞う御仁に対しては『素晴らしい』と言い、何人も殺した者に対しては『馬鹿野郎!』です。


 被害者が身近な人ではないかもしれませんが、愚人は、被害者・加害者の間の過去世からの因縁を考えてしまいます。


>雑言・強言・自讚気なる体、人目に見すべからず、浅猿きなるべし。

愚人殿はどうですか?

そういう言動はなされておりませんか?


 しています。


>柔らかに又強く、両眼を細目に見、顔貌に色を調へて閑に言上すべし。

本より、其の言上に伴うセリフが前文に示されております。
因みに其の中には、邪師の死に様(ざま)も含まれております。


 はい。


>また「人の高下」については、智者大師が「六即」を教示していますように、
>「六」において「差別/階梯」がありますが、「即」においては「平等」であることに
>留意する必要があると思います

天台ですか。


 天台です。


おっと、呼び捨てにしてしまいましたが、興門義からすれば理門の師ですから、
我ら富士門徒からして、決して無礼(自讃)にはなりますまい。


 自讚にはならないと思います。


>また日蓮聖人も『御義口伝』、
>上慢の四衆の所具の仏性も、不軽所具の仏性も、一種の妙法なりと礼拝するなり。
>不軽は善人、上慢は悪人と、善悪を立つるは無明なり。此れに立って礼拝の行を為す時、
>善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。
>と教示しています。

不二のみならず而二不二であります。

仍って、一方に対するも正義。又、一方に対するも正義。

しかし、そこには一体義が在る。

無論、其れを承知の上で論折するのであります。

爾して、日蓮大聖人は、一方で蚊(カ)だ・虻(アブ)だ・蝦蟇(ガマ)だ、という言動を許し、
又、其の一方で自讃強言は浅ましき事であると戒めらる。

実(げ)に法華の大慢とは、而二不二の奥義を識(し)った上での事であると、此に知るべきでありましょう。

当室の巻頭文に云く、

『仮令強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損するは妄語・強言なり。
是れを思って臨機応変』

本より、此の姿勢こそが全てであります


 天台の六即も一遍に偏らない中道を説いたものだと思います。
 

如水殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 3日(水)21時32分21秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  明けましておめでとうごさいます。

本年もよろしくお願い致します。

御投稿は、お時間がある時で構いません。

行動の年。

お互いに頑張って参りましょう。
 

あけましておめでとうございます

 投稿者:如水  投稿日:2018年 1月 3日(水)18時41分40秒 dw49-106-192-158.m-zone.jp
返信・引用
  管理人様お久しぶりです。

本年は元旦11時の勤行会に一家五人揃って参詣できました。

なかなか投稿できませんが、できるときには参加いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

 

馬鹿の骨頂

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 3日(水)18時34分16秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  ハンドルネーム…朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪

糞笑。何という捨てハンか。

お主は阿呆か。

>熱原の法難は『法華衆』であり、板本尊の『法華講衆』は存在しない。
>よって大石寺のパッチワークニセ本尊は、日蓮滅後数百年後に板に彫られた本尊。

哀笑。

其の事、完璧に破折してやるから、こっちに来なさい。

無論、無親告、捨てハン、串投稿は厳禁である。

何だ。其れは出来ぬとな。小鼻笑。

哀。何を怖がっておる。

ったく、得体の知れぬ蝙蝠野郎め!

毎回、当室を荒らすはオマエだろう!

パッチワーク?

そりゃ、オマエの頭だよ。

哀笑。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 3日(水)18時09分56秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  明けましておめでとうございます。

横乍(なが)らも早速の御意見、此に承りました。

愚人殿はどうでしょうか。無差別主義者でありますか?

優しく振る舞う人間と、子供を何人も殺した殺人鬼と、果たして其の両者に対して同じ態度言動で
臨まれますか?

当方は、優しく振る舞う御仁に対しては『素晴らしい』と言い、何人も殺した者に対しては『馬鹿野郎!』です。


>雑言・強言・自讚気なる体、人目に見すべからず、浅猿きなるべし。

愚人殿はどうですか?

そういう言動はなされておりませんか?

>柔らかに又強く、両眼を細目に見、顔貌に色を調へて閑に言上すべし。

本より、其の言上に伴うセリフが前文に示されております。
因みに其の中には、邪師の死に様(ざま)も含まれております。

>また「人の高下」については、智者大師が「六即」を教示していますように、
>「六」において「差別/階梯」がありますが、「即」においては「平等」であることに
>留意する必要があると思います

天台ですか。

おっと、呼び捨てにしてしまいましたが、興門義からすれば理門の師ですから、
我ら富士門徒からして、決して無礼(自讃)にはなりますまい。

>また日蓮聖人も『御義口伝』、
>上慢の四衆の所具の仏性も、不軽所具の仏性も、一種の妙法なりと礼拝するなり。
>不軽は善人、上慢は悪人と、善悪を立つるは無明なり。此れに立って礼拝の行を為す時、
>善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。
>と教示しています。

不二のみならず而二不二であります。

仍って、一方に対するも正義。又、一方に対するも正義。

しかし、そこには一体義が在る。

無論、其れを承知の上で論折するのであります。

爾して、日蓮大聖人は、一方で蚊(カ)だ・虻(アブ)だ・蝦蟇(ガマ)だ、という言動を許し、
又、其の一方で自讃強言は浅ましき事であると戒めらる。

実(げ)に法華の大慢とは、而二不二の奥義を識(し)った上での事であると、此に知るべきでありましょう。

当室の巻頭文に云く、

『仮令強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損するは妄語・強言なり。
是れを思って臨機応変』

本より、此の姿勢こそが全てであります。
 

(無題)

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 3日(水)10時31分52秒 softbank126074082012.bbtec.net
返信・引用
  管理人さん並びに閲覧者の皆さん、明けましておめでとうございます。

管理人さんの返答を読み、愚人が思ったことです。


日蓮聖人は『教行証御書』に、


 雑言・強言・自讚気なる体、人目に見すべからず、浅猿きなるべし。


と教示している事にも留意が必要です。また日蓮正宗宗務院においても、


 そして、その確信あふれる折伏は、けっして非常識や感情的な言動になってはならないことは言うまでもない。日蓮大聖人は『教行証御書』に、

 柔らかに又強く、両眼を細目に見、顔貌に色を調へて閑に言上すべし。

と教示遊ばれている。(平成十一年度第五回 法華講連合会夏期講習会 一般コース テキスト)


と法華講員に指導しています。また「人の高下」については、智者大師が「六即」を教示していますように、「六」において「差別/階梯」がありますが、「即」においては「平等」であることに留意する必要があると思います。また日蓮聖人も『御義口伝』、


 上慢の四衆の所具の仏性も、不軽所具の仏性も、一種の妙法なりと礼拝するなり。

 不軽は善人、上慢は悪人と、善悪を立つるは無明なり。此れに立って礼拝の行を為す時、善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。


と教示しています。


 其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢四衆所具の仏性も又不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向かって礼拝を成す時、浮かべる影又我を礼拝するなり云云。






 
 

御挨拶

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 2日(火)07時36分50秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  謹賀新年

