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黒川様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月25日(日)00時43分51秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  まあ、いずれ全て消去されるでしょうから、放置でよろしいかと思います。
「思い込みで人の話を正しく聞くことができない。人に正しく伝えることができない。コミュニケーション能力がおかしくなる」と言う創価脳の本質を指摘されて、怒りと苦しみの快楽に溢れ、学会脳特有のどんちゃん騒ぎを披露してるだけですから。
池田氏の
「なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴っていけばいいんだ!」
が脳髄に叩き込まれてますから、創価脳の本質を指摘されると脳髄が疼いて「怒りと苦しみの快楽状態」になるのでしょう。

頭では「創価でない」と思いたくても、脳髄が疼いてしまうんでしょうね。恐らく頭破3氏は自分が如何に恥ずかしいかも理解できてませんし。

哀れな方々です。
常識人なら恥ずかしくて騒ぎませんが、創価脳ですから仕方ないかと。

以前、学会員の大勝利氏には、この快楽症状を「学会員のポンポン踊り」と揶揄しましたが、彼らは大勝利氏より重症のようです。
 

黒川さま。

 投稿者:H27脱会@法華講員  投稿日:2016年 9月25日(日)00時31分0秒 220-208-80-79.koalanet.ne.jp
返信・引用
  確かに…。
よしんば、創価学会員であろうと、法華講員であろうと、彼ら3名は、既に、
空理空論の世界に陶酔してると思います。
せいぜい、人間、生きて80年、100年か…。

どれ程の、教学を学ぼうとも、さまざま、増上慢とも取れる発言、乃至は、
部分観に囚われ、結果≪信≫を失っては、詮の無い事です。

信仰の有るべき姿、見失ってしまっては、何に成るのでしょう?

そもそも、日蓮大聖人さま、御本仏は、罰を与えようとして仏法を説かれたん
でしょうか?

下種御三宝尊は、罰を与えるだけの存在なんでしょうか?

私は、この様な、教学の空理空論者を垣間見ると、しみじみ、創価学会員、特には
創価の男性に多いのですが、虚しさを覚えないか…と思います。

小理屈こねて、挙句、我見に陥り、囚われて、信を失う。
散々、この様な人々を見て来ました。

御書は、その通りと、仰せの通りと拝すものです。

また、御法主上人猊下さま、ご指南も同じくです。
何か、誤りが有るんじゃ無いかと、猜疑から聴聞して、何になるでしょう。
誤りが有るとするなら、日蓮大聖人さま、下種ご三宝尊が正されます。
なので、何も、間違いが、御歴代の御法主上人さまに存しないのです。
凡智の計り知る所ではございません。

その様な信仰に、何の心の安寧ももたらさないと思うのです。
私は、常々、たまたま、お隣にお座りに成られる、法華講の、翁、媼、年上の
お爺さま、お婆さまの、ひたぶるなまでの、合掌の姿が、≪尊い≫いなあ…
と思います。

斯様な、素直で実直な信心をさせて頂きたいと、朝な夕なの勤行で願っています。

こちら、掲示板の品位を守って頂いて、ありがとうございました。

 

Re: 妙介さん:学会教学の功罪

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月25日(日)00時28分54秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  >>これは的を射た感想であり、正しい分析だと思います。
ここに集われている方々の中で正信に戻れる素質が一番ありそうなのは、ぽんぽこ狸さんだとお見受けしていますが、
(法介さんは既に仲間なので除外)
黒川さんの書き込みを見てもわかる通り、かつての日顕猊下のお考えで書かれた本です。

>>私は、自身の所属寺院の御住職に「このような文章が放置されているのは良くない、修正していただきたい」と御住職にお願いして、寺院出入り禁止になりました。


************************************************

どちらの寺院かは存じ上げませんが、出入り禁止にする程の事ではないかと思います。
只、日達上人猊下時代に僧侶が不足し少年得度者以外に中途得度者が多数出家なさいました。
その御尊師方は**道と云う法号を持たれています。
創価学会二世で青年部幹部の方が多かったと伝え聞いて居ります。
この方々は今は亡き原島嵩教学部長の薫陶を受けられた方も少なからず居られ、創価学会の教授、師範クラスの方もいます。
当然御書のみならず日寛上人の六巻抄や文段もも試験に出てまいりますので中には当時のご住職よりも教学力に秀でた人もいました。
本来なら少年得度で御伝土代や天台三大部から入る所を最初から下種仏法の種脱法門を会得されておるが為、基礎のところが曖昧な部分も有ろうかとは思われます。
宗門の根幹である中堅から権僧正クラスの方も多く宗門の屋台骨を支えられて居られるのもこの御尊師方であります。
職業僧侶でなく道心から僧侶に成られている方が大半で有りますから、信心堅固この方々なしにはエンジンのない車の如き宗門で有りましょう。
只融通が利かぬというか頑固一徹の方も多いのです。
ひところ前の創価学会の辻副会長の如きタイプも多いのです。
組織を何が何でも守りぬく、命を惜しむこともなく法を弘む為には身命を惜しまずという姿勢です。
信徒の立場として自分が正しいという態度では頭ごなしに拒否というのは目に見えております。
自分の立場を守ると云うより宗門、猊下様をお守りするということが第一命題で有りますからして、柔軟にご住職の意見をお聞かせ願えませんかという姿勢で対応される事をお勧めします。
上古の仙代問答や天目破門騒動を見るまでも無く教学上の事は勝劣派では火種の元になりかねず、法華講組織の分裂や寺院間の勢力争いを惹起しかねません。
「このような文章が放置されているのは良くない、修正していただきたい」と依頼されても
お立場上拒否されるのは普通でしょうが、寺院出入り禁止は人間関係の問題だと推測します。
信徒のお立場として質問形式で人間関係を壊さないように精進なされることをご祈念申し上げます。

