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管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月21日(日)08時29分50秒 softbank126074092129.bbtec.net
返信・引用
   まさかの敵前逃亡などしませんよね。

 こちらは管理人さんの願いに応じて此の閑古鳥板に投稿したのですから、私の要求に答えて全ての堀を埋め立てて下さいよ。

 もしかして、埋め立て能力が無いのですか?。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月20日(土)18時37分28秒 softbank126074092129.bbtec.net
返信・引用
   江戸に退散ですか?。  

愚人へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月20日(土)17時59分50秒 i223-217-144-156.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  時間を割いて観てみれば、又しても「埋め立て作業が全部終了するのを待ってます」などと言っておる。呆呆哀。

当方はお主に言ったよな。

『次回も同じ様に、早く全部埋めて下さい。などと駄駄を捏ねるならば、其れこそは論窮が故の遁逃弁と
見なすから、其のつもりでいなさい。よろしいか』と。

…呆呆哀。

よいか。今一度言うぞ。

当方は、一つづつ、と言ったのである。張られた堀を外堀から一つづつ埋めて往く、と言ったのである。

さても、お主は「字読」が出来んのか。

よいか。あれもこれもは、見えにくくなるから、一つづつ進めて参ろうと、初手から申しているのである。

其れを『全部埋めてからにして下さい』などと駄駄を重ねおって!

なんだ。当方の鳴子外しの埋立法では論陣が張れぬと申すのか。哀笑。

て言うか、(焦らなくても良いので)とは御前(オメ―)の言葉だよ! 呆怒。

ったく、今更にして何を言う。呆。

>家康の大阪城の堀の埋め立てはソンな生易しいものではありませんよ
>夏の陣に関する書籍は沢山出版されているので、一冊くらい読んでみて下さい。

おいおい、誰にモノを申しておるのだ?
愚人の癖して生意気な事を言うものではない。
本より、愚人の癖とは、当室からして不信違背者に対する責称である!

尚言うが、大阪城攻めと、オマエに対する責めとでは、比較にならぬ程、オマエの方が容易(たやす)い。

しかしだ。其の容易さも、お主の其の繰り返す駄駄によって、作業が進まん。

呆哀。なんだ「埋め立てはソンな生易しいものではありませんよ」とは、そーゆー意味であったのか。鼻笑。

一つづつ埋めて往く、と申せば、いや、全部埋めてからにしてくれ。と。

呆怒。

よいか! これは破折論文のやり取りではない! 是れこそはお主の我見狂義に対する呵責応答である!
爾して、其の狂義に対して一つづつ付随の質問を重ね往き、お主の矛盾点を炙り出し、其の己義私見たる
罪言を責断する事こそが、今にして行う埋立て作業なのである!

よいか。一つづつ行って往けば、いずれ其れが全部と成って往くのである。

だからこそ言う。

本より、此の作業に於いて、当初の論点から些(いささ)かも逸れる事無く、一途、核心の論点に向かって
進むものである。爾して其れこそは、お主が外堀に張っている『鳴子』を取り外す作業から始めるものであると。

よいか。何度も同(おんな)じ事を書かせるものではない。

其れとも何か。一つづつ化けの皮が剥がされて往くのが、そんなに怖いか。

最早、聞く耳は持たんぞ。

よいか! これが最後である。

してもし次回、「全部の埋めてを待ってます」などと同じ駄言を繰り返したならば、其れこそは論窮が故の遁逃弁と
見なし、当対論を此に差し止め、お主の論敗を此に決する。(本より『論敗』とは、邪義確定の意をして云うものである)

無論、其の決後による不平不満、及び小細工弁(負け惜しみの答弁)なども一切受け付けない。

尚、当室に於いて論敗した者は、当室から追放(投稿遮断)されるが通例となっておるから、其のつもりで居りなさい。

以上である。
 

訂正

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月18日(木)19時29分9秒 softbank126074070204.bbtec.net
返信・引用
   シロではなくサカです。  

如水さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月18日(木)19時21分29秒 softbank126074070204.bbtec.net
返信・引用
   生まれて半年後に受戒を受けた赤ちゃんに、信がありますか?。

 日蓮聖人の晩年は病に苦しんだ事は理解しているのですね。

 日蓮聖人には病に苦しむという何かしらの業因が、過去世にあったということです。



 私にもそのような業因を過去で作っていれば、私も日蓮聖人と同じように、苦しむことになります。それが、業因業果というものです。

 しかし私は、そこに仏神の不思議な癒しの有ることを信じています。

 
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月18日(木)19時09分51秒 softbank126074070204.bbtec.net
返信・引用
   管理人さんの埋め立て作業が全部終わるのを待ってます。

 家康の大阪城の堀の埋め立てはソンな生易しいものではありませんよ。

 大坂(当時はこのシロです)城夏の陣に関する書籍は沢山出版されているので、一冊くらい読んでみて下さい。

 

愚人へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月18日(木)18時05分38秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >早く、全部の埋め立てをお願いします。

呆哀。お主の目は節穴か。

堀の埋め立ては全部ではない。

一つづつ埋めて往くのである。

そして、其の一つ一つの埋め立て作業が、お主が今まで断言して来た言魂の検証であり、確認であり、
又、その為の問いなのである。決して、詰論の主意から外れるものではない。

よろしいか。堀は、外堀から埋めるのである。

ったく、御三家の名を挙げて、其の名代の権威を例としたお主ならば、城攻めの手法など心得ておろうが。

だから言っているだろう。お主は彼の「秀頼」であると。哀。

よいか。今一度言う。

堀は一つづつ埋めて往くのである。

尚、『私の返答は、管理人さんの埋め立ての後です』などと言っておるが、当方がいつ、全部いっぺんに
埋めると申したか。よいか。当方は埋め立作業の分類を挙げたのである。よいか。全部いっぺん、ではない。
ったく、そんな事をしたら、堀埋作業が広範囲となり、お主の急所に対する攻撃が緩慢に成るであろう。
よいか。一つづつ進め、其の一つづつに関して付随の質問を重ね、お主の矛盾点を炙り出し、其の己義私見の
罪言を責断して往くのである。(そんな事、当たり前だろう)

では再詰する。

よいか。これはお主が外堀に張っている『鳴子』を取り外す作業である。

されば、心して答えなさい。




>私は、初信の位なのですか?。だとしたら六即でいえば名字即ですね。

お主は「初信の位だとしたら、其れは名字即ですね」と言ったであろう。
して、お主は、私も日蓮聖人も仏であるが、そこには六即からの次第がある、と言った。
ならば、お主と大聖人との「六即の次第」を此に申せ。




而してお主は、日蓮聖人と弟子檀那は、名字即以上の仏になるという。
されば問う。理即に対する名字即以上の仏とは一体何か。答えよ。




加えて、名字凡夫の釈迦如来と、名字即以上の日蓮大聖人と、一体どちらが、六即からして上なのか。
爾して、お主の名字即と日蓮大聖人の名字即と、一体何が違うのだ。




尚、日蓮大聖人はこう仰せらる。
『釈尊久遠名字即の位を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり』と。
して、その「身に移せり」とは「順じて」の意であるという。
ならば、釈尊久遠名字即に「順じた」日蓮大聖人が、何故に名字即以上の
仏と成り得るか。お主は其れを申せ。

以上である。

尚、次回も同じ様に、早く全部埋めて下さい。などと駄駄を捏ねるならば、其れこそは論窮が故の遁逃弁と
見なすから、其のつもりでいなさい。

よろしいか。
 

如水殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月18日(木)17時22分28秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  わざわざの御投稿、痛み入ります。

さても「愚人殿」から「愚人」へと呼び名が変わり、今では、お主、オマエ、と辛辣に呼称しておりますが、
其れも是れも、全て、彼の四条金吾が親鸞に対し「蚊だ! 虻だ! 蝦蟇法師だ!」と痛烈に呵弾した事に
ついて、其れは全て経文どおりであるから、別段、咎められるものではない」とする、日蓮大聖人の仰せに
従うものであり、決して私情私憤のものではありません。

如水殿の御洞察。流石(さすが)であります。

尚、当室は、御存じの如く、投稿仕様が「確認後掲載」となっておりますので、管理人が自宅に戻り、
パソコンを開いて当室を閲覧し、其の上の確認に於いて、ようやく掲載される仕組みになっておりますので、
御投稿に際しては、まことに御不便とは存じますが、これもアンチからの荒らし投稿防止の処置でありますので、
如水殿には何卒、御了解頂きますよう、お願い致します。
 

管理人様

 投稿者:如水  投稿日:2018年 1月17日(水)23時57分17秒 sp49-98-54-96.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  管理人さんへのお返事です。

これは投稿ではなく、管理人様への私信です。

管理人様のご投稿は難しいのですが、腹にストンと落ちてきます。

本当にありがとうございます。

愚人さんはかわいそうですね。

御戒壇様の御脇書きの真意など云々してどうなるのでしょう?

私は信心未熟ですので管理人様の様には慈悲深い言動はできませんので、不適切な投稿は管理人様のご判断で不掲載にしてください。
 

愚人さん

 投稿者:如水  投稿日:2018年 1月17日(水)23時29分3秒 sp49-98-54-96.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  >  ○これからもお願いします。

めったに来れませんがよろしくお願いします。

> > 戒壇の大御本尊は在家信者達が造立した
>
> 仏様はモノじゃない!
>
> ので、上記のもの言いは不信の言葉です。
>
>  ○在家が板本尊を造立しても、その板本尊には妙楽大師が「乃ち是一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」と教示しているように、仏性が具わっているのです。

理屈はそうですね。
だから理即っていうんじゃないかな?
でも仏性とは仏になれる可能性であって、即仏様ではありません。
ごっちゃにしたらダメですよ。

> 私は、つい乱暴に扱ってしまいますが。

え?
まさか御本尊様を?


あなたね、邪宗門の徒でも自身の信仰の対象は大切にしますよ。

それではもはや信仰者ですらない。

ただのならず者じゃないですか?

>  ○初めから信なくして入っているので。

は?

どうして「信なくして」御授戒受けたんですか?

それってただの嘘つきじゃないですか?
だって御授戒のときに誓ったでしょう?
日蓮正宗の三宝を信じ、三大秘法を信じ、不妄語戒をたもつって!

人としていかがなもんでしょうか?


>  ○たぶん、苦しむということだとおもいますが、強盛な信心を貫き通した日蓮聖人は、晩年に手紙に署名を出来ないぐらい病に苦しむ衰弱してしまいました。日蓮聖人には、病に苦しんで衰弱するという何かしらの因縁があったのでしょう。私も苦しんで衰弱することがあれば、それは過去世からの因縁だと思って受け入れていくつもりです。

ああそうですか?