明けましておめでとうございます。

投稿者、及び閲覧者の皆様に於かれましては、本年もどうか宜しくお願い致します。

存知の如く、今や創価学会は、其の頭破謗法の態をあからさまにし、日蓮大聖人の大本懐たる戒壇の大御本尊を棄捨し、
一閻浮提総与の大義を、信者の立場から変更せしめる、という愚挙に投じ、其の頭破悩乱の醜態は、痴呆池田の無力を
踏み台にして、増々以って拡散しているのであります。

今更に言うまでも無く、其の痴態たるは、彼の身延に於ける教義本尊の痴乱雑乱の態に同ずるものであり、此に於いて
創価学会の本尊義は須らく破綻したのであります。仍って、我ら富士門信徒に於いては、此の一点に於て呵責すべきで
あり、其の他の論議は、須らく枝葉末節の小論と成るのであります。

尚、本年こそは、創価学会の邪義変節の痴態を呵責するは当然の事として、邪流日蓮宗、否、邪流釈迦円仏宗の屁理屈を
鋭意此に反打し、以て其の痴言の限界を知らしめ、枝流亜流の小山教義をも痛打して、此に興門・富士五山の総本家たる
正威を徹底させるべく、法華の慢を大いに発揮して、邪宗撲滅の一翼たらん事を、此に改めて決意するものであります。

尚、本年も、痴情アンチからの荒らし投稿を防する為、当室の掲載モードは「確認後掲載」とさせて頂きますので、
投稿者の皆様には、何卒、御理解の程、お願い申し上げます。
 

フウヤ殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 2日(火)07時33分45秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >管理人さん、初めまして私、法華講員の者です。いつも拝借させていただいております。

其れは有難う御座います。

>それでは本題に入らせて頂きます。

唐突に何でしょうか。

>と言っても簡単な質問です、掲示板の設立理由を教えてください。
>いや、それか仮に大まかな理由として、破折の為とおっしゃられるのであれば、互いにヘイトにて罵りあうだけが
>破折と言えるものなのか教えて頂きたいです、回答よろしくお願いします

簡単な質問となれば、簡単にお答え致しましょう。

掲示板の設立(開設)理由は、創価学会を首(はじめ)とする、全邪宗教に対する本尊の破折を主意とするものです。

又、互いにヘイトにて罵り合うだけが破折と言えるものなのか、とのご質問については、当室の巻頭文をお読み
下さい。

………………(読まれましたか?)

されば、日蓮大聖人に曰く『教に依って人の勝劣を定む。先ず経の勝劣を知らずして何ぞ人の高下を論ぜんや』と。
仍って申さく『されば現に勝れたるを勝れたりという事は漫に似て大功徳となりれるか』と。

以上の御文がヒントとなります。
 

掲示板設立の理由?

 投稿者:フウヤ  投稿日:2018年 1月 1日(月)10時33分41秒 om126200112161.15.openmobile.ne.jp
返信・引用
  管理人さん、初めまして私、法華講員の者です。いつも拝借させていただいております。 それでは本題に入らせて頂きます。
と言っても簡単な質問です、掲示板の設立理由を教えてください。
いや、それか仮に大まかな理由として、破折の為とおっしゃられるのであれば、互いにヘイトにて罵りあうだけが破折と言えるものなのか教えて頂きたいです、回答よろしくお願いします。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月31日(日)20時21分21秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  早速の御投稿、此に承りました。

尚、当室の投稿形式は「確認後掲載」となっておりますので、管理人が投稿を確認するまで、
投稿文は掲載されません。従いまして、管理人が留守となっている場合は、掲載が一両日遅れる
場合がありますので、予めご承知置き下さい。
 

管理人氏

 投稿者:愚人  投稿日:2017年12月31日(日)17時28分9秒 softbank126074114159.bbtec.net
返信・引用
  来年から掲示板に投稿させて頂きます。

来年も管理人氏を始め閲覧者の皆さんにとって佳い歳でありますように。
 

同穴の幽霊

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月30日(土)14時12分2秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  一致派身延に肩入れした勝劣派顕本法華宗の長谷川義一が云く、

『仏滅後の本尊の所謂(いわゆる)、何と申しまするか。仏滅後二千二百二十余年或いは三十年と書かなくては
いけないそうでございまするが、見た人によりますると云うと、仏滅後二千二百二十余年という事になっている
わけだ。してみるというと、本尊七箇相承に従いますというと、三十年と書けという事になっておる。
そうすれば、その時分には品物(戒壇本尊)がないということがはっきりと証拠立てるように、私は考えておるので
御座います。(中略) しかも仏滅後は、三十余年と書かなくてはならないと(御本尊七箇相承には)書いてあるので
ございますけれども、見た人によりますると、はっきり二十年であると云う事であるのです。私一ぺん拝見に行きたい
のですけれども、他門の坊さんには見せないからして、眼が潰れるってんだよ』 【小樽問答誌 90頁】

鼻笑。

勝劣顕本の僧の癖して、身延日向の一致派に肩入れするとは、此奴も幽霊の一種であろうか。呆哀笑。

して、此の幽霊僧が云く、

『私が身延の用心棒になったと云われまするが、私は新たな日蓮宗を設立したと云う意味において、
(ここ小樽に)参っているわけだ! それだけ云っておきまして、そこで本尊の問題に移りまするが…』

鼻笑。

何をか言わん。

お主らの開祖たる日什は、次の様な置文を遺しておる。

云く『大聖の御門弟六門跡、並びに天目等の門流、皆方軌弘法共に大聖の化儀に背く処有るに依って
同心せざる処也』と。

重ねて弟子の日金が云く『当流は六門徒に替わりて一幡を挙げて名称之れ有り、その理之れ多し、
その中に本迹に勝劣を立て給ふ是れを以て肝要と為す、此れ既に蓮祖の本意上行付嘱の大旨也、
此の旨に迷ひ本迹に浅深を立てず傍正を明かさざる事は誠に自立廃忘の師敵対也』と。

鼻笑。

大聖人の本意に背く一致派の共ずれは、自立廃忘の師敵対なりと、開祖先師が責断しているにも拘らず、
身延派の片棒を担いで法論に臨むなどは、当に足の無い幽霊の姿そのものであり、又、こういう連中こそが、
己(おのれ)の頭破を差し置いて、富士門の本尊教義に文句を垂れるのである。

何度も言うが、相手のケツの臭いを嗅ぐ前に、手前(てめー)のケツの臭いを嗅いでみなさい、という事である。

とまれ、こーゆー信学滅裂の幽霊たちには、何を言おうとも、手前(てめー)のケツの臭いを差し置いて小理屈を
述べ立てるのであるから、其れこそは「非学者論に負けず』が如く、延々と喋り続けるのであろう。哀笑。
して、そーゆー幽霊たちに『何でオマエらには足が無いのだ!」と詰問すると、何とも幼稚な返事が返ってくる
のである。哀。だからこそ言う! 相手のケツがどーのと言う前に、手前のケツの臭いを嗅いでみろと。呆怒。

重ねて言うが、日蓮大聖人の仏法に於いては、不信こそが大罪であり、其の不信から発する誹謗こそが重罪である、
という事を先ずは識らねばならない。

因みに、身延山久遠寺に立てられている本多日生(顕本法華宗)の銅像は、未だに撤去されておらんのか!?
ったく、一致派の総本山に、勝劣派顕本の坊主像が立てられているとは、何をか言わんや。
実(げ)に是れこそも幽霊の姿そのものではないのか!