 

妙介と愚人=創価員ですよ。

 投稿者:黒川 和雄@日蓮正宗  投稿日:2016年 9月24日(土)23時41分25秒 p1137-ipbfp2603osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  新手の掲示板荒らしです。

このような阿呆にイチイチ反応する必要はありません。


 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)22時43分49秒 softbank126094220251.bbtec.net
返信・引用 編集済
   天台宗ホームページ並びに天台寺門宗ホームページや比叡山ホームページ並びに三井寺ホームページで調べると、南岳・天台の「霊山同聴」の話は出ていますが、南岳が観音の再誕・天台が薬王の再誕の話はでていません。ネットで読める南岳の『立誓願文』には、南岳が死後に六回転生するとはありますが、自身の前世については記載がありません。日蓮の「観音・薬王が南岳・天台として示現し出現した」との再誕話は、「霊山同聴」と「大蘇開悟」を結び付けて作られたものと現時点では推測します。(初めて調べたので、後で改める可能性があります)  

ぽんぽこ狸さんへ

 投稿者:妙介  投稿日:2016年 9月24日(土)21時51分23秒 pool-200-232.aitai.ne.jp
返信・引用
  ぽんぽこ貍さんへのお返事です。

> ◇至理は名無し聖人理を観じて萬物に名を付る時因果倶時不思議の一法之有り之を名けて妙法蓮華と為す 此妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足してケツ闕減無し之を修行する者仏因仏果同時に之を得るなり聖人化法を師と為して修行覚道し給へば妙因妙果倶時に感得し給ふが故に妙覚果満の如来と成り給し也(当体義鈔)
>
> ***********************************************
>
> 貴方が創価学会員でも出入り禁止法華講員でも構いませんが、空についての頓珍漢な解釈を窘められて空とは反省判断であるとされたのは「空も又空なり」との言葉通り正解で有ると思います。
>
> 上記ご金言(一説には偽書説もあるが)に付いて長文に成っても構いませんので貴方のおっしゃる外道義の解釈と石田氏からご教授されたという正統的な解釈をお聞かせ願えませんか。
> 大聖人の仏法の根幹の処が短い御文章に凝縮されていると判断していますので、ご高説を承りたいと思います。
>


ぽんぽこ狸さんから大変な宿題をいただいてしまったので、久しぶりの投稿となりました。
まだまだ信心未熟でありますが、ご指名ですので僭越ながら解説させていただきます。

当抄は、文永十(一二七三)年、日蓮大聖人様が五十二歳の御時、佐渡一谷において御著述され、最蓮房に与えられたと伝えられています。
「開目抄」を教の重、「観心本尊抄」を行の重、そして証の重に配当されるのが当抄で、大変重要な御抄です。
最蓮房については謎が多くてよくわからない人物ですが、大聖人様にお給仕するために天台僧に身をやつした日興上人ではないか、という説もあります。最蓮房が頂いた御書の内容を考えれば、案外そうかもしれないとも思っています。

○至理は名無し

天台大師の法華玄義の「当体蓮華、譬喩蓮華」の釈を引いて、この釈の意は…と、説き進められておりますが、もちろん天台大師の釈をさらに解説するために説いておられるのではありません。天台大師の釈の文を借りて、大聖人様御自身が所持されている覚りをお説きなされているのだと解釈するべきでしょう。
至理とは「まことにもっともな道理。至極(しごく)の道理。」ということですが、当体義抄の文脈の上からは、至理=妙法、と解釈して良いと思います。
妙法には名前がない、という事です。

〇聖人理を観じて萬物に名を付る時

ここでの聖人とは「理を観じて物事に名前を付けることの出来る人」つまり一般的な意味での「偉い人」という意味でしょう。もしかしたらそういう「偉い人」は全て仏様の化身というか、そのような方かもわかりませんが、検証しようのないことです。
ただ一点、心に留めておかなければならない事は、泥の中に咲く花を見て、「プンダーリカ」と名付けた人「蓮華」と名付けた人、そういう諸々の人々の営み、長い長い歴史の準備を経て、仏様が世に出て法を説く準備が整って、ようやく釈尊が現れ仏法を説き、弟子檀那が法を伝え、そうやって作られた下地の上に、日蓮大聖人様が「妙法」を説かれているのだ、という理解です。
何もない所に、いきなり聖人が顕れて法を説いたりすることはないという、当たり前の事を当たり前に理解できる知恵は、仏法理解のために不可欠でしょう。

〇因果倶時不思議の一法之有り

「因位」つまり仏の弟子である修行者としての「本因妙」という立場を表にして法を説かれた大聖人様ですが、
本当は「果位」の立場、つまり教主の立場にある仏様です。
「因果倶時不思議の一法之有り」とは、まさにその法を所持されている大聖人様だけが言える言葉だと思います。