ご立派な覚悟ですね。

その言葉お忘れなきように。

私は申し上げるべきは申し上げました、

…と思います。

では(-_-)/~~~
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月17日(水)18時44分18秒 softbank126074111116.bbtec.net
返信・引用
   早く、全部の埋め立てをお願いします。

 

愚人へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月17日(水)17時55分2秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >焦らなくても良いので、私を反論不能に陥らせる内容のものを期待しています
>前に同じ内容のものを投稿していましたね。
>同じ内容のものを二度送ってしまい、申し訳ないです。

鼻笑。焦っておるのは、お主の方ではないのか? 鼻笑。

重複投稿。今回のみではあるまいに。小鼻笑。

>早く、埋め立てて下さい。

鼻笑。だから、焦るではない。哀笑。

>私の返答は、管理人さんの埋め立ての後です。

よろしい。

では早速、埋め立てて往くが、抑も、お主は其の初手からして、講員として論示が破綻しておるから、
先ずは其の事を理解するように。とまれ、講中に於いて信無き者は、信有る者からして劣悪であるという事を
此に識(し)りなさい。

尚、お主は「それは当然、私に反論をする余地を与えない内容ですよね」などと逃げ釘を打っておるが、
お主のような屁理屈者が、素直に閉口屈服するとは思えんし、どのみち、あーでもない、こーでもない、と
小理屈を構えるのであろう。そしてお主は言う。「すみません。反論しっかりと出来てますが~(笑)」と。哀笑。

ったく、お主という奴は、其の性根から腐っておるよな。

反論する余地を与えない? 阿呆! 余地が無くとも、小理屈を並べ立てるが、お主の骨頂であろうが!

まぁよい。

兎にも角にも、一つづつ進めて参ろう。

あれもこれもは、見えにくくなる。

>私は、初信の位なのですか?。だとしたら六即でいえば名字即ですね。

お主は「初信の位だとしたら、其れは名字即ですね」と言ったであろう。

して、お主は、私も日蓮聖人も仏であるが、そこには六即からの次第がある、と言った。

ならば、お主と大聖人との「六即の次第」を此に申せ。

而してお主は、日蓮聖人と弟子檀那は、名字即以上の仏になるという。

されば問う。理即に対する名字即以上の仏とは一体何か。答えよ。

加えて、名字凡夫の釈迦如来と、名字即以上の日蓮大聖人と、一体どちらが、六即からして上なのか。

爾して、お主の名字即と日蓮大聖人の名字即と、一体何が違うのだ。

尚、日蓮大聖人はこう仰せらる。

『釈尊久遠名字即の位を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり』と。

して、その「身に移せり」とは「順じて」の意であるという。

ならば、釈尊久遠名字即に「順じた」日蓮大聖人が、何故に名字即以上の
仏と成り得るか。お主は其れを申せ。

尚、管理人の責務に於いて繰り返しの事となるが、本日は今より明日未明まで、
又、今週の金曜、土曜は特に繁多となり、投稿文の掲載が一両日出来ない場合もある由。
其の点、投稿者・閲覧者各位には予め御了承願いたい。
 

お詫び

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月17日(水)05時05分47秒 softbank126074098235.bbtec.net
返信・引用
   ・前に同じ内容のものを投稿していましたね。

 ・同じ内容のものを二度送ってしまい、申し訳ないです。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月17日(水)05時03分47秒 softbank126074098235.bbtec.net
返信・引用
   ・全てを埋め尽くすものであることを期待していますよ。

 ・それは当然、私に反論をする余地を与えない内容ですよね。楽しみに待ってます。

 ・焦らなくても良いので、私を反論不能に陥らせる内容のものを期待しています。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月16日(火)18時57分4秒 softbank126074098235.bbtec.net
返信・引用
   管理人さんの埋め立てを待ってます。

 早く、埋め立てて下さい。

 私の返答は、管理人さんの埋め立ての後です。

 内容のある埋め立てをお願いします。

 
 

愚人へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月16日(火)18時38分57秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用 編集済
  はて観れば、返答が無いようであるが、別に焦る事はない。

此の度の対論に於いて、別に毎日投稿せよ、と決めているものではない。

そーこーしている内に、当方の仕事も週末に近づいて忙しくなりそうである。

因みに本日は早朝に帰宅し、四時間程の睡眠を取って、又しても先方にて営業。

こういう日が週にランダムに現れて、其れこそ、飯も食わねばなら無しい、睡眠も取らにゃならないし、
其れこそは、勤行唱題もしっかりとせにゃならないし、最早、目ん玉がクルクル回って眩暈を起こす。

して、そんな忙(せわ)しない奴が、目の前にあるパソコンに電源を入れ、机の上に片肘を付きながら、
自身の掲示板に目を通す。

まぁ、そんな日々はである。鼻笑。

さて又、後二時間もすれば、本日も仕事となる。

今から風呂となれば、詳細なコメントも書けまい。

尚、今後の堀の埋め立て作業は、以下の文言が対象となる。


・曼荼羅本尊は釈迦如来の一身の当体。
・末法の凡夫僧は釈迦初来。
・末法凡身の釈迦如来は曼荼羅本尊の中に居る。
・凡夫僧の釈迦如来とは、本仏に即した凡夫僧。
・日蓮聖人は付嘱に順じて(曼荼羅本尊)書き顕しただけ。
・一切衆生は妙法蓮華経にして仏であるから日蓮聖人も私も仏。(違いは六即の位)
・釈迦如来から順じて付属された曼荼羅本尊が釈迦如来の一身の当体。
・弥四郎国重法華講衆等は日蓮聖人に戒壇建立を願いでた。

追記。

>五百塵点劫の当初に即座開悟した釈迦如来が、根本の法華経の行者であることが理解でなければ駄目です。
>日蓮聖人の法門を理解することなど無理です。一度、大石寺の法門を棄ててみなさい。

鼻笑。五百塵点劫の当初に即座開悟した釈迦如来が、お主の云う、末法凡身の釈迦如来にして、其の当体こそが
曼荼羅御本尊であると。

哀笑。まぁよい。

さても、向門でもない、隆門でもない、陣門でもない、什門でもない、爾して、創価でもなければ、正信会でもない。
果たして、そんな自称法華講員が、法華講員の当方に対して「 一度、大石寺の法門を棄ててみなさい」などと言う。

呆哀哀。さてもお主はキマイラか。哀笑。

いやはや、大石寺の法門を棄てよ、という法華講員が、此の世に居ようとは。哀哀哀。

呆怒。

ならばお主こそ、法華講から脱講せよ!!

さても、お主のような腐り切った身中の蝗蟲が講中に寄生しているなど、虫唾を越して反吐(へど)が出るわい!

よいか! 講員に対して大石寺を棄てよ、とう豪語するならば、先ずはお主こそが講員をやめるべきである!

そうであろうが! ったく、道理の解らぬ奴め!

呆哀。世迷言もいい加減に致せよ。

尚、先にも申したが、当方は週末から忙しくなる。

仍って、投稿の掲載も遅れようが、其れについては、しっかと順次掲載し、論点の整足も含めて、
論比の成り往きを掲示して往きたい。又、是れこそが管理人の責務であると思う。
 

愚人へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月15日(月)19時32分8秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  ・やっと、管理人さんから解放されるのですね。ランランラン♪。

>されば、お主の小理屈を此に責断し、腐れ講員による与太話を此に閉じよう。

 ・そうですね。もうそろそろ止めましょう。

>鼻笑。はて、此の意味、解ろうか。

 ・要するに面倒くさくなった。


阿呆。そーではない。鼻笑。

お主の小理屈を此に責断し、オマエの様な腐れ講員の与太話を閉じ込めよう、としているのである。

よいか。聞け。当方は、場当たりに論詰しているのではない。ましてや、矢鱈に同じ事を問うているものでもない。
其れこそは、オマエが張り巡らす其の邪見の堀を少しつづ埋め立て、遂には裸の小城と成って、赤恥を掻くよう論立て
しているのである。よいか。そういう論立てを同じ事にしか聞こえない、オマエの脳髄こそが腐っているのである。

・法華経も三大秘法も衆生の願いに応じてではなく、自らの意思で説いたのですよ。
・何回説明したら理解できるのですか?。

呆呆。だから、当方が何時「法華経は衆生の願いによって説かれたものだ」と申したのか。
お主こそ、同じ事を言わせるでない。

よいか。

当方が論詰しておるのは、

お主の、

・衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

に対してである。

仍って当方は、其のお主の言い分に対し、大御本尊建立の意義に宛てて、

『されば、衆生に此の機有って仏を感ずる、とは応に願主の意に通じ、仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
とは応に図顕造立に通ず』と述べ、爾して『造立如件 本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等 敬白』とは、
応に是れこそ能所一体の敬白文なりと結論したのである。

よいか。衆生に此の機有って仏を感じ、仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、とは、当に一大事因縁を示す
ものであり、当に因縁とは仏と衆生の相関をして云うのである。仍って、大御本尊の敬白文に於いては、
其の能(仏)と所(衆生)の一体義に於いて拝するが正見であり、「敬白」は一方的に弥四郎国重在家衆からの
ものと妄言してはならん、と言っているのである。

してお主は、其の都度に於いて

・『法華経』は衆生の願いに応じて説かれたお経ではなく、仏様が自らの意思で説かれたお経です。
・寿量品に彼の文があっても日蓮聖人が言われているように『法華経』は随自意のお経です。

などと述べて、法華経は随自意の経であるから、衆生の願いに応じて説かれたものではなく、
衆生の願いも又、法華経を説いて貰う事ではない、と言っておる。

して、加えてこうも言う。

・釈迦如来の出世の本懐である法華経は、衆生の機が熟したのを知るも、衆生の求めに応じて説かれた
・のではないのです。

と。

されば、『衆生の機が熟した』とは如何なる事か。さても『法華経を説いて貰う事ではない衆生』の、
何の機が熟したと言うのか。オマエは其れに答えなさい。

して、当方は、

・衆生が願ったのは仏の出世であり、法華経を説いて貰うことではない。

というお主の弁に対し、

『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは何か。と問うた。

つまり、其の主意こそは、願って法華経を説いて貰う事ではない、という衆生が、
如何なる「之」を説き給へ、と仏に願ったのか、という事である。

さても、願ったのは仏の出生であり、法華を説いて貰う事ではない、という衆生が
何故に願うのか。

さればお主は言う。

・(之とは)国語の読解力のテストならば、「誠諦之語」で正解ですよ。

加えてこうも言う。

・(誠諦之語とは)釈迦如来の寿命に関する説法です。と。

されば「誠諦之語」とは、其の奥義からして当に南無妙法蓮華経をして言うものであろうが。

さても、仏よ、南無妙法蓮華経を説き給へ、と。

実(げ)に是れこそ、衆生をして法華の教説を願う姿ではないか。

よいか。何度も言うように、衆生に此の機有って仏を感ずる、とは、当に衆生からして法華を受く機因が
そこには在る、という事であり、其の機因を受けて応ずる仏の姿こそが、当に能所一体に於ける出世の本意と
成るのである。されば、衆生を救う仏と、仏に救われる衆生とは、応に其の因果に於いて一体という事である。
爾して、説く所の「能」と、説かれる所の「所」とは、応に自他随を包含した、能所一体の質(すがた)と成る
のである。

然るに、お主は「随自意」の外相面に固執し、其の上っ面(うわっつら)の解釈を以って「法華経は随自意のお経」と
片言し、其の言い訳として御書の一文を以って理屈を捏ねておるが、お主が引用した日蓮大聖人の一文こそは、
信心修行に於ける法華の主導を述べたものであり、一方の文は、爾前迹門の随他意に対しての、本門の随自意たるを
述べたものである。つまりは教体に於ける対比を示したものである。

よいか。当方が論詰しておるのは、法華経は随自意の経であるから、衆生の願いに応じて説かれたものではなく、
衆生の願いも又、法華経を説いて貰う事ではない、と言う、お主の其の盲言に対して呵責しているのである。

曰く『今の法華経は自力も定めて自力にあらず、十界の一切衆生を具する自なる故に。我が身に本より自の仏界、
一切衆生の他の仏界我が身に具せり。されば今仏に成るに新仏にあらず。又他力も定めて他力に非ず、他仏も
我等凡夫の自ら具せる故に、又他仏が我等が如き自に現同するなり』と。【新編 97】

お主こそは今一度、随自意の何たるかを勉強しなさい。哀哀。

さて、今日はここ迄としよう。

されば、お主の云う「釈迦如来曼荼羅」については、其の後にする。

堀は一つづつ埋めるに限る。

ざればお主こそは、彼の秀頼と同である。哀哀哀。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月14日(日)20時16分52秒 softbank126074077093.bbtec.net
返信・引用
  五百塵点劫の当初に即座開悟した釈迦如来が、根本の法華経の行者であることが理解でなければ駄目です。日蓮聖人の法門を理解することなど無理です。一度、大石寺の法門を棄ててみなさい。  

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月14日(日)20時00分52秒 softbank126074077093.bbtec.net
返信・引用
  呆哀。しかし、お主という奴は、まこと口減らずの小理屈男であるよな。呆。

ったく、一々の小返事は要らんと言っているだろう。

 ・管理人さんが、小返事を誘発するからですよ。

阿呆! お主の様な者に「日蓮」などと呼び捨てられる日蓮大聖人ではない、と申しているのである!