創価学会、小平教学部長が吼して云く、

『知りたいのならば信心を奮い起こして拝みに行け! 信心の無い者に、見せる、見せない、見世物じゃ
あるまいし、信心の無い者が拝めるわけが無いではないか!!』

ご尤も。

仍って日蓮大聖人が詰論して曰く『信じて問ふか、信ぜずして問うふか』と。

さても不信謗法の幽霊たち。

今日も今日とて、小理屈を述べる。

実(げ)に情けなき、無知の姿よ。

呆哀哀。
 

幽霊問答

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月29日(金)18時31分51秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  言わずもがな。

幽霊には足が無い、とは、昭和人であるならば、誰もが知っている物言いではある。

して、其れを言うならば、足の無い幽霊こそは、地に足が着いていない姿ともなる。

はてさて、そんな幽霊が、昨今大いに土中から現れて、あーだ、こーだと、小理屈を並べ、
地に着いていない己(おのれ)の無足を惚(とぼ)けて、相手が立っている土台に文句を言い立てる。

哀笑。

解ろうか。

其の幽霊とは、己(おの)が身を置く宗派教団という土台から足を遊離し、其れこそは地に足が着いていない、
違背退転の姿をして云うものである。而して地に足が着くとは、応に所属する宗派教団にして確固たる信心を
構築するに在ると云えよう。本より、日蓮大聖人の仏法は、先ず以って其の信心こそが重要となる。

されば、無足不信の幽霊たちが、己(おのれ)の恥態を顧みず、相手が信奉する本尊教義をして、あーだ、こーだと
文句をいう。

哀哀。いやはや何とも、情けない姿ではないか。

さて観れば、そんな幽霊たちが、大御本尊の仏滅讃文について、あれやこれやと小理屈を交わしておる。

先ずは幽霊Sが云う。

『日寛上人が「本門戒壇の本尊は三大秘法の随一/真実究竟の本尊」と結論付ける前提として、
弘安元年以降が「仏滅後二千二百三十余年」となり、この表示が「究竟の極説」だと定義されているのです。
だから、これに符合しない「楠板曼荼羅」は「本門戒壇の本尊」と称する事はできないのです。

更に云く、

『「仏滅後二千二百三十余年」を「究竟の極説」としているのに、「本門戒壇の本尊」が「楠板曼荼羅」であるならば、
日寛上人は「楠板曼荼羅」をご覧になっていないか、その後造り直されたと何度も申し上げているのです』


対して幽霊Gが云く、

『弘安元年以降ならば本尊に「仏滅後二千二百二十余年」とあっても問題ないのです。
何故ならば、日寛は日蓮の遺文や本尊の弘安の年号と仏滅後二千三十余年(ママ)を対比して
弘安元年以降が「仏滅後二千三十余年」となり、即ち弘安以降が「究竟の極説」となるからです。
日寛は「仏滅後二千三十余年」とある本尊が「究竟の極説」と教示しているのではなく、
仏滅後二千三十余年となる弘安元年以降に図顕された本尊が「究竟の極説」と教示しているのです』

はてさて、一方の幽霊が「日寛上人」と尊称すれば、一方の幽霊が「日寛」と呼び捨てにする。

爾して此の幽霊問答。「日寛上人」と尊称している方が正論を述べているのか、と思いきや、
さに匪ず、実は「日寛」と呼び捨てにしている幽霊の方が正しい事を言っているのである。

つまり、大曼荼羅御図顕の御本意(大聖人御魂魄の観心本尊)を、二千二百三十余年に当たる弘安以降に御顕発された
事が重要なのであり、其の御本意を根因としての「二十余年」であり「三十余年」である、という事を領解しなければ
戒壇本尊に記(しる)された仏滅讃文(二十余年)の御意などは到底理解し得ないという事なるのである。

更には幽霊Sが、

『「仏滅後二千二百三十余年」を「究竟の極説」としているのに、「本門戒壇の本尊」が「楠板曼荼羅」であるならば、
日寛上人は「楠板曼荼羅」をご覧になっていないか、その後造り直されたと何度も申し上げているのです』

などと言っているが、其れこそは幽霊Gが云うが様に「究竟の極説」とは、弘安元年已後の御図顕を指すものであり、
更に言えば『二十余年』『三十余年』との御算定は、須らく日蓮大聖人の寿量文底の御内証から明記されたものであり、
其の真の御相貌こそが、中央首題と直下判形の大書を以って「究竟の極説」つまりは御本懐の御相貌として顕示遊ばさ
れたされたものと領解する事こそが重要となるのである。仍って、日寛上人は、弘安以降、種々ある御本尊の中から、
特に戒壇の大御本尊を指して「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり」と
御断言されたのである。

爾して、此等の本尊義は、三大秘法の中核たる一大秘法が、人法に亘るという事を識らなければ、到底領解する事など
出来ないのである。

加えて幽霊Sは『日寛上人は「楠板曼荼羅」をご覧になっていないか』などと疑妄を呈しているが、其れこそは、
日寛上人御自ら『戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇』と述べられている事から
して、全く当たるものではない。ましてや、日寛上人が戒壇の大御本尊を偽造したかの様な物言いは、無足の幽霊を通り
越して、三首妖怪の類(たぐい)ではないか、と此に責断するものである。

尚、其の後に於いて幽霊Sは、二十余年と書かれていても、三十余年と書かれていても別段問題ない、と改論し、
専(もっぱ)ら「三十余年究竟説」に拘(こだわ)っているのは、他ならぬ日寛上人だ、などと疑妄を転嫁して、
だから其れに符合しない「楠板曼荼羅」は「本門戒壇の本尊」と称する事はできない、などと誑弁を吐いておる。

ったく、二十も三十も問題ないのであれば、抑も弘安以降の極説を以って、日寛上人が弘安二年の大御本尊を究竟と
定義されるに、其れこそお主からして何の問題など無い、という事になるではないか。

尚、富士大石寺塔中久成坊(日尊開基)の本堂には「二千二百二十余年」の御板御本尊が御安置されているが、
其の常住御本尊の御裏書には日寛上人の御判形があり、其れこそは「二千二百二十余年」の御本尊を日寛上人が
御允可された証拠ともなるのである。

加えて幽霊Sは、(三十余年に拘った)日寛上人だけではなく、歴代法主も「二千二百三十余年」を重要視されて、
書写本尊は全て「二千二百三十余年」と記載されています、などと見て来たような事を言っておるが、
「二千二百二十余年」の御本尊などは、日開上人のみならず、日精上人、日俊上人、日文上人なども書写されて
いるのである。さても、其れらの御本尊、一体、どの御本尊を以って書写されたのか。爾して戒壇の大御本尊は
「二十余年」であるのか「三十余年」であるのか。実(げ)に其れこそは、甚深なる拝仰を以って見地しなければ、
単なる引き算・足し算に終わって仕舞う、という事を能く能く識らなければならないのである。