〇之を名けて妙法蓮華と為す

大聖人様が御自身のお覚りに「南無妙法蓮華経」と名付けられたという事です。

〇此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し

この部分が、外道義の人とそうでない人で解釈が大きく異なる部分でしょう。
仏法とは修行者一人ひとりの主観的な心を「一念」として捉え、その迷悟を、地獄~仏界の十界と表現し、仏界を目指させ、仏界を証得させるという教えです。
大聖人様の大聖人様から見た主観的な宇宙と大聖人様とは一体であり、大聖人様の一念に「十界三千の諸法を具足して欠減無し」という事で、大聖人様の宇宙は寂光土なのです。
大聖人様と同じ時間・同じ場所にいる平左衛門尉の宇宙が、同じ時間・同じ場所なのに寂光土ではないのは、それぞれの宇宙がそれぞれにとっての主観的な宇宙だからです。

そうであるのに半端な科学知識が災いして、万有引力の法則があるように宇宙と生命を貫く法則があるんだ、それが妙法なんだ、と思ってしまうのです。
生命と宇宙が一体である事、それ自体はなんの悟りでもありません。人間はおろか、そこらでワンワン吠えてる犬でもニャーニャーいってる猫でもみんな宇宙と一体です。
宇宙と一体でありながら、ウンウン苦しんでいるのです。
仏法と科学とは何の関係もありません。科学が遅れていて、地動説も知らず、疫病の原因が細菌やウィルスであることを知らず悪霊の祟だと思っているような社会でも、その時に相応した仏法を正しく信じれば、成仏できるのです。

〇之を修行する者仏因仏果同時に之を得るなり聖人化法を師と為して修行覚道し給へば妙因妙果倶時に感得し給ふが故に妙覚果満の如来と成り給し也

もうここは解説を加えるまでも無いでしょう。書いてある通りです。
そもそも、御書とは、ただひたすら有難いと思って拝読するのが基本で、自分自身の立場を有利にするために「切り文」したりしてはいけないと、常々思っています。
時々ネットで「経文に明らかならんを用ひよ、文証無からんをば捨てよ」(聖愚問答抄)等を拠り所に、切り文御書を貼り付けて大聖人気取りで悦に入ってる御仁を見かけますが、全くわかってない。
どんなに御書を貼り付けて「大聖人様の考えはこうだ」と叫んでみても、それは「切り文した人の考え」に過ぎないのです。
傍証として御金言を引用するのは、まぁいいとしても、その意見は大聖人様の意見ではなく、御書を引用して何がしかを主張している、その人の意見なのです。

その意見が道理に叶い大聖人の仏法を賛嘆している時に、それを読んだ人は、ああ素晴らしいな、有難いなと思うのではないでしょうか。例えば、日淳上人の御説法のようにです。


> 上記ご金言(一説には偽書説もあるが)に付いて長文に成っても構いませんので貴方のおっしゃる外道義の解釈と石田氏からご教授されたという正統的な解釈をお聞かせ願えませんか。

私の解釈は、上記のようなものです。「石田氏からご教授された」というのは少々事実誤認であり、石田氏の意見は大いに参考にさせていただきましたが、私自身の体験と研鑽で掴んだ、私自身の意見です。

>貴方のおっしゃる外道義の解釈

これについては、先日紹介した「日蓮正宗要義」が良い例だと思います。
これを初めて読まれた時のぽんぽこ狸さんの感想、

>>日蓮正宗要義初めて拝見しました。
  これを書かれた方はどなたですか。
  ご住職にお尋ねになられたのでしょうか?
  ハッキリ言いまして当宗の妙法観ではないです。
  真言密教の教義による妙法の説明です。
  又大霊等は聖書の創世記を彷彿とさせます。
  まず御法主上人猊下が書かれた書物では有りません。


これは的を射た感想であり、正しい分析だと思います。
ここに集われている方々の中で正信に戻れる素質が一番ありそうなのは、ぽんぽこ狸さんだとお見受けしていますが、
(法介さんは既に仲間なので除外)
黒川さんの書き込みを見てもわかる通り、かつての日顕猊下のお考えで書かれた本です。

私は、自身の所属寺院の御住職に「このような文章が放置されているのは良くない、修正していただきたい」と御住職にお願いして、寺院出入り禁止になりました。


ぽんぽこ狸さんにご質問します。
私が御住職にしたお願いは「寺院出入り禁止」になるような破仏法の行為なのでしょうか。
ご意見をお聞かせください。

 

天台大師

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)19時21分8秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  愚人さん、ご返答ありがとうございます。


愚人さんほどのお方であれば、日蓮大聖人の仏法と天台の仏法の違いなど既に頭に入っておられるものと思われます。


その上で、現在のようなポジションに身をおかれているという事を理解して、私なりに思う事をぶつけてみます。


天台大師は薬王菩薩の生まれ変わり?  という噂がありますが、愚人さんはどう思われます?