 ・私も管理人さんも同じ阿呆。同じ阿呆なら踊らなきゃソンソン♪♪

日蓮聖人はそんな事を気にはしません? 阿呆!! 気にしてないのはオマエだよ!

 ・私は、気にしていませんよ。ルンルン♪。

ったく、無神経な奴め。呆怒。

 ・無神経でないと管理人さんと対話できません。

して観れば、下らん事を愚駄愚駄と言い並べおって!

 ・面白かったでしょ?。

哀。まぁよい。そろそろ最後と成ろう。

 ・やっと、管理人さんから解放されるのですね。ランランラン♪。

されば、お主の小理屈を此に責断し、腐れ講員による与太話を此に閉じよう。

 ・そうですね。もうそろそろ止めましょう。

鼻笑。はて、此の意味、解ろうか。

 ・要するに面倒くさくなった。

其れにしても、お主という奴は、慇懃にして惚けた奴であるよな。

 ・毎度、お褒めを頂きありがとうございます。

呆怒。だから死んでるんだよ。講員として。哀哀哀。

 ・それじゃあ私は、幽霊?。だから幽霊G。

ったく、ふざけた奴め。

 ・だから、真面目ですって。

>>日蓮大聖人は仏には非ず、而して、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、とな。

阿呆! 日蓮大聖人は仏に非ず、とは、お主の愚弁を申しているのである。

してお主は、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、と言っておる。だから、愚人だ、と言っているのである。

ったく、お主の目ん玉は何処(どこ)に付いておるのか!

 ・額の下に付いています。

呆哀。末法の仏は凡夫身の釈迦如来だとお主は言う。だから、其の凡夫身の釈迦如来とは何かと問う。
すると其れは、色相の仏ではなく凡身の仏だという。阿呆! そんな事ぁ初手から成っておろう。
よいか。此の問いは、して其の凡夫身は何処(どこ)に居るのか、という詰問に係っているのである。
して、其の詰問に対して答えが無いではないか。されば問う。凡夫身の釈迦如来は何処に居るのか。

 ・漫荼羅本尊の中に居ます。

爾して、末法の凡身僧は、何処(いずこ)に居るのか。お主は其れに答えなさい。

 ・この凡夫僧とは本仏ですから漫茶羅本尊の中に居ます。

小笑。つまりは何だ。非仏と本仏の間に仏がある、という事かいな。小笑。

 ・これは私の表現のミスですね。免御。一切衆生は妙法蓮華経にして仏です。

ならば、日蓮大聖人は仏であるか! して、其の仏は、別してお主と同等であるか! 答えよ!

 ・一切衆生は妙法蓮華経にして仏ですので日蓮聖人も私も仏です。しかし六即の上からの次第はありましょう。

御義口伝に曰く!『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。
今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは
末法の法華経の行者なり』と!

 ・そうです。仏です。信心していない人は理即の仏。日蓮が弟子檀那等は、名字即以上の仏となりましょう。

されば、上義を別してば往けば「末法の法華経の行者」とは応に日蓮大聖人の御事と成るのであり、

 ・日蓮聖人と弟子檀那の間には、師弟の次第がありますから、その関係において、そのような表現も出きると思います。

さても、釈尊をして別すれば無作の三身と成り、実(げ)に其の無作三身の御当體こそ、日蓮大聖人と
成るのである。

 ・なりません。

尚、念の為に言って置くが、無作三身の法華経の行者とは、お主の事ではない。

 ・自分でも思っていないので、ご心配なく。

されば、末法の衆生に対して教主となるは、応に衆生からして仏となる意ではないか。

 ・一切衆生は妙法蓮華経にして仏ですからね。

されば、此の閻浮提に於いて、本未有善以外の衆生が居るとでもいうか。

 ・いるわけないでしょう。

爾して、其の『寿量品の教主』をして仏と為すに何の誤謬があろうか。
然るに、教主とは仏の異名であろうが。

 ・日蓮聖人は本仏からの付嘱を受けて本仏の名代として布教していますからね。御三家でも将軍の名代の者には平服しなければならないの、知ってました。

末法の衆生に対して法華の行者が教主と成り、其の教主をして衆生が成道するとは、
応に是れこそ機縁に於ける能所一体の態相であり「衆生が願うは仏の出生のみにて、法華経(妙法)を
説いて貰う事ではない」とするは、当に断片撞着(どうちゃく)の小論となるものである!

 ・法華経も三大秘法も衆生の願いに応じてではなく、自らの意思で説いたのですよ。何回説明したら理解できるのですか?。

されば曰く『法華経の意は能所一体なり』と。よいか、法華経の意(こころ)は、説く能と、受く所に
於いて一体なのである。されば曰く『古今能所不二にして法華の深意をあらわす』と。

 ・仏様が説いた法華経を信解した衆生は能所一体ですよ。『当体義抄』に書いてある通りです。

さても、日蓮大聖人が五百塵点劫の当初の衆生と末法の衆生に三大秘法を説かれた、とは
如何なる事か。而して、其の三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したものだ、と言っておるが、されば、
釈迦如来が五百塵点劫に修行した三大秘法を、日蓮大聖人が五百塵点劫の当初(そのかみ)に、其の当初の衆生と
末法の衆生に三大秘法を説いた、とは、如何なる文証を以って其(そ)を論じるか。其れを此に示せ。

 ・『三大秘法抄』『当体義抄』『総勘文抄』『曾谷殿許御返事』。文は今までの投稿にあります。

されば、釈迦如来から順じて付属された曼荼羅本尊が釈迦如来の一身の当体とは、何処(いずこ)の文に在るか。

 ・『観心本尊抄』

爾して「順じて」とは如何なる事か。

 ・「順」をググってみて下さい。

加えて、付属に順ずる曼荼羅が釈迦如来一身の当体とは如何なる事か。
其の文証を此に示せ。

 ・「観心本尊抄」のアノ文。

曰く『釈尊久遠名字即の位を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり』と。【新編 1684】

爾して「移す」とは「順ずる」意となるか。

されば、久遠釈尊の位を、日蓮大聖人が其の身に移し、曼荼羅御本尊を御図顕するに、其の曼荼羅の当体が
日蓮大聖人の御当體と成るは、当に理在絶言ではないか。


 ・日蓮聖人は釈迦如来の名代として漫茶羅本尊を顕した。その本尊は釈迦如来の当体。日蓮聖人は付嘱に順じて書き顕しただけ。

されば言う。

『釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を
供養せん功徳はすぐれたり』と。【新編 739】

さても、此の大聖人の法師品の一文に対する解釈からすれば、お主が言う処の釈迦如来の当体たる曼荼羅は、
一中劫の間、ねんごろに供養しようとも、法華経の行者への供養よりも劣る、という事になる。

 ・この文は法勝人劣の文。霊山の釈迦如来は末法の衆生には利益がない。末法の衆生に利益がある南無妙法蓮華経を釈迦如来から付嘱を受けた日蓮聖人。だからこその文。たからと言って、日蓮聖人は本仏ではない。日蓮聖人もそのことを弁えて本師釈迦如来としている。

果たして、末法法華経の行者よりも劣る釈迦如来曼荼羅とは、一体如何なる曼荼羅であるのか。

 ・管理人さんの誤解。

お主は其れを説明致せ。

 ・私の上の説明をよく読んで下さい。

尚、今よりは留守となる。

 ・留守番しましょうか?。

したがって、残りの痴文に対しては、後日の呵責となる。

 ・痴文なんて、照れるなあ。ポリポリ。

尚、此に重ねて言う。
こーゆー言い方はやめよ!

 ・彼の人の表現です。

腐っても法華講員ならば、少しは恥を識(し)りなさい!

 ・お互いに知りましょう。
 

愚人へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月14日(日)18時15分59秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  呆哀。しかし、お主という奴は、まこと口減らずの小理屈男であるよな。呆。

ったく、一々の小返事は要らんと言っているだろう。

>・差別面から言えば、其の通りです。

ならば「日蓮」などと呼び捨てにするものでない!

>・日蓮聖人は、そんな事を気にはしません。

阿呆! お主の様な者に「日蓮」などと呼び捨てられる日蓮大聖人ではない、と申しているのである!

日蓮聖人はそんな事を気にはしません? 阿呆!! 気にしてないのはオマエだよ!

ったく、無神経な奴め。呆怒。

して観れば、下らん事を愚駄愚駄と言い並べおって!

哀。まぁよい。そろそろ最後と成ろう。

されば、お主の小理屈を此に責断し、腐れ講員による与太話を此に閉じよう。

鼻笑。はて、此の意味、解ろうか。

其れにしても、お主という奴は、慇懃にして惚けた奴であるよな。

>>呆哀。お主の頭は、七分に割れておるのか。

・七分に破れていたら、死んでいます。

呆怒。だから死んでるんだよ。講員として。哀哀哀。

ったく、ふざけた奴め。

>>日蓮大聖人は仏には非ず、而して、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、とな。

・えっ?!。日蓮聖人は漫茶羅本意ではないのですか?。管理人さんは日蓮聖人は、仏像本意だと考えているのですか?。

阿呆! 日蓮大聖人は仏に非ず、とは、お主の愚弁を申しているのである。

してお主は、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、と言っておる。だから、愚人だ、と言っているのである。

ったく、お主の目ん玉は何処(どこ)に付いておるのか!

>>爾して、お主は言う。
>>末法の仏とは凡夫身の釈迦如来のことである。と。
>>されば、凡夫身の釈迦如来とは何か。して、凡夫身は何処(どこ)に居るか。答えよ。

・凡夫身の釈迦如来とは色相荘厳の仏様ではなく、凡身の仏様です。

呆哀。末法の仏は凡夫身の釈迦如来だとお主は言う。だから、其の凡夫身の釈迦如来とは何かと問う。
すると其れは、色相の仏ではなく凡身の仏だという。阿呆! そんな事ぁ初手から成っておろう。
よいか。此の問いは、して其の凡夫身は何処(どこ)に居るのか、という詰問に係っているのである。
して、其の詰問に対して答えが無いではないか。されば問う。凡夫身の釈迦如来は何処に居るのか。
爾して、末法の凡身僧は、何処(いずこ)に居るのか。お主は其れに答えなさい。

>>されば問う。其の寿量品の教主は非仏であるか。此に答えよ。

・末法の法華経の行者である日蓮は、残念ながら非仏です。年のために言っときますが、
・非仏とは本仏ではないということですよ。
・私も管理人さんも本仏ではないが、仏です。文意は「当体義抄」と同じです。

小笑。つまりは何だ。非仏と本仏の間に仏がある、という事かいな。小笑。

ならば、日蓮大聖人は仏であるか! して、其の仏は、別してお主と同等であるか! 答えよ!