尚、当方が御格護する日達上人御書写の御守御本尊には、『仏滅後正像未弘之大本尊也』と認(したた)められて、
二十余年、三十余年等の年記などは記(しる)されていない。

何だ。おかしいか。小鼻笑。
おいおい、其の様に頭を抱えても解るものではないぞ。哀笑。

とまれ、SとGの幽霊問答。

其の結論を言えば、軍配はGに上がったと云えよう。

爾して此の二人の幽霊。

もしや鎌倉時代にタイムスリップして、日蓮大聖人に会ったならば、さすがに『おい、日蓮』とは呼び捨て出来まいが、
其れこそは開口一番、曼荼羅がどーの、干支がどーの、仏滅がどーの、いやいや其れこそは『日蓮さんは仏かいな』と
身延紛いの己義私論を並べ立てて、三位房よろしく学者然を気取るのであろうが、そんなお主らは以下の日蓮大聖人の
御詰問によって、即時に悶絶してしまうのである。

曰く、法華の文を尋ねるは信じて問ふか、信ぜずして問うふか。と。

さても、信じて問うならば、何を信じ、何を以って法華の本尊と為すか。
加えて、其の正義を全うしておるのは、何処(どこ)の門派教団であるのか。
爾して、信ぜずして問うならば、其れこそは、以信得入を知らざる恥態とならざるか。

当宗の奥義に曰く、

『当家に談義あるべからず、其故(そのゆえ)は談義とは其の文段を横に沙汰する故に智者の所作なり、
当家は信の宗旨なる故に爾るべからず』と。

仍って曰く『当家説法の時智恵を面(おもて)に立て信を裏に成し候、信を裏へまわれば宗旨既に破れ行き候
去る間御祈祷も祈祷に成らず、作善も作善にならざるなり、一向天台宗の作法に成り候』と。

仍って曰く『智恵は理なり迹なり』と。

うむ。

まさしく此の義こそ、行学は信心よりをこるべく候、との日蓮大聖人の御金言に即するものである。

されば、自解仏乗成らざる凡人が、自義私論を展開し、以って法華本門の大義を推し量るは、是れ全く
増上慢の其れであり、実に其れこそは、自義なるか、経文なるか、との日蓮大聖人の詰問に粉砕される
全くの愚行である、という事を、幽霊を含む世の文献莫迦の者どもは識らなければならない。

さて、本年も愈々(いよいよ)残り纔(わずか)となった。

さてさて、明年こそは、富士門徒らしく信心第一に邁進して往こうと、此に重ねて誓うものである。
 

H27脱会@法華講員殿

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月 9日(土)15時15分42秒 i114-185-6-11.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  久々の御投稿でありますね。

あいや。実は当方も久しぶりの投稿でありまして、何ともはや、管理人としてお恥ずかしい限りであります。

入信されて早二年。

今では支部の一員として日々奮闘の由。

いやいや、仕事の多忙に感(かま)けながらも、其処(そこ)をして当詣道場と自念する当方の精神からして、
H27法華講員殿の御信心は、真実(まこと)自行化他の実践鏡と成るものであります。

>さて、創価学会と言えば、ますます、その狂い様は、加速度的に破滅に向かって突き進んでいるなぁ…との感を
>強く感じています。最近の聖教新聞も、一段と狂いが多く記載され、悪のプロパガンダ、なんの、教学的根拠も、
>無い、空辣な活字のみが、威勢が良いだけで、それさえ、衰退の責め苦に喘ぐ強がりとしか、思えません(笑)

まこと、其の通りであります。

『言葉と共に生きる聖教新聞』

存知の如く、此のフレーズは、聖教新聞のTVコマーシャルのものでありますが、
言葉と生きる聖教、つまりは言葉と生きる創価学会であるならば、其の倶(とも)に生きんとする言葉、
つまりは、其れが宗教であるならば、其の根幹教義こそ、真(まこと)の言葉と成るは必定でありましょう。

さても、其れら真の言葉をコロコロと変節する似而非(えせ)教団が、恥も外聞もなく公共の電波を使って
『言葉と共に生きる聖教新聞』などと、よくも言えたものであります。

>池田駄作が、嘘も百遍重ねれば、真実に成る…と、言ったとか…。

御意。

実(げ)にそうであるならば『虚言と共に生きる聖教創価』とフレーズするが正解となりましょう。

>バカな謗法者の戯け言…嘘はどこまで行っても嘘なので、有ります。

云く『大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも
変わらない』

されば、此の破門後に於ける池田太作の信心指導こそは、真っ赤な嘘であった、と昨今の創価員が言う。

哀笑。

師匠! 師匠! と尊称し乍(なが)ら、其の師匠の指導をしてウソだった、などとよくも言えたものであります。

応に『心破作七分』と此の事を指して言うものでありましょう。

>皆様には、ご自愛頂きまして、平成33年のご命題達成に向けて、共々に頑張って参りましょう。

はい。

当方とて、頑張って参る所存で御座います。

H27法華講員殿には、今後とも、当室への御投稿を宜しくお願い申し上げます。
 

ご無沙汰しておりました。

 投稿者:H27脱会@法華講員  投稿日:2017年11月28日(火)16時24分3秒 E219108019207.ec-userreverse.dion.ne.jp
返信・引用
  管理人、大月天さま、また、法華講の皆さまには、ご無沙汰しておりまして、申し訳ありませんでした。こちら、掲示板は、慌ただしい中にも時間を作り拝見させてさせていただいては、居たのですが、中々、書き込みさせて頂くには時間が作れずに間が空いてしまいました。

お陰様で、無事、創価学会を脱会してから、満2年も先月、経過し日々、正しい信心が出来ます事に感謝しております。改めて、私が創価学会を脱会するに当たりまして、管理人様には、大変お世話頂きまして感謝と御礼を申しあげます。また、さまざまに、教えて頂きました法華講の先輩方にも御礼申し上げます。ありがとうございました。

今年は、公私、共に様々有りまして、多忙の中にも、日蓮正宗の信徒として正しい信心が出来る歓喜の中、また、所属寺院さまで、壮年部の初役に就かせて頂きました。
今週、日曜日には、私、所属寺院の支部壮年部大会で体験発表をさせて頂き、恐らく新年1月号の寺報に、体験談を載せて頂ける事に成りました。

さて、創価学会と言えば、ますます、その狂い様は、加速度的に破滅に向かって突き進んでいるなぁ…との感を強く感じています。最近の聖教新聞も、一段と狂いが多く記載され、悪のプロパガンダ、なんの、教学的根拠も、無い、空辣な活字のみが、威勢が良いだけで、それさえ、衰退の責め苦に喘ぐ強がりとしか、思えません(笑)
池田駄作が、嘘も百遍重ねれば、真実に成る…と、言ったとか…。
バカな謗法者の戯け言…嘘はどこまで行っても嘘なので、有ります。
とうとう、自慢のSGI会長の座も、日本の創価学会の原田の下位の成ったとか…。
しかしながら、創価学会員は、尚、しがらみに囚われて、この様な有り様の、創価学会に洗脳され続けるとは、誠に哀れと言うしか有りません…。