他の皆さんのご意見も伺いたいです^^
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)17時53分25秒 softbank126094226146.bbtec.net
返信・引用 編集済
   私は、名前だけ法華講員ですが、日蓮教の信者ではありませんし、勿論、最澄教の信者でもありません。天台宗寺院のホームページを引用したのは、空・仮・中の三諦と差別・平等・差別即平等の解説が平易で解りやすいからです。

 うちには、日蓮正宗の出版物が多くあるので日蓮正宗の教義は調べられます。ただし、一大秘法は南無妙法蓮華経の七字であり、日蓮には成道した意識はあっても日蓮正宗の主張する日蓮本仏論は無かったと考えています。また私は、深く対論出きるほどではありません。
 

愚人さんへ

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)16時51分1秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  今後の議論の方向性を見極める意味に於いて、愚人さんに一つ質問させて下さい。

私は大聖人様の仏法を基準に信心をしておりますが(法華講に席を置いております)、

愚人さんは、天台宗の教義を基準に置かれているのでしょうか?
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)16時07分13秒 softbank126094207185.bbtec.net
返信・引用 編集済
   天台宗寺院 福寿山観音寺のホームページからです。

 icon 今月の言葉

  凡そ差別なきの平等は仏法に順ぜず 悪平等の故なり
  また
  平等なきの差別も仏法に順ぜず 悪差別の故なり
  (伝教大師最澄『法華去惑』)

2009年12月1日(火)


これは、宗祖伝教大師さまの『法華去惑』という著作のなかにでてくるお言葉です。差別は「しゃべつ」と呉音で読みます。

さて、みなさんも、中道(ちゅうどう)という言葉を耳にしたことがあると思います。中道というのは、仏教におけるものの正しい見かたのことです。仏教では、偏ったものの見かたを戒めます。宗祖のこのお言葉は、まさにそのことを語っています。

仏教ではすべての事象は「空」であると考えます。たとえば、りんご、と私たちが認識する果物には、それ自身に独立して、その果物をりんごたらしめる、いわばりんご性というものがあるわけではなく、複雑多様な関係性、つまり縁起というありかたのもと、仮にりんごなるものとしてあるにすぎないととらえるわけです。

このことは、私たちをとりまくあらゆる存在、運動、要素、言葉その他すべてにあてはまり、実体的な我はないという意味(諸法無我)において、一切諸法は成り立ちとして平等であると、仏教ではみるのです。

ただ、宗祖はこの諸法の平等面だけを強調したとらえかたを「悪平等」と表現し、仏教的なみかたではないといっています。なるほど諸法は平等な原理で成立しているとしても、私たちが眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官と意という知覚器官を通して認識するさまざまな事象は、いわば空の作用としてそれぞれ独自の個性をもち、異なるすがたをして存在し、現実世界を構成しています。宗祖は、この現実相を全く無視した平等論は一面的な理想論にすぎないと批判しているのです。

では、外界の事象の差別相をどう観るべきか。この点、宗祖は一切皆空の理を得道し、諸法の本質的平等を観ずる目をもたず、無節操に現実相にとらわれるならば、前述の偏った平等の主張同様に仏教の道理にかなわない「悪差別」になるといっています。

もうおわかりだと思いますが、今回採り上げた言葉は、「悪平等」、「悪差別」の用語によって仏教的外界のとらえかたである中道について説いているのです。さまざまな誘惑に満ち溢れた世界に生きる私たちの欲望は、次から次へと湧き起こり尽きることがありません。このカラフルな差別相によって成立する現実世界で、日々、過度の執着をもたず真に自由に生きていくには、「悪平等・悪差別」に陥らないようにすることが肝要なのです。


 因みに日蓮正宗の阿倍日顕氏も空を平等、仮を差別、中を差別即平等とし、それそれ平等、自由、尊厳ともしています。

 また、『日蓮正宗要義』には、

 万物にそれぞれの差別を忘却した平等の性質を内包するその理を名付けて空諦というのである。(日蓮正宗要義三五ニ頁)

とあります。更に、三諦と自由・平等・尊厳の関係については、『日蓮正宗要義』の三五四頁から三五九頁を参照して下さい。阿倍日顕氏のは、探すのが面倒です。

 更に、更にお示しの大白法の記事の空の説明は、中村元著『龍樹』に詳しく載っています。
 

私の解釈の根拠

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)15時08分11秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  愚人さんへ

ttp://tidouji.la.coocan.jp/kyougaku/kiso-923.pdf
↑大白法・平成27年12月16日刊(第923号)に掲載された三諦の解説があります。


〈空諦〉

  「空」の字は一般的に「うつろ・ない・欠けた」という意味に理解されていますから、
  「空とは無(非存在)」と考えがちですが、仏教では精神のあるものも、ないものも、
   一切世間のものはすべて因縁によって生じており、因縁によって生じる事物は、それ自
   体に実体はないとし、これを空と説いています。つまり、一切の事物には実体がないと
   いう真理を空諦と言うのです。

 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)14時50分46秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  愚人さんは、

>互具は、仏から地獄まで互いに互いを具すので平等であるので空諦である。

空諦=平等

と解釈されていると受け止めて宜しいでしょうか?
 

ぽんぽこ狸様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)14時37分21秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用
  *法論法義があってこその当板です。
○全くその通りと存じますが「私の解釈」などと我見の自慰行為は法論法義とは言えないのかと思います。

法論法義は、我見でなく法に則らなければ、議論のしようがないですね。
今、この掲示板を荒らしに来ている3名の頭破者は、人の書いた内容を正しく読めない者どもと判断しています。
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)14時15分45秒 softbank126094212001.bbtec.net
返信・引用 編集済
   □十界互具は、差別にして而も無差別であり分別にして而も無差別を説く中諦である。(而二不二)

と、相違が生じておりますが、どう説明されます?