御義口伝に曰く!『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。
今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは
末法の法華経の行者なり』と!

されば、上義を別してば往けば「末法の法華経の行者」とは応に日蓮大聖人の御事と成るのであり、
さても、釈尊をして別すれば無作の三身と成り、実(げ)に其の無作三身の御当體こそ、日蓮大聖人と
成るのである。尚、念の為に言って置くが、無作三身の法華経の行者とは、お主の事ではない。

して、其のお主が言う。

・法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となる。と。

されば、末法の衆生に対して教主となるは、応に衆生からして仏となる意ではないか。
されば、此の閻浮提に於いて、本未有善以外の衆生が居るとでもいうか。
爾して、其の『寿量品の教主』をして仏と為すに何の誤謬があろうか。
然るに、教主とは仏の異名であろうが。

してお主は、

・釈迦如来から付嘱を受け南無妙法蓮華経を唱え衆生に下種を為す地涌菩薩すなわち法華経の行者は、
・本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となるのである。

などと言うが、末法の衆生に対して法華の行者が教主と成り、其の教主をして衆生が成道するとは、
応に是れこそ機縁に於ける能所一体の態相であり「衆生が願うは仏の出生のみにて、法華経(妙法)を
説いて貰う事ではない」とするは、当に断片撞着(どうちゃく)の小論となるものである!

されば曰く『法華経の意は能所一体なり』と。よいか、法華経の意(こころ)は、説く能と、受く所に
於いて一体なのである。されば曰く『古今能所不二にして法華の深意をあらわす』と。

尚、お主は、

・三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したもので、日蓮聖人は、それを付嘱されて五百塵点劫の当初の衆生と
・末法の衆生、則ち本未有善の衆生に説かれたのです。本仏は釈迦如来です。

などと言っておるが、さても、日蓮大聖人が五百塵点劫の当初の衆生と末法の衆生に三大秘法を説かれた、とは
如何なる事か。而して、其の三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したものだ、と言っておるが、されば、
釈迦如来が五百塵点劫に修行した三大秘法を、日蓮大聖人が五百塵点劫の当初(そのかみ)に、其の当初の衆生と
末法の衆生に三大秘法を説いた、とは、如何なる文証を以って其(そ)を論じるか。其れを此に示せ。

>>日蓮大聖人と御本尊との関係を此に述べよ。

・日蓮聖人は釈迦如来からの付嘱に順じて漫茶羅本尊を書き顕してくれる関係。漫茶羅本尊は、釈迦如来からの
・付嘱に順じたものであり、其の曼荼羅本尊は法華経の行者である釈迦如来の一身の当体です。

されば、釈迦如来から順じて付属された曼荼羅本尊が釈迦如来の一身の当体とは、何処(いずこ)の文に在るか。
爾して「順じて」とは如何なる事か。加えて、付属に順ずる曼荼羅が釈迦如来一身の当体とは如何なる事か。
其の文証を此に示せ。

曰く『釈尊久遠名字即の位を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり』と。【新編 1684】

爾して「移す」とは「順ずる」意となるか。

されば、久遠釈尊の位を、日蓮大聖人が其の身に移し、曼荼羅御本尊を御図顕するに、其の曼荼羅の当体が
日蓮大聖人の御当體と成るは、当に理在絶言ではないか。

されば言う。

『釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を
供養せん功徳はすぐれたり』と。【新編 739】

さても、此の大聖人の法師品の一文に対する解釈からすれば、お主が言う処の釈迦如来の当体たる曼荼羅は、
一中劫の間、ねんごろに供養しようとも、法華経の行者への供養よりも劣る、という事になる。

果たして、末法法華経の行者よりも劣る釈迦如来曼荼羅とは、一体如何なる曼荼羅であるのか。

お主は其れを説明致せ。

尚、今よりは留守となる。

したがって、残りの痴文に対しては、後日の呵責となる。

尚、此に重ねて言う。

>日蓮さんって、パッカパカーンな人だったんですね。

こーゆー言い方はやめよ!

腐っても法華講員ならば、少しは恥を識(し)りなさい!
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月13日(土)21時06分58秒 softbank126074092131.bbtec.net
返信・引用
  愚人殿。増長もいい加減に致せよ。

大聖人の御金言が灯明とならば、お主こそは其の光明に照らされる小人の一類である。

 ・差別面から言えば、其の通りです。平等面から言えば、小人である私も日蓮聖人も共に妙法蓮華経です。

されば、日蓮、などと呼び捨てるものではない!

 ・日蓮聖人は、そんな事を気にはしません。

>>『日蓮本仏義』のやり取りについては、其の後と言っているでしょう。

>・常に根底で論じていますけどね。

屁理屈などはよろしい!

 ・真実を言ったまでです。管理人の説は日蓮本仏の立場から論じ、私は日蓮非本仏の立場から論じていますよ。

>・管理人さんの求めに応じて、感応道交して答えているのに詰問される覚えはありません。

呆怒。何を云う。当方と感応道交しておらんから、こうやって詰問しているのではないか。

 ・私は管理人さんの答えて欲しいという願いに応じて、答えているのですが。

さても法華講員の当方が、本山に弓引く法華講員を問い詰めずして何とするか!

 ・私は弓を持っていないので、弓を引くことはできません。

覚えがないのは、お主の脳髄が麻痺しているからである!

 ・脳髄が麻痺していたら、こうして投稿など出来ていません。

して其の麻痺とは何にか。其れこそは講員でありながら、持すべき教義に違背する、其の麻痺を云うものである!

 ・なあ~んだ。そういう意味でしたか。

>・何ですかとは、何ですか。

呆。恍けるのもいい加減に致せ。

 ・惚けていません。真面目にやってます。

言っておくが、惚(とぼ)けてなんかおりません、などと言う恍けた返事などは要らんぞ。

 ・すみません。惚けた返事をしてしまいました。

哀。己(おのれ)と同じ考えであれば、其れこそが正しい、という事か。哀哀。

 ・私と同じ考えだということです。

よいか。そーゆーのを『我見』と言うのである。

 ・私も管理人さんも我見で投稿しているのでは?。

日蓮正宗しかよく知りません?

小笑。何をか云う。お主などは何も知っておらん。よいか、正宗に於いて「知る」という事は、当宗に随順する、
という事である。お主こそは、先ず以って信仰の何たるかを勉強しなさい。

 ・「信仰」をググってみます。

>「非日蓮本仏」と「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

呆哀。お主の頭は、七分に割れておるのか。

 ・七分に破れていたら、死んでいます。

日蓮大聖人は仏には非ず、而して、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、とな。

 ・えっ?!。日蓮聖人は漫茶羅本意ではないのですか?。管理人さんは日蓮聖人は、仏像本意だと考えているのですか?。

爾して、お主は言う。

末法の仏とは凡夫身の釈迦如来のことである。と。

されば、凡夫身の釈迦如来とは何か。して、凡夫身は何処(どこ)に居るか。答えよ。

 ・凡夫身の釈迦如来とは色相荘厳の仏様ではなく、凡身の仏様です。

して、お主は更に言う。

法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となる。と。

 ・はい。言いました。

されば問う。其の寿量品の教主は非仏であるか。此に答えよ。

 ・末法の法華経の行者である日蓮は、残念ながら非仏です。年のために言っときますが、非仏とは本仏ではないということですよ。

日蓮大聖人が曰く『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり』
仍って申さく『あにかの仏に異(かは)るべきや』と。【新編 262】

 ・私も管理人さんも本仏ではないが、仏です。文意は「当体義抄」と同じです。管理人さんは、「無始色心・・・金剛不壊の仏身とな」[新編御書262]ったから自分も本仏だと思うのですか?。

>「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

鼻笑。そうか。ならば言う。日蓮大聖人と御本尊との関係を此に述べよ。

 ・日蓮聖人は釈迦如来からの付嘱に順じて漫茶羅本尊を書き顕してくれる関係。

御義口伝第廿五 建立御本尊の事に曰く『日蓮慥(たしか)に霊山に於て面授口決せしなり。
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』と。【新編 1773】

 ・はい。漫茶羅本尊は、釈迦如来からの付嘱に順じたものであり、其の曼荼羅本尊は法華経の行者である釈迦如来の一身の当体です。

ったく、何ですかとは、何ですか。などと惚(とぼ)けている場合ではないぞ!

 ・だから、惚けていません!。


一、法華講員でありながら、宗門根義に唾し、違背する、其の本意は何か。

 ・籍だけ法華講員ですので、唾をかけるとか違背しているとかの感覚がありません。

>・信じていないので、違背云々の感覚自体がありません。

哀。だから、講員として脳髄が麻痺している、と言っているのである。間違いなかろうて!

 ・脳髄が麻痺していないから、こうして投稿をしています。

そーか。教判の基は、お主が感じた事をして云うか。鼻笑。

 ・笑って頂けて光栄です。

して、其れに感じて『日蓮は』とは大したものである。

 ・お褒めを頂きありがとうございます。

呆怒。小学者気取りもいい加減に致せよ。

 ・気取っていませんが・・・。

三、して、其の教判の基からして、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等の門流の何れが正義正統であるのか。

呆笑。お主の考える正義正統などは、其の本からして破綻しておるよ。無論、其れこそが己義の特徴でもあるが。鼻笑。

 ・ここでも笑って頂けて嬉しいです。

怒。一々の小返事はよい!

 ・早く言ってよ~ぅ。

だから、弥四郎国重の願(戒壇建立)に応じて、日蓮大聖人が戒壇本尊を開顕した、という事であろうが。

 ・『三大秘法抄』に戒壇と本尊を別けているように弥四郎国重法華講衆等の願いは本尊ではなく、戒壇です。

爾して、其の「願」と「開」は、応に能所一体の阿吽にして、『敬白』の意こそは、能所に於て亘るのである。

 ・「開」・・・どの「開」ですか?。私が南無妙法蓮華経から開いたと書いた「開」ですか?。

②加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

呆哀。だから、弥勒が願う処の『誠諦之語』とは何か、と訊いておる!

 ・国語の読解力のテストならば、「誠諦之語」で正解ですよ。

して、其の釈迦如来の自らの意思とは、一体何に依って表示と相成るか!