また、改めまして書き込みもさせて頂きたいと思います。寒さも日増しに強まりますが、皆様には、ご自愛頂きまして、平成33年のご命題達成に向けて、共々に頑張って参りましょう。

 

ああ、邪教人 其の七十二

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月 8日(水)06時49分34秒 i223-218-162-93.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  過日、書棚を整理していたら、厚手の本の隙間から「新教宣ハンドブック」なる小冊子がズレ落ちた。

「おお、今となっては懐かしい…」

そう思いながら手に取って、パラパラと頁(ページ)を捲ってみた。

哀笑。いやいや、思い返せば、創価教宣の者ども。

其のハンドブックを虎の巻にして、あーだこーだと唾を飛ばしていたものと…。

小鼻笑。

まぁ、そんな事を思いつつ、ページの捲りを進めると、次なる教宣の批判が目に飛び込んで来た。

云く、

【「戒壇の大御本尊」とは、宗祖日蓮大聖人の出世の本懐であり、日寛上人が「三大秘法の随一なり」と
仰せの大御本尊である。ところが日顕(上人)は、当時教学部長でありながら、この大御本尊に疑念を抱き、
鑑定にかけた上で「偽物」と断定していたのである】

と。

呆哀笑。

そーか。本門戒壇の大御本尊は日蓮大聖人の出世の御本懐にして、日寛上人が仰せの三大秘法の随一たる
大御本尊であるか。

而して、日顕(上人)は、其の大御本尊をして「偽物」と断定した、全く最大の謗法者であるとな。

糞笑。

して今はどーなのだ。

其れで間違いないのか。

間違いがなければ其れで佳し。

しかし、其れが間違いであったならば、其の間違いたる教義教学を以って相手を批判中傷した事について、
先ずは詫び、そして訂正する事こそが、宗教人としての真っ当な心得ではないか。

加えて、今のオマエらの教義教学からするならば、御隠尊日顕上人こそ、オマエら現創価の新造教義の先見を
成していた、という事になるではないか。鼻笑。

されば、其の人なりの事でなく、其の持する教義教学の先見性について賛嘆する事こそが、依法不依人たる
日蓮門下の大姿勢ではないのか。

ったく、言いっ放しのやりっ放しでは、其れこそ猿人と同類である。

果たして、オマエらは、新興宗教の猿人に成り下がったのか。

曰く『墨平三郎腹を立て申す様は、日蓮聖人は昼は念仏無間と折破し、夜は念仏を申され候と讒言を申す』

哀笑。

昔も今も、こーゆー賊(やから)は居るものである。

少しは恥というものを識(し)りなさい。
 

情勢私感

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月25日(水)17時01分35秒 i223-218-104-212.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  一将功成りて万骨枯る。

否、其の一将也も、今や朽ち果てんとす。

果たして、小池女史。

其の薄情なる性質を以って、何(いか)に人心を掌握せんや。


とまれ、此の度の総選挙。

保守に於ける公明の翼賛も相俟って、大圧勝の結果と相成る。

先ずは佳し。

然るに、橋下元大阪市長が「政党を行ったり来たりするチョロネズミが駆除された。その意味で前原代表と小池知事の
功績は大きい」などと言っていたが、果てして其れを創価に当て嵌めるならば、今こそ創価のチョロ本尊・チョロ教義を
破折駆除せねばなるまいて…。いや、其れらのチョロチョロなどは、最早、吾が富士門の大義からして破折する対象で
はなく、其れこそは嘲笑に値する珍義であるから、今にして「破折」などとは仰々(ぎょうぎょう)しいモノとなる。
さて、そうとなれば、創価のチョロ教義などは呵責叱責で充分であろうから、当室の看板に在る「創価学会破折情報」
などは、其れこそ「創価学会呵責情報」とでも変えるべきであろうか。(あぁメンド!)  糞笑。

とまれ、現在に於いては、身延日蓮宗の方が、其の邪義の組立てからして細巧であるから、当に「破折」とは、
これら老獪なる不相伝の邪宗教をして為すべきである、と当方は思うものである。

本より「過去との整合性など、どうでもいい。自語相違と批判されてもかまわない。結論は決まっているんだ。
教義なんて、それを後付けすればいいんだ!』などと言っている教団などは、最早宗教ではなく、こんなものは
単なる「小利益集団」であり、当に是れこそが破折にも値しない「チョロネズミ」の姿そのものとなるのである。

さて、我が大日本国の近隣に目を転じれば、創価同類の北朝鮮のチョロネズミなどは、一発ぶち咬ます事を芳しとして、
愈々(いよいよ)、当方が予言したとおり、習近平が其の野望を実現化し、名実共に中共支那の大統領と相成った。
無論、此奴の全権掌握の手法とは、 取りも直さず汚職撲滅の名の下に実行された政敵の粛清劇に他ならない。
何度も云うが、此の者の周到なる魂胆は、彼の毛沢東に匹敵するものであり、其の性質は露助のスターリンに類する
ものである。

よろしいか。此奴を嘗めていると、いずれ必ず豪い目に遭う事になろう。
さればこそ、我が国の外交戦略が今こそ試される時なのである。
本より、其れを以って憲法を改正し、又、其れを根旨として九条の変更を急がねばならないのである。

習近平の支那が云く、

「自衛隊を軍隊に改名し、活動範囲を広げる事を国家の最優先事項とするなら、力を入れるべき所を間違えている」と。

呆哀。

おいおい支那よ。其れこそ大きなお世話であるぞ。

否、其の様なこと、オマエらから言われる筋合いもない。

第一、世界での強国を目指して縦横無尽に軍隊を増強しているのは、他ならぬオマエらではないか!

ったく、ふざけるものではない。

中共支那。

諸民族を抑圧し、言論を統制し、其の簒奪した戦勝国の名の下に、国連安保理を掻き回す、其の悪辣なる姿よ。

言うまでもないが、オマエら支那国は、日蓮大聖人の仏法からして、全くの悪国であり害国である。

本より其の無知ぶりは、月氏にも劣るものである。

とまれ、中共支那の繁栄は、其の世俗に於ける周到な権力と、十二億の民衆を犠牲にしての一部一億の繁栄であり、
其れら偏波な業績を以って傲慢するは、当に悪国の典型にして、実に其れこそが仏法からして害国の姿である事は
最早明白なのである。

さて、己(おのれ)の掲示板に目を向ければ、相も変わらず、串と捨てハンを使っての駄文投稿。

呆哀笑。

よいか。当室に於いては、串と捨てハンは馬鹿の象徴と定義しておるから、オマエらが其れを自認するのであれば、
其の証明として大いに投稿するがよろしい。無論、そんな馬鹿が馬鹿と自認する馬鹿文など、当室に於て掲載される
筈もなく、そんなモノは即時に於いてゴミ箱入りとなる代物である。小鼻笑。

論は論にして義とは成らず。

応に此の富士門義の大意を識(し)る者こそ、興門正統の一列に加わる事が出来るのである。

おっと、今日とて忙しい。

今から又、留守となる。
 

勧告

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月11日(水)19時59分8秒 i223-217-41-137.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  観れば何やら、得体の知れない蝗蟲が迷い込んでいる様だが、当室に於いては、そーゆー蝗蟲などは相手にはせん。
してもし、どーしても当方と対したい、と言うのであれば、先ずは、そーゆー醜い蝗蟲から脱皮する事が先決である。

何? 脱皮の仕方が解らんだと?