 ■十界は、仏から地獄まで差別の相なので仮諦である。
 互具は、仏から地獄まで互いに互いを具すので平等であるので空諦である。
 十界互具で差別即平等となり中諦である。

 私の文は、『一念三千法門』の十界互具の文を別して分けた文である。

 一念三千は、差別/仮諦に執われず、平等/空諦に執われず、而も差別/仮諦を認め、平等/空諦を認める差別即平等/中諦を説いたものである。

 法華講員と創価学会員とは差別の相があるが、互いに仏性を備えているので平等である。差別と平等を互いに認め合い互いに尊敬しあう事が大事だ。
 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)14時00分17秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  ちなみに、わたしの解釈は

百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり

    一般世間で認識されるところの百界の相 (仮諦)

千如は総て空の義なれば空諦の一なり

    百界を形成しているのは十如是というカラクリであるので実体無しの(空諦)

三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、

    五陰世間、衆生世間、国土世間が加わると言う事は、
    十界互具いずれかの境涯で働いた十如是によってもたらされた報い(宿業)が、
    五陰世間(身体や感性等々)をつくり、
    衆生世間(関わる人物等々)が決まり、
    国土世間(どこに生まれてくるか等々)が決まってくる。

    要するに、三千世間は現在の自分の姿であり、

    悩み苦しんでいる状態の自身の姿は仮諦で、
    仏の智恵に導かれて悟りを得た状態の自身の姿が中諦。

    よって而ニ不ニ。

というものです。
 

法介様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)13時56分30秒 pw126245072216.16.panda-world.ne.jp
返信・引用
  法介さんへのお返事です。

> 私にはどこにも書かれていないように見えるのですが、通りすがりの法華講員さんには、書いてあるように見えているのでしょうか?確認の為、その部分を貼り付けて頂けますか?
○???
何を書いてらっしゃるのか理解不能ですね。
私が何か書きましたか?
いよいよ幻覚の域にいかれたようですね。
 

愚人さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)13時35分42秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  御書の一念三千法門には、

百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり
千如は総て空の義なれば空諦の一なり
三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、

とあります。

愚人さんが書かれている

>十界互具は、差別にして而も無差別であり分別にして而も無差別を説く中諦である。(而二不二)

と、相違が生じておりますが、どう説明されます?

 

Re:黒川 和雄@日蓮正宗様

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月24日(土)13時15分47秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  この版の管理人様は大月天さんでは無いのでしょうか。
黒川 和雄@日蓮正宗さんと言葉のニュアンスが若干違っている様に思うのですが、最近管理人様の投稿がないのでご多忙なのかなと心配していました。
当板は創価学会の某板や反某板のような便所の書き込みのような下劣、三流週刊誌並の痴呆板と違うので全国版としての品位は保たれていると存じ上げます。
法論法義があってこその当板です。
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)12時35分54秒 om126204058206.3.openmobile.ne.jp
返信・引用 編集済
   一念とは、0・018秒という極短い瞬間の心であり、心は、非情・有情に等しく具わる故に無差別であり空諦である。

 三千は、森羅万象差別の相にして仮諦である。

 一念の心は三千であり、三千は一念の心であるが故に而ニ不ニにして中諦である。

 
 

所属宗派を名乗りなさい。

 投稿者:黒川 和雄@日蓮正宗  投稿日:2016年 9月24日(土)10時47分10秒 p1137-ipbfp2603osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  ◎初投稿の方は、所属宗派・教団を名乗って下さい。
尚、所属不明者の投稿については警告の上、順次削除致します。

◎当室は日蓮正宗と他宗・他教団との法論を主としておりますので、
無宗教 の方は御遠慮下さい。
 

一念三千の法門

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)09時17分11秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  私が言ってる事がどういうことか

具体的に解りやすく説明しておきます。


<一念三千の法門>


「一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり」と御書にある通り、十如是がはじまりとなります。

例えばフルマラソンを走りぬいたランナーがいたとします。
このランナーは、汗びっしょりでクタクタの如是相と如是性をそなえた如是体という当体です。
そんなランナーの前に一杯のコップに注がれた水が差し出されました。のどがカラカラのランナーは差し出された水が如是縁(外縁)となって、如是力(内在する力)が発動しコップを手に取り、如是作(作用)と転じて水を一気に飲み干します。
飲み干したことが如是因(原因)となって如是果(結果)としてランナーはお腹を壊して、如是報(報い)の苦しみを味わいます。

ランナーが飲み干した水は、実は友人がうっかり放置していた腐った水だったのです。

クタクタで喉がカラカラだったランナーは、正常な状態ならば気づいたであろう水の腐りを、全く気づかないまま飲み干してしまったのです。
仏法では苦しみは煩悩から生じるとしますが、具体的には様々な物事への執着から起こります。このランナーは水が飲みたいという欲望に執着するあまり判断を誤ってお腹をこわして大変な目にあいます。
そのことがきっかけとなり腐った水を置いていた友人と喧嘩するにまで至りました。

このランナーが腐った水を飲んでしまい苦しんでいる姿は、空仮中の三諦でいうところの仮諦の姿にあたります。勤行で十如是の所を3回繰り返しますが、そのうちの一つはこの仮諦の「仮」の姿を捉えた十如是(仮の義で読む十如是)です。

友人と喧嘩別れしたランナーは家に帰って勤行をはじめます。最初は腐った水を放置しておいた友人に対する怒りで一杯でしたが、唱題していくなかで御本尊様の仏界の境地に感応し、怒りも静まり空の真理を得る(空の義で読む十如是)ことで、「物事には実体はない、友人の方に問題があるのではない。」と己の心と向き合う姿勢が出来ます。