 ・経文に明らかです。前の投稿に書いた通りです。

さても『合掌して仏に白(もう)して』との続文は、応に『敬白』の意を示す唯願の文ではないか。

 ・その言葉が釈迦如来の「誠諦之語」を受けてのものであることが、解らないのですか?。釈迦如来は彌勒菩薩を首とする菩薩大衆に向かって、「誠諦之語」を「信解すべし」と言っているのです。菩薩大衆の願いに応じて「信解すべし」と言ったのではありません。
 天台大師が『法華文句』に、

 誠は是れ忠誠、諦は是れ真実なり。物を欺からざるの言は則ち真に詣る。昔の七方便は随他意にして誠実を告ぐるに非ず。今は随自意語にして之を示すに要を以てす、故に誠諦と云う、

と言われている通りです。

果たして、仏の本意は法華経を説く事にある、という。
しかし、衆生の願いは、仏の出世のみにて、法華経を説いて貰う事ではない、という。

ならば、衆生たる弥四郎国重法華講衆の願主たるは、何を願って願主と相成ったか。

 ・同じことを二回も書かせないで下さい。

と訊いているのである!

 ・同じことを二回も聞かないで下さい。

さても、弥勒が願う処の『誠諦之語』とは一体何か! 此に答えよ!

 ・釈迦如来の寿命に関する説法です。

③されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

呆哀。されば、凡夫僧の釈迦如来とは何か。

 ・本仏に即した凡夫僧です。これは日蓮正宗でも凡夫僧を本仏としているのですから理解できるのでは?。

爾して、地涌の菩薩は凡夫に非ざるか。

 ・「法華経」は直達正観ですから仏であると開いていたと思います。しかしそれは九界即仏界です。本仏ではありません。

爾して、日蓮大聖人は凡夫僧に非ざるか。

 ・凡夫僧です。

重ねて問う。

とお主は言うが、されば、其の久末一同に亘る付属の法とは一体何か。

 ・三大秘法です。

して、日蓮大聖人が、五百塵点劫の当初の衆生に説かれた、とは如何なる事か。

 ・前に説明した通りです。

されば、其の意こそ元初本因凡夫僧の御本仏に即するものではないか。

 ・それは五百塵点劫の当初の釈迦如来のことです。

須らく答えよ。

 ・答えました。

して、お主が申さく、

ならば、久末の衆生は、何の下種を受けて得道したか。

 ・南無妙法蓮華経です。

加えて『如来是一切衆生』の大義からすれば、当に地涌の菩薩こそも、衆生の一類と成るではないか。

 ・はい。

爾して、お主が言う。

されば、法華経に至らぬ菩薩の誓願とは、一体、如何なる法教を以って為し得るか。

 ・釈迦如来が、五百塵点劫の当初に修行した三大秘法です。

爾して、菩薩の願とは、即ち衆生の願に有らずや。

 菩薩の願いとは「四句誓願」です。また仏に教化された衆生と仏に教化されていない修行の間には能化の差別があります。

して曰く『今末法に入りて法華経の行者は、四弘能所感応の即身成仏の四弘なり』と。【新編 1862】

今こそ、此に答えるべし。

 ・日蓮聖人は地涌菩薩として「四句誓願」を行じたのです。

哀怒。詭弁を弄するものではない!

 ・奇弁?。不愉快だなあ。

お主の脳眼が腐っておるから、そーゆー風にしか見えないのである。

 ・腐ってたら生きていません。

さても、熱原の信者らが自らに対して『右現当二世の為に造立件の如し』などと記(しる)す筈も無く、
其れこそ、自身らの為に未来戒壇の建立を願って本尊を図顕するなど、彼の安永弁哲も引っ繰り返る程の
痴論である!

 ・そう思うのは自由です。

されば『当世の人人何の宗々にか本門の本尊戒壇等を弘通せる、仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず』との
御意こそは、応に来る御本懐の熟意にして、熱原農民の立ち入る法域ではないのである。

 ・そもそも私は弥四郎国重法華講衆等が熱原の農民だとは書いていませんよ。

されば言う。お主の様な腐眼の主(ぬし)こそ、我が富士門家の法義からして、全くの愚人である!
さても、名は体を顕すとは、此の事か。

 ・覚者ではないので愚人です。管理人さんは、覚者なのですか?。

個人の自由? ならば、宗教など必要ないわ! 此の言っている意味、解ろうか。哀哀。

いや、解るまいて。鼻笑。

 ・はい。解りません。

おお。ならば、他宗信徒の根本尊崇に唾するでない!

 ・管理人さんは他宗信徒の本尊に唾していないのですか?。

お主が自由ならば、こちらとて自由になろうが!

 ・はい。自由です。

果たして、互いが自由を尊ぶならば、批判など在り様もない! そうであろうが!

 ・管理人さんの願いに応じて答えているだけです。

ったく、お主は何も解っておらん! 応に愚人其のものである!

 ・先程も書いたように、私は覚者ではないので愚人です。

おお。お主の希望どおり「本性」にて書いたぞ。
本より、其の『本性』こそは、獅子身中の蝗蟲に対する呵責叱責である!
最早、お主などに「軟語」など必要ない。

 ・はい。必要ないです。

尚言うが、当方が一番に嫌うは、慇懃無礼な言動である。


以後、気を付けられよ。

 ・管理人さんも気をつけて下さい。

哀笑。さもありなん。

法華講員にして釈迦本仏を唱え、剰(あまつさ)え、バラモンに傾斜するとは。呆哀哀。

だからこそ、呵責するのである!

 ・管理人さんも読んでみて下さい。
 

石山厳虎殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月13日(土)16時58分38秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >初投稿です。

ようこそ破邪の蘭室へ。

>現在、日蓮正宗系無所属信徒という立場でありますが、少しだけ意見を言わせていただきたいと思います。

はて、日蓮正宗系無所属信徒とは是れ如何に。

果たして『系』とは「傍系」の意でありますか?

差支え無くば、お答え下さい。

>ようするに爾前権経は衆生のレベルに応じてさまざまの方便を設けて説いている。
>法華経は衆生のレベルに関係なく、いきなり真実を説いている。ゆえに難信難解なのですね。
>いずれにしても衆生の求めに応じて法を説くのは同じことで、でなければ仏様とはいったいナニサマなのか、
>ということになってしまいます。

其のとおりです。

其れが故の「能所一体」であります。

爾して『機根』と『機縁』は、同義に非ず。

実(げ)に其の大義こそ、大御本尊に示される『仏滅讃文』なのであります。

尚、当室に於いては、投稿文が即時に掲載されませんので、予めご了承下さい。

又、本日午後六時以降から明朝まで、当方管理人は不在となりますので、
今よりの御投稿は、明日の掲載となります。

あしからず。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月13日(土)16時56分4秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >私は日蓮聖人の「遺文を島(灯明)」とし「自己を島(灯明)」としています。

愚人殿。増長もいい加減に致せよ。

大聖人の御金言が灯明とならば、お主こそは其の光明に照らされる小人の一類である。

されば、日蓮、などと呼び捨てるものではない!

>>『日蓮本仏義』のやり取りについては、其の後と言っているでしょう。

>・常に根底で論じていますけどね。

屁理屈などはよろしい!

>・管理人さんの求めに応じて、感応道交して答えているのに詰問される覚えはありません。

呆怒。何を云う。当方と感応道交しておらんから、こうやって詰問しているのではないか。

さても法華講員の当方が、本山に弓引く法華講員を問い詰めずして何とするか!

覚えがないのは、お主の脳髄が麻痺しているからである!

して其の麻痺とは何にか。其れこそは講員でありながら、持すべき教義に違背する、其の麻痺を云うものである!

>・何ですかとは、何ですか。

呆。恍けるのもいい加減に致せ。

言っておくが、惚(とぼ)けてなんかおりません、などと言う恍けた返事などは要らんぞ。

>>だから当方は、そーゆー貴殿の日蓮正宗に対する執拗な違背心に対し、ならば一体、日蓮宗のどの門流教義が
>>貴殿にとって正義正統であるのか、と問うているのです。

>・日蓮正宗しかよく知りませんが、「非日蓮本仏」と「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

哀。己(おのれ)と同じ考えであれば、其れこそが正しい、という事か。哀哀。

よいか。そーゆーのを『我見』と言うのである。

日蓮正宗しかよく知りません?

小笑。何をか云う。お主などは何も知っておらん。よいか、正宗に於いて「知る」という事は、当宗に随順する、
という事である。お主こそは、先ず以って信仰の何たるかを勉強しなさい。

>「非日蓮本仏」と「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

呆哀。お主の頭は、七分に割れておるのか。

日蓮大聖人は仏には非ず、而して、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、とな。

爾して、お主は言う。

末法の仏とは凡夫身の釈迦如来のことである。と。

されば、凡夫身の釈迦如来とは何か。して、凡夫身は何処(どこ)に居るか。答えよ。

して、お主は更に言う。

法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となる。と。

されば問う。其の寿量品の教主は非仏であるか。此に答えよ。

日蓮大聖人が曰く『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり』
仍って申さく『あにかの仏に異(かは)るべきや』と。【新編 262】

>「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

鼻笑。そうか。ならば言う。日蓮大聖人と御本尊との関係を此に述べよ。

御義口伝第廿五 建立御本尊の事に曰く『日蓮慥(たしか)に霊山に於て面授口決せしなり。
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』と。【新編 1773】

ったく、何ですかとは、何ですか。などと惚(とぼ)けている場合ではないぞ!


一、法華講員でありながら、宗門根義に唾し、違背する、其の本意は何か。

>・信じていないので、違背云々の感覚自体がありません。

哀。だから、講員として脳髄が麻痺している、と言っているのである。間違いなかろうて!

二、して、其れらの思動を発(お)こしめる、教判の基とは何か。

>・日蓮聖人の遺文を読んで、感じた事を投稿しているだけです。

そーか。教判の基は、お主が感じた事をして云うか。鼻笑。

して、其れに感じて『日蓮は』とは大したものである。

呆怒。小学者気取りもいい加減に致せよ。

三、して、其の教判の基からして、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等の門流の何れが正義正統であるのか。

>・日蓮非本仏・漫茶羅本意・法勝人劣なら私の考える正義正統です。

呆笑。お主の考える正義正統などは、其の本からして破綻しておるよ。無論、其れこそが己義の特徴でもあるが。鼻笑。

>>此の三問についてお答え頂きたい。

>・答えました。

怒。一々の小返事はよい!

①ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

>・戒壇建立で、日蓮聖人の本尊は南無妙法蓮華経を開いたものだと考えています。

だから、弥四郎国重の願(戒壇建立)に応じて、日蓮大聖人が戒壇本尊を開顕した、という事であろうが。
爾して、其の「願」と「開」は、応に能所一体の阿吽にして、『敬白』の意こそは、能所に於て亘るのである。

②加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

>・この文の前に釈迦如来の言葉で釈迦如来が自らの意思で、
>諸の善男子、汝等當に、如来のジョウ諦の語を信受すべし[新編法華経428]
>と言っています。「之」とは釈迦如来が「随自意」で説く所の「ジョウ諦の語」です。(ジョウは言に成)

呆哀。だから、弥勒が願う処の『誠諦之語』とは何か、と訊いておる!

して、其の釈迦如来の自らの意思とは、一体何に依って表示と相成るか!

さても『合掌して仏に白(もう)して』との続文は、応に『敬白』の意を示す唯願の文ではないか。

よいか。此の詰問は、

>仏様の出世の本意は法華経を説くことである。
>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という、お主の言い分に対して向けているのである。

果たして、仏の本意は法華経を説く事にある、という。
しかし、衆生の願いは、仏の出世のみにて、法華経を説いて貰う事ではない、という。

ならば、衆生たる弥四郎国重法華講衆の願主たるは、何を願って願主と相成ったか。

と訊いているのである!

さても、弥勒が願う処の『誠諦之語』とは一体何か! 此に答えよ!

③されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

>・文のままです。五百塵点劫の当初において衆生は釈迦如来からではなく、釈迦如来から付嘱を受けた地涌菩薩から
>下種を受けて得道したように、末法に於ても釈迦如来から付嘱を受けた地涌菩薩から下種を受けて得道するということ
>です。

呆哀。されば、凡夫僧の釈迦如来とは何か。
爾して、地涌の菩薩は凡夫に非ざるか。
爾して、日蓮大聖人は凡夫僧に非ざるか。

重ねて問う。

>三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したもので、日蓮聖人は、それを付嘱されて五百塵点劫の当初の衆生と
>末法の衆生、則ち本未有善の衆生に説かれたのです

とお主は言うが、されば、其の久末一同に亘る付属の法とは一体何か。
して、日蓮大聖人が、五百塵点劫の当初の衆生に説かれた、とは如何なる事か。
されば、其の意こそ元初本因凡夫僧の御本仏に即するものではないか。

須らく答えよ。

して、お主が申さく、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。と。

ならば、久末の衆生は、何の下種を受けて得道したか。

加えて『如来是一切衆生』の大義からすれば、当に地涌の菩薩こそも、衆生の一類と成るではないか。

爾して、お主が言う。

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。と。

されば、法華経に至らぬ菩薩の誓願とは、一体、如何なる法教を以って為し得るか。

爾して、菩薩の願とは、即ち衆生の願に有らずや。

して曰く『今末法に入りて法華経の行者は、四弘能所感応の即身成仏の四弘なり』と。【新編 1862】

今こそ、此に答えるべし。

>>とまれ、貴殿が言っている事は、信者が作成した板本尊を、日蓮大聖人の大本懐と詐(いつわ)り、

>・私は、日蓮聖人が図顕したものであると偽っていません。

哀怒。詭弁を弄するものではない!

>・だから私は、初めから此処まで信者が造立したものであると書いています。

お主の脳眼が腐っておるから、そーゆー風にしか見えないのである。

さても、熱原の信者らが自らに対して『右現当二世の為に造立件の如し』などと記(しる)す筈も無く、
其れこそ、自身らの為に未来戒壇の建立を願って本尊を図顕するなど、彼の安永弁哲も引っ繰り返る程の
痴論である!

されば『当世の人人何の宗々にか本門の本尊戒壇等を弘通せる、仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず』との
御意こそは、応に来る御本懐の熟意にして、熱原農民の立ち入る法域ではないのである。

されば言う。お主の様な腐眼の主(ぬし)こそ、我が富士門家の法義からして、全くの愚人である!
さても、名は体を顕すとは、此の事か。

>・そう思うのは個人の自由です。

個人の自由? ならば、宗教など必要ないわ! 此の言っている意味、解ろうか。哀哀。

いや、解るまいて。鼻笑。

>・そう思うのは個人の自由です。

おお。ならば、他宗信徒の根本尊崇に唾するでない!

お主が自由ならば、こちらとて自由になろうが!

果たして、互いが自由を尊ぶならば、批判など在り様もない! そうであろうが!

ったく、お主は何も解っておらん! 応に愚人其のものである!


>・管理人さんの「本性」の言葉で書いてください。
>・よろしくお願いします。

おお。お主の希望どおり「本性」にて書いたぞ。
本より、其の『本性』こそは、獅子身中の蝗蟲に対する呵責叱責である!
最早、お主などに「軟語」など必要ない。

尚言うが、当方が一番に嫌うは、慇懃無礼な言動である。

以後、気を付けられよ。


追記。

>書き忘れましたが、私は最近になってヒンデゥイズムに興味を持ち、その関係の本をよんでいます。
>ラーマ・クリシュナの言葉を記録した『不滅の言葉』を読むと、ブッダと弟子との会話の様子が思いうかびます。
>また、ヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』も素晴らしいです。
>ここに書かれていることを出来ることから実践していきたいです

哀笑。さもありなん。

法華講員にして釈迦本仏を唱え、剰(あまつさ)え、バラモンに傾斜するとは。呆哀哀。

だからこそ、呵責するのである!
 

初投稿

 投稿者:石山巌虎  投稿日:2018年 1月13日(土)15時57分47秒 softbank126075083064.bbtec.net
返信・引用
  初投稿です。現在、日蓮正宗系無所属信徒という立場でありますが、少しだけ意見を言わせていただきたいと思います。

随自意・随他意の意味は、仏様が衆生の求めに応じて法を説いたのかどうかではなく、方便を帯びているかどうかの問題です。そこを勘違いしちゃいけませんね。難しい文証ですが、御書1651ページに伝教大師の言葉が出ています。

「但随他の五種性等・門外の方便・差別の権教・帯権の一乗を説いて未だ随自一仏乗等・露地の真実・平等の直道・捨権の一乗を顕はさず。」

これはかなり難しい文証ですが、話は簡単でしょう。ようするに爾前権経は衆生のレベルに応じてさまざまの方便を設けて説いている。法華経は衆生のレベルに関係なく、いきなり真実を説いている。ゆえに難信難解なのですね。いずれにしても衆生の求めに応じて法を説くのは同じことで、でなければ仏様とはいったいナニサマなのか、ということになってしまいます。

いわゆる大日如来がそうでして、615ページで大聖人は次のごとく仰せです。

「対機説法の仏は八相作仏す。」

これは大日批判ですが、もし法華経で説くところの久遠本仏が対機説法の仏でないとすると、まったくもってブーメラン状態になってしまいます。

言葉の意味を間違えて理解していると、その後の論理の組み立てもぜんぶ間違えちゃうことになりかねません。気をつけたいものですね。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月13日(土)07時18分21秒 softbank126074092131.bbtec.net
返信・引用
   書き忘れましたが、私は最近になってヒンデゥイズムに興味を持ち、その関係の本をよんでいます。ラーマ・クリシュナの言葉を記録した『不滅の言葉』を読むと、ブッダと弟子との会話の様子が思いうかびます。また、ヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』も素晴らしいです。ここに書かれていることを出来ることから実践していきたいです。  

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月13日(土)06時13分29秒 softbank126074092131.bbtec.net
返信・引用
  『日蓮本仏義』のやり取りについては、其の後と言っているでしょう。

 ・常に根底で論じていますけどね。

今は、在家・弥四郎国重法華講衆が、日蓮大聖人に敬白して、弘安二年の大御本尊を図顕し建立した、という
貴殿の妄言に対して、其の詰問を起こしている処です。

 ・管理人さんの求めに応じて、感応道交して答えているのに詰問される覚えはありません。

そして、其の対論に付随して、貴殿の立ち位置というものを、今一度確認すべく、貴殿の信条たるものを、此に
問うているのです。

して、その答えが、

>法華講員でも個の意見を投稿するのは自由であると、私は考えている。

とは何ですか。

 ・何ですかとは、何ですか。

さても、法華講衆の一員が、個人の自由であるから、日蓮と呼ぼうとも、日寛と呼ぼうとも、いやいや、
其れこそは、大御本尊は在家信者が造ったものだと言おうとも、個人の意見であるから構わない、と。

 ・その通りです。

よろしいか、愚人殿。

 ・はい。

そーゆー姿勢を仏法からして謗法違背というのです。

 ・私は日蓮聖人の「遺文を島(灯明)」とし「自己を島(灯明)」としています。

だから当方は、そーゆー貴殿の日蓮正宗に対する執拗な違背心に対し、ならば一体、日蓮宗のどの門流教義が
貴殿にとって正義正統であるのか、と問うているのです。

 ・日蓮正宗しかよく知りませんが、「非日蓮本仏」と「漫茶羅本意」「法勝人劣」なら私と同じ考えです。

よろしいですか。本仏義は其の後の事です。

・根底では論じていますけどね。

では今一度問います。

・はい。

一、法華講員でありながら、宗門根義に唾し、違背する、其の本意は何か。

 ・信じていないので、違背云々の感覚自体がありません。

二、して、其れらの思動を発(お)こしめる、教判の基とは何か。

 ・日蓮聖人の遺文を読んで、感じた事を投稿しているだけです。

三、して、其の教判の基からして、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等の門流の何れが正義正統であるのか。

 ・日蓮非本仏・漫茶羅本意・法勝人劣なら私の考える正義正統です。

此の三問についてお答え頂きたい。

 ・答えました。

そして、其の後に於いて、当方からの詰問。

所謂、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という貴殿のセリフに対する、

①ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

 ・戒壇建立で、日蓮聖人の本尊は南無妙法蓮華経を開いたものだと考えています。


②加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

 ・この文の前に釈迦如来の言葉で釈迦如来が自らの意思で、


 諸の善男子、汝等當に、如来のジョウ諦の語を信受すべし[新編法華経428]


と言っています。「之」とは釈迦如来が「随自意」で説く所の「ジョウ諦の語」です。(ジョウは言に成)

③されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

 ・文のままです。五百塵点劫の当初において衆生は釈迦如来からではなく、釈迦如来から付嘱を受けた地涌菩薩から下種を受けて得道したように、末法に於ても釈迦如来から付嘱を受けた地涌菩薩から下種を受けて得道するということです。

との三詰について、お答えを頂戴したい。

 ・詰問される覚えはありませんが、答えました。

とまれ、貴殿が言っている事は、信者が作成した板本尊を、日蓮大聖人の大本懐と詐(いつわ)り、

 ・私は、日蓮聖人が図顕したものであると偽っていません。

日寛上人が文段にて仰せの『就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり』という教示こそ、応に信徒を欺く謀言
であり、さもなくば、当人の無知が生(な)せる虚文である、と言っているに等しいものであります。

 ・だから私は、日蓮聖人が図顕したものであると偽っていません。初めから此処まで信者が造立したものであると書いています。

本より、弥四郎国重を首(はじめ)とする在家法華講衆が、弘安期の曼荼羅相貌を踏襲し図顕し彫刻し、以って其の首題
直下に、日蓮大聖人の花押を大書刻印するなど、どんな少脳を以ってしても、理在と成るものではありません。

 ・そう思うのは個人の自由です。

さてさて、丁寧語は此処(ここ)迄となりましょうか。

 いや、其れがなるか、ならぬかは、貴殿からの御返答によります。

 ・管理人さんの「本性」の言葉で書いてください。

それではよろしく。

 ・よろしくお願いします。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月12日(金)15時21分40秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  『日蓮本仏義』のやり取りについては、其の後と言っているでしょう。

今は、在家・弥四郎国重法華講衆が、日蓮大聖人に敬白して、弘安二年の大御本尊を図顕し建立した、という
貴殿の妄言に対して、其の詰問を起こしている処です。

そして、其の対論に付随して、貴殿の立ち位置というものを、今一度確認すべく、貴殿の信条たるものを、此に
問うているのです。

して、その答えが、

>法華講員でも個の意見を投稿するのは自由であると、私は考えている。

とは何ですか。

さても、法華講衆の一員が、個人の自由であるから、日蓮と呼ぼうとも、日寛と呼ぼうとも、いやいや、
其れこそは、大御本尊は在家信者が造ったものだと言おうとも、個人の意見であるから構わない、と。