小鼻笑。そんなこたぁー簡単だよ。

っーか。当室の巻頭文に明記されているだろう。

何? 小蟲であるから、そこまで目が届かんとな。

哀笑。ったく、仕方のない奴め。

よいか聞け。っーか、よ~く読みなさい。


先ずは一。串での投稿を止め、正規プロバイダによるIPアドレスを以って投稿する。

そして二。自身が所属する宗派及び教団名を親告し、其の持する本尊と教義を宣揚する。

加えて三。其の持する本尊と教義を根旨として、相手宗派及び其の本尊教義を批判する。


よろしいか。

以上三つが、脱皮の順序である。

尚、当室に於いては、無宗教者からの批判投稿は一切受け付けない。

其の理由は唯(ただ)一つ。同じ土俵に上がりたければ、先ずは褌(ふんどし)を付けて参れ、という事である。

さても、得体のしれない蝗蟲よ。

果たして見事脱皮して、其の姿が蝶であるのか蛾であるのか。

当方の前にて披瀝して見せよ。

さすれば当方、早速にオマエの投稿文を掲載してしんぜよう。
 

ああ、邪教人 其の七十一

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月10日(火)16時35分39秒 i223-217-41-137.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  さて、本日も参ろうか。

>わずか2年前、国会でプラカードを掲げて安保法制反対!と叫んでいた民進党の議員たちがバッジ欲しさに
>安保法制賛成と言って希望の党に入った。人として恥を知らぬは猿以下と言える。
>希望の党の元民進は、悪しき前例とさせない為にも一人も当選させてはいけない。

哀笑。

本より政治は世間である。

仍って、其の掲げるプラカードは、其の対策対象の変化によって変貌するのである。

爾して仏法は出世間である。

仍って、其の掲げるプラカードは、其の根本尊崇の意味に於いて変貌は許されない。

云く、

『学会教学の不滅の伝統は、日寛上人の六巻抄を基盤として築かれたといっても過言ではない』

又云く、

『六巻抄はいわば仏法哲学の精髄である。これを無量に展開していくことこそ学会教学部の使命であり、
責任であることを訴えたい』

さても、これら池田名誉会長の指導こそが、応に根本尊崇に対する信仰信条よって為されたものであり、
其の出世間に於ける信仰信条こそが、絶対に堅守される可きものなのである。

つまり、オマエが言う処の「人として恥を知らぬは猿以下」とは、実にオマエら創価学会員の事を言うの
であり、其れこそ、猿以下ならぬネズミ以下の連中こそが、六巻抄の真髄を蹴飛ばした原田創価であり、
身延教義の片棒を担がんとする宿坊一味なのである。

而して、そんなネズミ以下の連中が運営する掲示板に嬉々として投稿するオマエら小学会員の所業こそも、
まったく猿以下の所業であり、そんなオマエらが、民進党議員の鞍替えに文句するなど、其れこそ詐欺師が
泥棒に説教するようなモノなのである。呆哀哀。

破門後の池田名誉会長が申さく、

「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない』

さても、この本尊指導が、僧俗和合時代から励んで来た、学会員同志の心情に対する気遣いの便説であったのか。

して其れが便説であるならば、彼の正本堂こそは、其の便説の下に建立されたものであるのか。

して、そうであるならば、あの正本堂に対する「御供養」は、オマエら創価からして一体何であったのか。

よいか。これらの事について、オマエらは須らく総括しなさい。

さもなくば、其れこそが「猿已下」と成る。


次。

>私は創価学会員であり、学生部の段階で、「弘安二年大御本尊」に疑義を抱き文献などを漁るように読み、
>男子部創価班広宣の方に相談しながら学んでいった結果は、「日蓮聖人とは無関係」だと理解した。
>創価大学の宮田幸一さん、菅野博史さんなども同じ様な教学見解を出されている。

哀笑。

こんな者が創価学会の幹部とやらをやっているのであるから、最早、何でもアリの組織なのであろう。
本より、其の質(すがた)こそが、宿坊の掲示板なのであり、反宿坊の掲示板なのである。

さても、日蓮大聖人は末法の御本仏ではない、とする宿坊一味と、日蓮大聖人が御顕発された御本尊は
一大秘法ではない、とする反宿坊連中と、はてさて、どっちが正統正義であるのか。小鼻笑。

観れば、そんな教義などお構いなし。何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も、やれ公明だ、やれ選挙だと……。呆呆哀。
ったく、政教一致もいい加減に致せよ。鼻笑。

果たして、莫迦と阿呆の鬩(せめ)ぎ合いとは、此の事を指して云うものか…。小鼻笑。

>日蓮正宗の総本山大石寺の売却事件について「有師物語聴聞抄佳跡・上」には
>「二三人の留主居を定メて候えば如何様の思案候ひけるや、留主居此の寺を捨て除き候間六年まで
>謗法の処に成リ候」と記されている。
>本紙前号で触れた通り、大石寺売却事件は日亨上人も認めている。

哀笑。宿坊よ。

しかしオマエは、よくも飽きずにフェイク記事をベタ貼りするよのぉ。呆呆哀。

だから何度も言っているだろう。

其のオマエが貼り付けているフェイクが、オマエの事を指して謗法人と断じているのであると。

云く『身延山といえば、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰がずに「日蓮大菩薩」と称しており、また
「板本尊偽作論」を唱えて大御本尊を否定し、更に、御本尊を店先にぶら下げ、御守本尊をカードにして
販売している謗法の山である』と。【フェイク 1406号(13.08.22 発行分)】

して、オマエが云く、

「鰯(イワシ)の頭も信心なので、日蓮聖人が末法の御本仏というのは、所詮、信仰上の話です」
つまりは「(そんなウソでも)その宗派内、会内で納得されていることならばOKなのです』と。

さても、己(おのれ)をして謗法人と断じるフェイクを嬉々としてベタ貼りする其の鵺なる姿よ。呆哀哀。

実に「破廉恥」とは、応に貴様の事を指して云うものである!!

尚、件(くだん)の「有師物語聴聞抄佳跡・上」の文記に於いては、「六年事不明なり、他の文献に見えず」と
日亨上人は注記されている。本より、此の一件について文句あるならば、いつでも相手になってやろう。
されば、其れらが単なる言い掛かりであるのか否か。其の答えこそがハッキリとしよう。

次。

>獅子身中の虫の筆頭・○○学会のCIAと言われる連絡局局長、泣く子も黙る竹入央迪副会長。
>芝田連絡局次長、一柳局員、○○学会儀典局長・和田局長、石井晴夫局次長、森田 ? 局員、
>恐らく、○○学会では、脅し賺し・落としの最高峰と言われる六奉行が、勢揃いしての査問に
>宮川夫妻を御招待下さった。

泣く子も黙る竹入央迪副会長……。

そーよな。思うにあの風貌こそは、空手の師匠のような風貌ではある。

確か以前、この空手の師匠は、埼玉県の県長などをやっていたのではないか。

しかし何だ。脅し賺(すか)しの最高峰とは、流石(さすが)は創価学会である。

本より「吊し上げ」などは、創価の得意中の得意であろう。

保田妙本寺、宮川御尊能化……。小鼻笑。それホントかいな。小鼻笑。

>今まで、僅かばかりの正義を口走った佐藤伴道や、吉○幸道師外、
>数名の坊さんが女房同伴で呼ばれて落とされたらしい。

鼻笑。

何で吉川幸道だけ○で抜かすのだ!