そして、腐った水に気づかなかった自身のふがいなさを反省し「明日、友人に謝りに行こう!」という一つの悟り(中の義で読む十如是)を得て、友人との仲は修復されました。

この一連の流れの中で、ランナーの心は餓鬼界になったり修羅界になったり人界になったりで、十如是が起点となって十界が変動して現れていくのです。
このような当事者の心の動きを内道として主観的認識で説きあらわされたのが一念三千の法門です。

それを客観的な解説に陥ると、「分別・差別」(違い)という客観的認識(仮諦)で終わってしまい、空諦、そして中諦の悟りまで辿りつけません。だから学会員さんや法華講員さん達は、悪を実体化(差別)し本来は「実体無し」と判断すべき「仮の姿」(仮諦)に執着し、醜い攻撃を繰り返すのでしょう。

そもそも、宗門が客観認識(分別・差別)で展開された誤った一念三千の法門を説いているところに重大な問題があるのではないでしょうか。

以下に示す御書の内容が只今の解説です。


《一念三千法門》

此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身般若解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。


《 総勘文抄》

十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是(※ 衆生の仮諦の十如是)は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是(※ 仏の中諦の十如是)は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是(※ 仮諦の十如是)なり末とは諸仏の十如是(※ 中諦の十如是)なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去現在未来の三世の虚夢を見るなり(※ 仮諦)、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く(※中諦)夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり(※ 境地妙合のこと)

 

愚人さんへ

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)08時46分4秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  愚人さんへもう一つ

「空諦」に拘っているのではなく

「空の義の一念三千」を理解しないと「中の義の一念三千」の説明に進めないからです。
 

愚人さんへ

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)08時39分5秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  日蓮正宗宗務院発行の「日蓮正宗入門」の「釈尊一代の教え」五時八教の項で
(ttp://www.geocities.jp/shoshu_newmon/syakuson_2.htm)

    三諦円融・十界互具の原理を基として、一念三千という法門が明かされています。

と説明されていますように三諦は一念三千という法門を構成する大事な要素だからです。

正しく大聖人様の「一念三千の法門」を理解出来ているのであれば

三諦を抜いて一念三千の法門を語ることは出来ないと解るはずです。
 

返答

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)08時18分9秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  愚人さんへ

>一念三千もまた、無差別にして而も差別であり無分別にして分別

の部分を解り易く、具体的に説明してもらえると助かります。
 

法介氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)08時08分1秒 softbank126094195113.bbtec.net
返信・引用 編集済
   何故に、空諦にこだわるのかが解らない。

 如是相は仮諦であるから差別であり分別。
 如是性は空諦であるから無差別であり無分別
 如是体は中諦であるから差別にして而も無差別であり分別にして無分別。(而二不二)

 十界互具は、差別にして而も無差別であり分別にして而も無差別を説く中諦である。(而二不二)

 一念三千もまた、無差別にして而も差別であり無分別にして分別を説く中諦である。(而二不二)

 この中諦の処を観るのが大事なのでは?。


 『総勘文抄』の五百塵点刧云々の文も、中諦(而二不二)を教えた文である。
 

怪奇現象

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)07時58分50秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  私にはどこにも書かれていないように見えるのですが、

通りすがりの法華講員さんには、書いてあるように見えているのでしょうか?

確認の為、その部分を貼り付けて頂けますか?
 

法介様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)07時38分39秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用
  貴方の思い込みによる内容に答える必要はありません。
書いたとしても、正しく理解できないでしょ。
思い込みで曲解する者に何を言っても無駄です。
 

再度

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)07時33分33秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  このどこかに無分別「無我・無自称」(空諦)の説明がありますか?  

法介様

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)07時29分50秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  *私が見る限り…から構成されているように思われますが
○きちんと確認してから書きなさい。
貴方の思い込みです。
何度も言っているでしょ。
創価脳の貴方は自分の意見と事実を分けて捉えることができなくなっていると。思い込みで自分の妄想を事実のように書かないこと。

*客観的にここまでの御三方の絡みを拝見しましたが
○貴方、客観的の言葉の意味を理解できていませんね。

*愚人さんが一番冷静にみえるのは私だけでしょうか
○貴方だけです。同じ創価脳同士、感情が先に立っているからです。「自分の立場は正しい」と思い込みが先にくる同士のためですね。あなた方2名と妙介様は「人の質問にきちんと答えられない」「思い込みが酷すぎ、未確認情報を恰も事実のように書いてしまう」点で病的です。
 

愚人くん

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)07時25分55秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用
  人の書いていることを曲解し思い込みで回答している貴方にここの板だけでなく、他の板でも皆さんお困りですよ。
マトモなコミュニケーションができるようになりなさいね。
 

空諦

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)05時58分14秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  回答しましたので次に進ませて頂きます。

先ほどの日蓮正宗宗務院発行による「一念三千の法門」の解説ですが
(ttp://www.geocities.jp/shoshu_newmon/nichiren_kyogi4.htm)

私が見る限り

1.十界の差別
2.十如是の働き
3.三世間の差別
4.「本門の一念三千」と「迹門の一念三千」と「文底の一念三千」の差別
5.久遠元初の説明

から構成されているように思われますが、

このどこかに無分別「無我・無自称」(空諦)の説明がありますか?
 