よろしいか、愚人殿。

そーゆー姿勢を仏法からして謗法違背というのです。

だから当方は、そーゆー貴殿の日蓮正宗に対する執拗な違背心に対し、ならば一体、日蓮宗のどの門流教義が
貴殿にとって正義正統であるのか、と問うているのです。

よろしいですか。本仏義は其の後の事です。

では今一度問います。

一、法華講員でありながら、宗門根義に唾し、違背する、其の本意は何か。

二、して、其れらの思動を発(お)こしめる、教判の基とは何か。

三、して、其の教判の基からして、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等の門流の何れが正義正統であるのか。

此の三問についてお答え頂きたい。

そして、其の後に於いて、当方からの詰問。

所謂、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という貴殿のセリフに対する、

①ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

②加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

③されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

との三詰について、お答えを頂戴したい。

とまれ、貴殿が言っている事は、信者が作成した板本尊を、日蓮大聖人の大本懐と詐(いつわ)り、日寛上人が文段にて
仰せの『就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり』という教示こそ、応に信徒を欺く謀言
であり、さもなくば、当人の無知が生(な)せる虚文である、と言っているに等しいものであります。

本より、弥四郎国重を首(はじめ)とする在家法華講衆が、弘安期の曼荼羅相貌を踏襲し図顕し彫刻し、以って其の首題
直下に、日蓮大聖人の花押を大書刻印するなど、どんな少脳を以ってしても、理在と成るものではありません。

さてさて、丁寧語は此処(ここ)迄となりましょうか。

いや、其れがなるか、ならぬかは、貴殿からの御返答によります。

それではよろしく。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月12日(金)09時17分55秒 om126211037000.13.openmobile.ne.jp
返信・引用
   書き足し、書き足しで申し訳ないです。

 日蓮本仏の文証となっているものに、「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり」というものがある。しかし、この文は釈迦本仏の文証であって、日蓮本仏の文証ではない。

 『総勘文抄』の「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」の文に明らかなように、五百塵点劫の当初に即座開悟した釈迦如来は凡夫身であり、凡夫僧である。

 末法は五百塵点劫の当初と同じ下種の時であり、拝する仏は凡夫身、凡夫僧である。凡夫身の釈迦如来。凡夫身の仏。「末法の仏とは、凡夫身の釈迦如来なり、凡夫僧の釈迦如来なり」

 この仏の事を『三大秘法抄』には、

 五百塵点劫の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作の三身の教主釈尊

と称している。つまり『御義口伝』の「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり」とは、凡夫身の釈迦如来のことである。




 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月12日(金)06時33分21秒 softbank126074121200.bbtec.net
返信・引用
   ・日興上人の本尊に日蓮聖人の判があっても、その本尊は日蓮聖人が書いたものではない。日興上人が書いたものである。  

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月12日(金)06時13分36秒 softbank126074121200.bbtec.net
返信・引用
   ・法華講員でも個の意見を投稿するのは自由であると、私は考えている。  

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月12日(金)04時54分10秒 softbank126074121200.bbtec.net
返信・引用
   ・弥四郎国重法華講衆等は日蓮聖人の檀那ですから、三大秘法です。その三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したもので、日蓮聖人は、それを付嘱されて五百塵点劫の当初の衆生と末法の衆生、則ち本未有善の衆生に説かれたのです。本仏は釈迦如来です。

 ・先に経文を出したように『法華経』は衆生の願いに応じて説かれたお経ではなく、仏様が自らの意思で説かれたお経です。寿量品に彼の文があっても日蓮聖人が言われているように『法華経』は随自意のお経です。

 ・三大秘法は日蓮聖人が釈迦如来から付嘱されて末法の衆生に説かれているのですから、弥四郎国重法華講衆等は日蓮聖人に戒壇建立を願いでたのです。しかしながら当時の状況から推察するに、「勅宣並びに御教書」は申し下されなかったと思います。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月11日(木)16時45分0秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  して観れば、三詰への御返答などは為されていない様であるが、本より多忙であろうから、御返答は追々でもよろしい。
兎も角、在家弥四郎国重等の敬白文による大御本尊の造立、つまり、弘安二年十月十二日の造立大御本尊とは、
在家弥四郎国重法華講衆等が造立した本尊の事だ、とする貴殿の結論が、今応に当室に於いて詰義分解されて、
実(げ)に貴殿の結論こそが、単なる未熟妄断の小論であった、という事が、此に今、決判されようとしている。

>管理人さんは、日蓮本仏論(義)の上から、本仏である日蓮聖人が衆生の機が熟したのを知り、衆生が日蓮が
>出世の本懐を遂げる事を願う機に応じて戒壇本尊を図顕したという論理でありましょう

うむ。其れも一理であるが、愚人殿。本より仏として機よりも大事なものがある。
無論、其の事もしっかと戒壇本尊に認(したた)められている。

まぁ、其れらの事は近日に譲るとして。

本日は改めて、愚人殿の御立場(信条)を此にお尋ねしたい。

果たして愚人殿は、自らの所属を日蓮正宗法華講に置いているが、そんなお主が『日蓮が』『日寛が』などと諸所に
於いて呼び捨てにし、当宗の根本義に対して疑難中傷するは、一体、何の目的が在って、其の様な行動を取っておるのか。
而して貴殿は、末法の本仏こそは釈迦如来などとも言っているが、ならば、末法の御本仏こそはお釈迦様だ、という、
所謂(いわゆる)、向門・像門・隆門・陣門・真門・講門・什門等々の日蓮宗の何れの門流が、大聖人已来の正統正義を
伝持しておると云うか。いやいや、さに匪ず、何れの門流も皆同じく正義であると言うか。否、其れとも不正義であると
言うか。とまれ、其の判別の根拠を此に於いて示して戴きたい。さても、不信心者が日蓮法門を判釈批評するなどは、
是れ全く仏法義からズレ落ちるモノであるが、兎も角、法華講員にして釈迦本仏論を唱える、其の奇怪なる思動こそを、
今此に改めて論明して戴きたい。

※三詰への御返答は、其れからでもよろしい。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月11日(木)07時01分56秒 softbank126074103047.bbtec.net
返信・引用
   管理人さんは、某掲示板の閲覧者であれば、私が日蓮本仏論(義)者でないことなどしっていましょうに。

 管理人さんの説の根本は、この日蓮本仏論(義)にありましょう。その是非を論ずるのは必要なことだと思います。

 管理人さんは、日蓮本仏論(義)の上から、本仏である日蓮聖人が衆生の機が熟したのを知り、衆生が日蓮が出世の本懐を遂げる事を願う機に応じて戒壇本尊を図顕したという論理でありましょう。しかし釈迦如来の出世の本懐である法華経は、衆生の機が熟したのを知るも、衆生の求めに応じて説かれたのではないのです。

 仕事が有るので、このへんで。

 
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月10日(水)20時03分49秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用 編集済
  >仏様は衆生の願いに応じてでわなく、自ら法華経を説かれたのである。これを「随自意」というのである。
>管理人さんが言うが如く、衆生の願いによって説かれたのではないのである。

愚人殿。

当方が何時「法華経は衆生の願いによって説かれたものだ」と申したか。
其れこそは、論弁の転嫁ではないか。

さても、己(おのれ)の作文をして、相手の言い分に置き換えるとは、是れ如何。

よろしいか、愚人殿。

当方が(御義口伝に示さる文句の意を通して)述べた事は、大御本尊の対告衆は一体誰であるのか、との詰問に於いて、
まさか、其れこそは日蓮大聖人ではありますまい、との文に続き、

『されば、衆生に此の機有って仏を感ずる、とは応に願主の意に通じ、仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、とは応に
図顕造立に通ず』と述べ、加えて『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり』との当体義抄の一文を添えて、応に戒壇本尊に標さる『造立如件 本門戒壇之願主
弥四郎国重法華講衆等 敬白』とは、応に是れこそ能所一体の敬白文なりと述べ、更には『能とは衆生を救う仏をして
云うのであり、所とは仏に救われる衆生をして云うのある。而して其の両者は、因果に於いて一体である』と述べて、
此に結んだのである。

爾して当方は『能所一体であるからこそ、本懐造立の縁起となった弥四郎国重法華講衆に対し、お主等こそ所化の
大鏡であり、 応に未来法華本門大戒壇の建立願主に相応しい者達である。仍って此に能化たる日蓮が、現当二世の
大義を以って敬白し、此の大御本尊を図顕造立したのである。爾して【南無妙法蓮華経 日蓮】也と』と加文して、
仏と衆生との同體義、つまりは能所一体・能所不二に於ける機感相応・因果共生の極意を、戒壇本尊に標さる「敬白」
に即して述べたのである。

其れを貴殿は、不読の故か、不解の故か、いや、其れこそは故意であるのか。

当方の記述をして「管理人さんが言うが如く、(法華経は)衆生の願いによって説かれたのではないのである」と
其の論弁を転嫁したのである。

よろしいか、愚人殿。

抑も当方が論詰しておるのは、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という貴殿のセリフに対して、

ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

という三詰であって『法華経は衆生の願いによって説かれたものだ』などと一偏に論じているものではない。

愚人殿には、改めて紙背に徹し再読して戴こう。

して、其の後の論交に於いて、当方の『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり』という当体義抄の一文に関し、
当方が『当該文を別義からすれば、日蓮大聖人御一人こそが無作三身の教主にして能居の大主なのである』との結論を
提示した所、貴殿は「無作三身の仏様とは釈迦如来の事だ」と曰(のたま)って、とうとう其の馬脚を現したのである。

なんと。創価の弾(はじ)け者ならいざ知らず、我が日蓮正宗法華講の信徒から『仏様とはお釈迦様の事だ』とのセリフを
聞こうとは、当に末法、此の世も末と言えようか。呆哀哀。

されば、当方が示した本門寿量品の御文に対して、

>管理人さんは寿量品の文を出してあーでもない、コーデもないと書いているが、その文があったとしても『法華経』を
>「随自意」と称することは……

などと、当方が示した本門寿量品の文に対し「あったしても」とソッポを向いて、迹門方便品の一文を持ち出すとは、
其れこそ、アーでもない以下の、小駄話ではないか、と此に呆笑するものである。

其れにしても、

>下種を為す地涌菩薩すなわち法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となるのである。

との言い様は、応に当方が言う処の『機感相応』『能所一体』の姿に即するものではないか。

然るに『本未有善の衆生に「対して」は寿量品の教主と「なる」』とは、実(げ)に是れこそ『機感相応』『能所一体』の
顕文になるものではないか。

而して貴殿は「衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない」と断言したが、
実(げ)に「本未有善の衆生をして妙法を説く」とは、応に随自・随他を包含する、能所感応の極意ではないか。

曰く『能と云ふは如来なり。所と云ふは衆生なり、能所各別するは権教の故なり。法華経の意は能所一体なり』と。

                                      【新編 1862】

愚人殿。

解りょうか。


而して貴殿はこうも言う。『日蓮聖人が(無作三身の)教主だという説は誤りである』と。

ならば言おう。

即ち、御義口伝寿量品二十七箇の大事に曰く『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては
本地無作の三身なり。 今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。
されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり』と。

爾して、別すれば「末法の法華経の行者」とは応に日蓮大聖人の御事なり。

仍って当方が申さく『日蓮大聖人こそ無作三身の教主』也と。

果たして、無作の三身とは末法の法華経の行者なり。爾して、其の『法華経の行者(別して日蓮大聖人)をして
『無作三身の教主』とするに何の誤謬がある。本より、教主とは仏の異名である。爾して曰く『末法の仏とは
凡夫なり凡夫僧なり』と。