つまりは何だ。創価寺院の住職(錦州山宝光寺)をやっているから○で抜いた、とでも言うのか。

鼻笑。何が何だか判らんが、此奴(こやつ)らは「日蓮正宗改革同盟」などと嘯(うそぶ)き乍(なが)ら、
創価から毎月何百万円も支給され、其れこそ「坊主不要」と断じた創価学会の股の下を潜(くぐ)った
売僧であろうが!

有師物語聴聞抄佳跡に曰く、

『檀那は必ず三宝を敬う、還而僧衆檀那の心を取り機嫌に入る事、仏法を売物にする売僧と云ふべし』と。

オマエらこそは恥を知りなさい。

>「法主本仏論」で日顕宗に変質…。

小鼻笑。変質? してねぇーよ。呆哀笑。

>御本尊受持に関し日如の矛盾する発言……。

>早瀬日如は義寛と名乗っていた頃、御講で学会の会則の「三大秘法の大御本尊を信受し」について
>「学会が三大秘法の大御本尊を信受するなんて、破門された学会には許されない。狂っている」と叫んでいた。

>ところが、近年では「『弘安二年の御本尊は受持の対象にはいたしません』とは暴挙であり、大聖人への反逆行為
>です」等と相反する戯言を述べている。

>「信受する」のは許されない、狂っていると批判し、今は決別して他宗派になった大謗法の地の大石寺にあるから
>「受持しない」というと、今度は反逆行為だ、謗法と悪口を言う。どっちにしても非難中傷するのが邪宗門の日如ら
>坊主達である。

哀笑。オマエは阿呆か。

さても御講で其の様に言ったのかどーかの事など、オマエらフェイクの事であるから確証も無いが、果たして、
現猊下が其の様に言ったとして、其の意味こそは当然の事であろう。

つまり、悪行によって総本山から破門された信者が、その総本山に格護される大御本尊を信受しようとする、
其の矛盾なる信行をして許されない、と言ったものであり、併せて、其れら破門された信者らが、破門以降、
大御本尊への信仰を捨て去る、其の変節退転の愚行をして許されない、と言ったものである。

よいか。オマエが阿呆な所は、修行と法体の区別が出来ていない所に在る。呆哀。

も少し、勉強して来なさい。

何? どーせ、オイラが載せているフェイクの記事は、其の元からしてフェイクであるから、そんな整合性など
お構い無しとな。

糞笑。

そーよな。

ならば、そんな糞記事など、一々載せるものではない!

其れこそ、貴様の程度が知れる、というものである!!

おっと、時間が来てしまったわい。

さてこそ今日も邪教人!

邪教人への呵責はこれからも続く!!
 

御報告

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 8日(日)16時03分18秒 i223-217-41-137.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  本日帰宅す。

して観れば、宿坊の掲示板、宿坊2の掲示板等、相も変わらず、邪義邪言を掲載し、
其の宿坊なる創価亜流の策謀グルーブが、アンチよろしく其の名を偽造し、又は騙(かた)って、
其の腐敗した根性を丸出しにしておる。

本より当方は、この宿坊が運営する掲示板に投稿し、其の腐りきった根性を、其れこそ一信仰者として
鋭意糾弾したのであるが、手前(てめー)は当室に対して、串を使い、捨てハンを用いて、散々荒らして
おきながら、当方の真っ当な投稿文に対しては、何の返答もなく即座に削除したのである。

宿坊の黒カラス。

最早、信仰心の無い、単なる謀略の腐根者どもが何をか言う。小鼻笑。

何に況んや、其の根性を見抜けずに、連日投稿している小学会員の哀れさよ。呆哀哀。

釈迦本仏の黒カラス。
心破作七分の黒カラス。

此等、謀略不信の権化たる黒カラスの宿坊への呵責は、今よりも況して実行せんと、此に改めて期するものである。
 

お知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月27日(水)01時28分31秒 i114-185-19-59.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  閲覧者各位

急遽、本日から10日間の出張となり、早朝から不在となります。

つきましては、其の間、投稿文の掲載は出来ません。

掲載は全て、帰宅後と成ります。

尚、不在の日程については変更もあり得ますので、予め御承知おきの程、お願い致します。
 

総本山の威厳

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月26日(火)14時44分19秒 i114-185-19-59.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  室町八代将軍・足利義政の乳母である御今の局が、将軍御台所日野富子の出産に際し、呪詛を行ったとの疑いを
かけられ、流罪地の沖ノ島(琵琶湖)に向かう途中、近江甲良庄に於いて自害した時、我が富士大石寺の御法主は、
第九世日有上人であった。時に、長禄三年、西暦1459年、今より550年以上も前の事である。

まぁ、こう申すと、単なる歴史の一片となってしまうが、我ら凡人は、其の遡(さかのぼ)る時の歴史というものを、
単なる記録年表から取り出して、暗記よろしく何年何月何日の事であった、と片付けてしまうものである。

爾して、時の歴史というものは、其の積み重なった日々の集積であり、其の流れゆく日々の経過というものは、
今我々が経験している時間の経過と決して変わるものではない。

されば、朝起き、人と会し、昼飯を食い、帰宅の後は夕餉を摂り、家族が在れば話し、夜更ければ寝る。
其の日々の積み重ねをして三百六十五日。其の間には、色々な会話があり、色々な思慮があり、そして、
色々な行動がある。

そんな三百六十五日が一回、二回、三回と繰り返されて、其れが更に、5年、10年、15年と積み重なって、
遂には50年。其れこそ5歳の女の子が55歳になり往く時間というものは、其の当人に於いても非常に長い
経過となろう。無論、過ぎてしまえば今は昔。其のなり往く時間が長こうとも、其れを今にして振り返れば、
あっという間の年月という事にもなる。

しかし其の「あっという間」という感覚は、凡(およ)そ個人が過去を振り返った時にこそ用いられる可きであろう。
爾して、歴史を探るに於いては、其の過ぎ去った日一日が重厚に織り重なった、応に時間の模様体として捉えるが、
正しい構えであると、当方は思うものである。

さても、上記に記(しる)した日有上人の代。今から遡る事、558年前。
其れこそは、応仁の乱よりも8年も前の事であった。

いや、其れをして振り返って観るならば、応仁の乱(山名宗全×細川勝元)が勃発した時、既に我が大石寺は厳然と
今の場所に在った、という事である。

いやいや、今にして思えば凄い事ではないか。

山名宗全、細川勝元、畠山義就、日野富子……。

見れば見る程、錚錚(そうそう)たる「顔ぶれ」ではあるが、歴史を知らぬ者からしてみれば、池田太作センセーの方が
有名だ、という事にもなる。鼻笑。本より、世俗の長である池田太作こそ、歴史年表に其の名を刻されるを熱望するで
あろうが、当方からしてみれば、俗人・池田太作などは、其れこそ骨皮道賢と同じくする、単なる小者の小騒人として
其の名を残すのみにて、到底、山名宗全や細川勝元の足元にも及ばない、小作小人の小足跡と成るものである。