返答

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)05時41分52秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  ぽんぽこ貍さんの返答に対する回答です。

黒川 和雄@日蓮正宗さんへの回答と同様に

仏様の事の一念三千の話ではなく、

今ここで語っているのは「法門」としての一念三千のお話をしているのです。




愚人さん具体的な提示ありがとうございます。

確かに日顕御隠尊猊下は、

>「無分別の法とは一乗の妙法なり、善悪を簡ぶこと無く、草木樹林にも山河大地にも一微塵の中にも互ひに各十法界の法を具足す」

との御文を通して、
「無分別」ということなのであります。と語っておられますが、
再度愚人さんが提示してくださいました文面を熟読してみてください。



ここで日顕御隠尊猊下が言われている「無分別」の意味を。



>妙法の教えを信解すれば一人として救われない者はないということにおいて、それに対して法華経では、そういう分別は全くないということを言われるのであり、無分別の諸法実相、十界互具一念三千である故に三乗の差別もないのであります。


要約して言うなら、十界互具なので皆平等に仏界が備わっているという意味での無分別だと言っておられます。


>そこに縁因仏性、了因仏性もことごとく具わっておるということが「無分別」ということなのであります。



私が言っている無分別は、「無我・無自称」であり「色即是空」の意味での「無分別」です。





黒川 和雄@日蓮正宗さんへの回答です。


大聖人様が御書の中で一念三千の法門を説明される時は、必ず天台の一念三千を引用されています。


>「愚人」など論外である。


客観的にここまでの御三方の絡みを拝見しましたが

愚人さんが一番冷静にみえるのは私だけでしょうか^^
 

通り氏と黒氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)05時06分19秒 softbank126094234056.bbtec.net
返信・引用 編集済
   お二人には、困りました。

 因みに、お二人も仏教上では、愚人なのですよ。
 

まずもって、貴殿らは自分の宗旨を明確にせよ!

 投稿者:黒川 和雄@日蓮正宗  投稿日:2016年 9月24日(土)01時14分53秒 p1137-ipbfp2603osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  何やら、わけの分からん脳タリンが多数ごたくを述べておるが、

貴殿らは「自分の宗旨」をこの掲示板に於いて明確にしておるのか?

ハッキリせよ!!

「愚人」など論外である。自ら「阿呆」と述べておる。笑 笑笑 笑笑 笑

このような脳タリンに逐一反論する必要はない。

以上
 

愚人くん

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)00時58分41秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用
  頭いかれましたね。
それは、釈尊の「人師に依るな」を守れない貴方に問題があります。
先ずは、人の質問やコメントを思い込みで判断せず正確に理解しましょう。
 

Re: 黒川 和雄@日蓮正宗さんへ

 投稿者:黒川 和雄@日蓮正宗  投稿日:2016年 9月24日(土)00時39分36秒 p1137-ipbfp2603osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.47103[元記事へ]

法介さんへのお返事です。

> 仏様の事の一念三千の話ではなく、
>
> 今ここで語っているのは「法門」としての一念三千のお話をしているのですから、
>
> 当然、天台の理の一念三千の範疇でしょ

であるから、その法門は「理の一念三千」であり、このようなものをいくら修学しようが時間の無駄であるということだ。

日興遺誡置文に曰く、

「一、当門流に於ては御鈔を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事。」

これに尽きる。呆

以上

 

通りすがりの法華講員氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)00時26分35秒 softbank126094221175.bbtec.net
返信・引用
   今の貴方に必要なのは、心の平和です。

 貴方の心が平和になることを念じています。

 皆が、平和。 皆が微笑む。

 皆つながっている。皆は一つ。

 私は貴方。貴方は私。

 私は、平和。私は、微笑む。

 
 

愚人くん

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月24日(土)00時13分39秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  また、頭おかしくなりましたか?
(いつものことですが)
聞いてることに答えましょうよ(笑)
何故、聞いてることに答えられないのですか?

貴方は理解できていますか?
私の質問も、貴方が用いた福重照平師の著書の内容も。
思い込みは捨てて正しく理解しなさいね。

更に加えますが、貴方が本仏と仰ぐ釈尊が「人師に依るな」と説いてるにもかかわらず、何故堀日亨上人や福重照平師の言を用いるのですか?貴方にとって両者は人師でしょ。きちんと釈尊の教えを守りなさい。
 

通りすがりの法華講員氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月24日(土)00時10分58秒 softbank126094221175.bbtec.net
返信・引用 編集済
   冷静であるならば、始めに、ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐いてください。

そして、今度は、息を吸うときに、

 皆が、平和

と念じ、息を吐くときに、

 皆が微笑む

と念じてください。

 次に、息を吸うときに、

 私も、平和

と念じ、息を吐くときに、

 私も、微笑む

と念じてください。
 

愚人くん

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月23日(金)23時48分54秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用
  私は貴方と違い冷静です。
ですので、貴方の様に「冷静になってください」など他人に対し言わないのです(笑)
これ、理解できますか?
 

通りすがりの法華講員氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月23日(金)23時41分48秒 softbank126094221175.bbtec.net
返信・引用
   もう一度、この言葉を贈ります。

 冷静になってください。
 

愚人くん

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月23日(金)23時40分7秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  私の言っていることを理解できていますか?

堀日亨上人が推薦しているのは、我々法華講員は本門戒壇の大御本尊様を固く信じ南無妙法蓮華経と唱える者に対してであり、福重照平師の著書を正しく理解できるからです。
貴方は、別に本門戒壇の大御本尊様を信じてもいないので、福重照平師の著書を正しく理解できるわけがないでしょ。
信じていない者が殊更に著書を貪っても理解などできませんよ。

貴方にとっては、福重照平師も堀日亨上人も人師でしょ。
人師に依るなは、貴方が本仏と仰ぐ釈尊の言葉です。

ですので、聞いているのです。
何故、福重照平師の著書を『用いる』のですか?
福重照平師は仏様ですか?