さても富士大石寺。

此の御寺が駿州上野に建立された時、富士郷に於いては重須も無ければ、妙蓮寺も無い。
無論、西山本門寺や小泉久遠寺など、在ろう筈も無く、妙本寺や要法寺に至っては、
其の在地からして論外なものとなる。

されば、富士五山。

本より重須などは、大石寺の談所であり、妙蓮寺は、大石寺塔中寂日坊開基日華師が縁起であり、
西山本門寺の開基は、新六の日代師。小泉久遠寺に至っては、大石寺の蓮蔵坊を寺名に充てて
「富士山蓮蔵坊」などと称し、其の根名からなる「小泉道場」を粉飾したに過ぎない。

そうとなれば、富士五山。

実(げ)に其の総本家こそ、我が多宝富士大日蓮華山大石寺である事は、応に理在絶言なのであり、
応に富士大石寺こそが、富士門に於ける『総本山』なのである。

而して現状を見るがよい。

重須と小泉は、今や邪宗身延の傘下と成り、西山などは、単立孤寺にして、今にも朽ち果てようとしておる。

とまれ、本家本流から外れたものは、須らく本流とは成り得ず、事実、富士門流の諸寺院に於いては、
「大本門寺」の資格を疾うに失い、唯一、富士大石寺のみが『勅許門』を擁して、大本門寺たる威厳を
呈しているのである。

さてこそ、室町。日野富子已来の日有上人の御教示
今にしても我ら信徒の習いとなる。
実(げ)にこれこそ、法灯伝持の証であり、唯授一人血脈相承の大成果ではないか。

思うに今更(当たり前過ぎて)言うべき事でもないが、昨今平成になって独立した新興宗教創価学会などに、
仏法伝持の習いなど解ろう筈も無いし、抑も、其れを習う深義など持ち合わせていないのである。
又、そうであるからこそ、平然と本尊教義を改変し、又は盗用して、其の鉄面の態を晒しているのである。

尚、富士大石寺の種脱法門は、日隆の教義から盗用したものだ、などと莫迦な事を言っている奴が居るが、
日隆などは、抑も像門一致派からの分派であり、其の離反時に於ける右往左往は、離脱僧の醜態に勝るものである。

爾して、日隆が説く八品義なるものは、在末の衆生を解脱せしめる法体を同一と見做し、彼脱此種の再往義を無視せん
とする邪義であり、実に種脱の功益こそは、抑もが法体の相違によるものである、という事を知らない稚義なのである。

さても、日隆が生まれる以前、重須談所の日順師は、口決に於いてこう記(しる)された。

曰く「さて末法に入れば本已有善の機は尽きはてて本未有善の機計りなり、本末有善の機は未だ下種せざる者なり、
此の機の為には仏久成の人を召し出して久成の法を付し給ふなり、是れは寿量品の文底を用ふと云ふは是れなり」と。
仍って曰く「今日の釈迦如来は迹仏にて御座すなり」と。

本より、此の義こそが、我が富士大石寺の法義であって、日隆の己義など入る余地も無いのである。

『当宗(富士大石寺)の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし』

よろしいか。

最早、此の日有上人の御教示を以って、日隆の邪義が大石寺に混入していない証拠と成るのである。

いや、其れよりも何よりも、日隆の八品派こそが、不相伝家の癖して鶴丸紋を盗入しているのであろうが。
よいか。真に鶴丸紋を掲げられるのは、我が興門正統のみである。
ったく、一致派の妙顕寺(現身延派大本山)から分派した己義ずれが、鶴丸紋を擁するなど以っての外である。

尚、重ねて言うが、八品派などは、其の信心の対象たる本尊に於いて、造仏を首(はじめ)、鬼子母神などを奉安し、
末寺に至っては、浄行菩薩を単体として祀り、挙句には七福神などを造立して、其の邪義ぶりを発揮しているのである。

呆哀。いや、其れよりは先ず、オマエら坊主が纏っている、其の紫袈裟を何とかしなさい! 呆怒。
観ていて、余りに穢らわしい。よいか。本因妙の色こそは白である!

おっと! 何時の間にやら、話が分派己義の日隆宗に行ってしまったわい、呆笑。

さてこそ、富士大石寺。

最早、伽藍の勝地こそは、富士山に限るとの日興上人の御意志からして、京都の要法寺、千葉の妙本寺などは、
其の篩(ふるい)から零れ落ち、日向身延に屈した北山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺などは論外として、残るは
西山本門寺のみ。さても正義の選択となれば、出戻りとて恥ずかしくはあるまい。

重ねて云おう。

実(げ)に興門正統の総本寺たるは、我が富士大石寺である。

遡れば、正応二年(1290)、当に元号が如くに、第二祖日興上人が、大聖の正義に応えて大石寺を建立し、
其の大石寺を総本山とする日蓮正宗は、大正元年、日正上人の御代にて其の宗名が成る。

以って曰く『宗名はこれ日蓮正宗、嗣法導師はこれ日正上人、年号はこれ大正元年なり、三正契合して
一貫の妙理それ顕然たり、仏意の感応誠に以って明らかなり』と。

大石の開創、正応に於いて、まさしく正義に応え、大石の宗名、大正に於いて、まさしく正宗と相成る。

実(げ)に是れこそは、名詮自性の必然なるか。

古(いにしえ)に曰く「名は必ず体を顕すの徳あり」と。

悲しいかな。智慧の無い者は、其れをこじ付けといい、或いは偶然と云う。哀哀。

さて曰く『手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を
取るべし』と。

果たして、500年以上も前に示された御条目を、今にしてしっかと堅持するは、是れ全く伝持伝法の証となろう。
とまれ、猫の目が如くに教義規則をコロコロ変える創価学会からすれば、500年どころか、10年前の条目でさえ、
イライラして変えるのであろう。呆哀笑。

そんな創価の主任副会長が吠えて云く『過去との整合性など、どうでもいい。自語相違と批判されてもかまわない。
完全に独立した教団として出発するんだから。結論は決まっているんだ。教義なんて、それを後付けすればいいんだ!』

呆哀。応に『莫迦』とは此の事か。呆笑。

不相伝家の成れの果て。

実(げ)に其れこそは、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門にこそ当て嵌るものであり、
創価・霊友・立正・国柱・天理・PL・成長・幸福・メシア・真如などは、応に不相伝家以下の邪教団である事は、
今更言うまでもない事である!

さても、一閻浮提総与の大御本尊在(ま)します総本山富士大石寺。

其の偉容は、富士の余山を圧倒し、其の威厳たるは、持する大法の伝持に依って成る。

山号・多宝富士大日蓮華山大石寺。

最早、興門正統の総本山は、富士大石寺を置いて他にはない。
 

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