お答えください。
 

書き忘れ

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月23日(金)23時39分23秒 softbank126094221175.bbtec.net
返信・引用
   日蓮本仏論 堀日亨氏序文

 故荒木清勇居士は近世稀に見る憂宗の士達信のヒトであつた、曾つて吾正宗の振はざるを慨して最愛が長子を僧になして宗風の扇揚を期せられた、此が本論の著者福重照平房である。(日蓮本仏論序文一頁)

 
 

愚人くん

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月23日(金)23時31分50秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  ※堀日亨氏の推薦があるから用いているのです。
○堀日亨上人は「用いなさい」と言っていたのですか?
もうやめなさいね。思い込みで解釈するのは。
私は至極冷静ですよ。
思い込みで物事を曲解してるのは貴方ですから「思い込みが激しいです」と言っているのです。
 

通りすがりの法華講員氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月23日(金)23時22分11秒 softbank126094221175.bbtec.net
返信・引用 編集済
   堀日亨氏の推薦があるから用いているのです。

 堀日亨氏が、読みなさいと書いているから自称法華講員の貴方に、求めて読みなさいと薦めているのです。

 お願いですから、冷静になってください。
 

愚人くん

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月23日(金)23時15分25秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  聞いてることに答えましょう。
私は「用いるの?」と聞いてるのに、「読みましょう」は、コミュニケーションが成立しないでしょ。
「読むこと」と、「(それを自身の主張に)用いること」は全く違います。
改めて聞きます。

何故、福重照平氏の著書から用いるの?福重照平氏は仏様ですか?

ね。貴方、人の書いてる内容を理解できてないでしょ。
貴方が「思い込み」で、物事をきちんと理解できていないことがわかりますね。そのような「思い込みの激しい者」が日蓮正宗教義の解釈を語っても「貴方の解釈は間違いです。貴方の思い込みです」としか言いようがありません。以前も貴方に指摘しましたが、貴方が「日蓮正宗教義」として提示したものは、全て貴方の思い込みが入っていますので、100%間違いです。貴方の仏教講釈に何一つ仏教教義に合致しているものはありません。
理由は、貴方は思い込みがひどいので、正しくモノを読むことも理解することもできないからです。
 

Re:通りすがりの法華講員様

 投稿者:ぽんぽこ貍  投稿日:2016年 9月23日(金)23時13分18秒 FL1-119-242-223-56.hyg.mesh.ad.jp
返信・引用
  >大霊體の一念三千・・個性と大霊と一如したる無作三身の一念三千を事の一念三千とする。

◇この文言の意味する所が全く理解できません。
 この僧侶は日柱上人退座に関わった中心人物であり、住職した寺は現在正信会
 寺院となって居ります。
 アメリカ留学時にキリスト教の影響をかなり受けた人物で取り上げるに値しないと
 思います。
 キリスト教の三位一体の聖霊、造物主、御子と入れ替えたら良さような表現で
 有ります。
 ちなみに戸田城聖も教員時代にキリスト教に入信し都内の教会に通っていた
 事実が有ります。
 ご参考迄に。
 

通りすがりの法華講員氏

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月23日(金)23時08分36秒 softbank126094221175.bbtec.net
返信・引用 編集済
   堀日亨氏の推薦があるからです。貴方が本当に法華講員ならば求めて読みなさい。

 堀日亨氏の序文

 茲に吾人は歓んで此「日蓮本仏論」を大方の人々に推薦する□否讃謗は何れども是非一度は讀んでもらいたいのである。孝養報恩に供せる一篇に同情の涙を□がれたいのである。(日蓮本仏論序文ニ頁)

 福重照平氏自序

 茲に特記すべきは、堀日亨上人法務山務の時間を割て親しく原稿の校閲を給り、弊所を指摘して暁諭懇篤、爲めに著者をして更に推敲改訂以て大過なきを得せしめ給ひしを拜謝することであります。(日蓮本仏論自序四頁)

 
 

愚人くん

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2016年 9月23日(金)22時48分58秒 p1892093-ipngn16501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  何故福重照平氏の著書を用いるの?
その方は仏様ですか?
また、貴方はその方(日蓮正宗 福重照平師)の書いた内容を正確に理解できますか?
 

福重照平著『日蓮本仏論』から(一)

 投稿者:愚人  投稿日:2016年 9月23日(金)22時31分3秒 softbank126094221175.bbtec.net
返信・引用 編集済
   第八章 一念三千

 一念三千は法華経の沖微であり、法體である。法華経が迹本文底と三重に分別されるに付て又一念三千が三通り孝へられる。理體として論ずれば唯一個の一念三千であるが、事體行體として論ずる時三個の一念三千となる。觀心本尊鈔の五重三段の後の三種の三段に説かれたる法體が正しくそれである。三大秘法鈔は迹門と文底と相對して二種の一念三千を擧げてある。此時文上本門の法體は、凡夫と佛のそれは天地の懸隔あるなれども等しく個性の一念三千なるを以て之を迹門に攝して理とし、大霊體の一念三千・・個性と大霊と一如したる無作三身の一念三千を事の一念三千とするのである。(大日蓮編集室発行 故 福重照平著 『日蓮本仏論』昭和五十五年八月十五日四版 ニ七五頁)
 

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