されば『日蓮聖人が教主だという説は誤りである』という貴殿の言い分こそ、彼の安永弁哲や、執行海秀や、
つまりは、そーゆー邪宗日蓮宗に属する小僧の主張に追従するものであり、当に釈迦円仏主義に汚染された
己義私見の増長弁であると、此に於いて責断するものである。

おっと。是れ以上は申すまい。是れ以上申せば、論点が『日蓮本仏論』に拡散していまうわい。
あいや、法華講員と対するならば『日蓮本仏論』ではなく『日蓮本仏義』と成るのであろうが、
とまれ、今の論点は『在家弥四郎国重等の敬白文による大御本尊の造立』の是非に関しての事であるから、
其の論駁の優勢を決判した後に、多忙時間の許される範囲に於いて『日蓮本仏義』を論証したいと思うものである。

其れでは愚人殿。

当方からの詰問、匆(いそがし)いとは思うが、須らく御返答頂こう。

無論、追々で結構。

当方とて忙しい身である。

尚、当方に対する直接のメールについては、当方連日の閲覧はしておらず、下手をすれば、五日後、七日後と
其のメール内容の確認が遅れる事も多々ある由。其の点、愚人殿には予めご了承願いたい。
一月六日のメール内容は、本日確認した次第。尚、本日は、今より明朝まで不在となる。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 9日(火)23時20分6秒 softbank126074087224.bbtec.net
返信・引用
   仏様が衆生の求めに応じて説かれたお経なのだろうか。『法華経/序品』を読むと、こんな文がある。


 諸の菩薩の為に、大乗経を説きたもう。無量義と名づくるなり。(中略)佛、此の経を説き已って、結跏趺坐し、無量義処三昧に入って、身心動じたまわず。[新編法華経59]


 この文から仏様は、無量義経を説いたあと禅定に入り、そのまま禅定を続けていたことが解る。そして『法華経/方便品』に進むと、


 爾の時に世尊、三昧より、安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、
 諸佛の智慧は甚深無量なり。


と、仏様は衆生の願いに応じてでわなく、自ら法華経を説かれたのである。これを「随自意」というのである。管理人さんが言うが如く、衆生の願いによって説かれたのではないのである。
 また、管理人さんは寿量品の文を出してあーでもない、コーデもないと書いているが、その文があったとしても『法華経』を「随自意」と称することは、日蓮聖人が、管理人さんが提示の文があるにも拘わらず


 法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり[新編御書1365)


と教示している通りであり、


 本門は三説の外ほかの難信難解・随自意なり[新編御書655]


と教示している通りである。



 総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。[新編御書1765]


 この「本地無作三身」とは日蓮聖人が『総勘文抄』に、


 釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして・・・


と教示しているように、釈迦如来である。日蓮は、『曾谷入道殿許御書』に、


 釈尊に随って久遠より已来初発心の弟子なり[新編御書784]


とあるように、釈迦如来の弟子の立場である。



 日蓮が弟子檀那等を「無作三身」成らしめる法はなにか、如何なる信心修行をして「無作三身」足らしめるのか。それは、『三大秘法抄』に、


 実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり[新編御書1593]


とある所の三大秘法である。日蓮聖人は、釈迦如来が五百塵点劫の当初に修行した、この三大秘法を神力品に於いて付嘱されたのである。



 『御義口伝』に、


 寿量品の教主とは我等法華の行者なり。さては我等の事なり[新編御書1779]


とある。これはどういう意味か。『曾谷入道殿許御書』を開くと、地涌菩薩について


 娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり[新編御書784]


とある。五百塵点劫の当初において、下種を施す時においては、衆生に対する下種は仏様ではなく菩薩が為したのである。末法という下種を施す時も五百塵点劫の当初の時と同じ様に、衆生に下種を施すのは仏様ではなく菩薩である。法華経の行者である。釈迦如来から付嘱を受け南無妙法蓮華経を唱え衆生に下種を為す地涌菩薩すなわち法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となるのである。
 ここで注意しなくてはいけないのは、釈迦如来からの付嘱が前提条件となっていることである。

 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 9日(火)15時05分44秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >一大事因縁こそが仏様の出世の本意なのである。つまり仏様の出世の本意は法華経を説くことである。

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

はて、仏の本意は法華経を説く事にある、という。
しかし、衆生の願いは、仏の出世のみにて、法華経を説いて貰う事ではない、という。

ならば、衆生たる弥四郎国重法華講衆の願主たるは、何を願って願主と相成ったか。

御答え頂こう。

爾して、寿量品に曰く『我等愚癡 誤服毒薬 願見救療 更賜寿命』と。

【我ら愚癡にして、誤って毒薬を服せり。願わくは救療せられて、更に寿命を賜えと】

されば、此等衆生の仏に対する救療願とは何か。

貴殿は言う。衆生が願ったのは仏の出世であり、法華経を説いて貰うことではない、と。

されば問う。

『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは何か。

さても貴殿の弁からすれば、此の寿量品こそは随他意の小品と相成るか。

して曰く『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』と。果たして此の文如何。


>『法華文句』の文は管理人さんの説の文証として適切ではないと指摘する。

さに匪ず。そこに示さる仏と衆生の因縁こそは、応に機感相応にして、能所一体の姿である。

然るに所生は必ず能生に帰す。以って、本懐大御本尊の造立縁起を此に思うべし。

>また、日蓮聖人が(無作三身の)教主だという説は誤りである。※( )内は筆者。
>日蓮聖人が『当体義抄』で明らかにした教主とは、「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して、
>世々番々に成道を唱へ、(中略)今日又中天竺の摩訶陀国に出世して……

御義口伝に曰く『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。
今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは
末法の法華経の行者なり』と。

仍って曰く『過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり。此の釈尊は寿量品の教主なり。寿量品の教主とは
我等法華の行者なり。さては我等が事なり』と。

されば、寿量品の教主とは、法華経の行者なり。爾して、法華経の行者とは無作の三身なりと云々。

仍って申さく『日蓮大聖人こそ無作三身の教主』也と。

>念のために付加しておくが、弥四郎国重法華講衆等が教主でないことは勿論であり、修行を考案し、
>仏力法力を拵えたのでもないことは当然である。また、信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、
>その成就は仏様の教えによるものであるから、そこに自ずと次第は存する。

だからこそ問うておる。

弥四郎国重法華講衆の在家らが、其の境涯を以って大御本尊を顕したという、その境涯とは、如何なる
仏道修行に依って得られたのか。当方は其の事を問うているのである。

して観れば、

>信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。

と言ってはいたが、今観れば、

>信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、その成就は仏様の教えによるものであるから、
>そこに自ずと次第は存する。

と述べられて、ようやく能所不二の実義を領解した様ではある。

以って其れを思ふ可し。

されば、本門戒壇の大御本尊こそ、応に弟子檀那に授与されし御本尊であり、願主弥四郎国重は、
応に未来戒壇必設の願主と成って、其の未来戒壇に御格護さる大御本尊建立の対告衆と相成ったのである。
爾して其の阿吽こそは、応に能所に於いて機感相応し、遂には戒壇大御本尊の御建立と成って結したのである。
実(げ)に『敬白』とは、其の大義を以って拝しなければならない。

尚、愚人殿は、文中に於いて「仏様の教え」「仏様と同じ仏身」などと言われているが、其の『仏様』とは、
誰の事を指しておるのか。されば、弥四郎国重法華講衆が、其の『仏様の教え』によって『仏様と同じ仏身』に成り、
大御本尊を造立した、という事になるが、其れで間違いないか。

とまれ、反詰が重なってしまったが、一つ一つで良いから、御返答願いたい。
無論、忙しいのはお互い様であるから、一遍にこなす必要もなし。

須らく追々でよろしい。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 8日(月)23時03分52秒 softbank126074092117.bbtec.net
返信・引用
  衆生に此の機有って仏を感ずる。故に名づけて因となす。

 この「因」とは、純円の機根の衆生が仏様を感ずることである。


仏機を承けて而も応ず。故に名づけて縁と為す。

 この「縁」とは、仏様が純円の機根の衆生の機に応ずること。


是を出世の本意と為す。

 一大事因縁こそが仏様の出世の本意なのである。つまり仏様の出世の本意は法華経を説くことである。

 衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。もし仏様が衆生の法華経を求める心に応じて法華経を説いたのならば、法華経は「随自意」の経ではなく「随他意」の経となってしまい、爾前権経と同列になってしまう。よって、この『法華文句』の文は管理人さんの説の文証として適切ではないと指摘する。また『当体義抄』の文も然りである。

 また、日蓮聖人が教主だという説は誤りである。日蓮聖人が『当体義抄』で明らかにした教主とは、「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して、世々番々に成道を唱へ、(中略)今日又中天竺の摩訶陀国に出世して、(中略)唯一の妙法蓮華を説[新編696]」いた仏様のことであり、日蓮聖人のことではない。念のために付加しておくが、弥四郎国重法華講衆等が教主でないことは勿論であり、修行を考案し、仏力法力を拵えたのでもないことは当然である。

 また、信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、その成就は仏様の教えによるものであるから、そこに自ずと次第は存する。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 8日(月)14時37分58秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。
>その境涯をもって顕した大漫茶羅に失はありません。

だから、其の能所一体の意義に於いて、(大聖人が)弥四郎国重等を召し出し、大御本尊を御図顕遊ばされたのである。
よろしいか。(弥四郎国重法華講衆)が大聖人を召し出して、大御本尊を図顕造立したのではないのである。

>管理人さんが提示した、
>能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。
>是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず之を疑うべからず
>との文は、その前文から読めば、日蓮聖人が弟子檀那等に信心修行の功徳を述べた文であり、日蓮とその弟子と檀那は、
>仏力・法力・信力・行力の四力が合して、その身は仏身と顕れ、その身の住む処は寂光土となることを明かした文である。

愚人殿。よく観られよ。

其の当方が提示した上記文の前に、御義口伝の一節を提示しているであろう。

曰く『衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』と。

されば、衆生に此の機有って仏を感ずる、とは応に願主の意に通じ、仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
とは応に図顕造立に通ず。

仍って、其の機縁の倶時、則ち、能所一体の意義に於いて、当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀等那の中の事なり、
と結文したのである。

よろしいか、愚人殿。

お主が論じておるのは、総義であって、当該文を別義からすれば、日蓮大聖人御一人こそが無作三身の教主にして
能居の大主なのである。

仍って申さく『一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏(つつ)み、
末代幼稚の頸(くび)に懸けさしめたまふ』と。【観心本尊抄】

本より、五字の内に珠を裏み、とは大曼荼羅御図顕の事であり、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ、とは
応に曼荼羅御本尊授与の事をして云うのである。

よろしいか。愚人殿。大慈悲の仏とは、在家信者の弥四郎国重法華講衆等を指すものではなく、其れこそは
大能化たる日蓮大聖人の御事を指して云うものである。

して観るに、

>日蓮聖人が弟子檀那等に信心修行の功徳を述べた文であり、日蓮とその弟子と檀那は、仏力・法力・信力・行力の
>四力が合して、その身は仏身と顕れ、その身の住む処は寂光土となることを明かした文である。
>信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。

などと貴殿は言っておるが、ならば、其の仏道修行、其の功徳を得給う仏道修行とは一体誰が拵(こしら)えたのか。
まさか在家衆生が修行を考案し、仏力法力を拵(こしら)えたとでも言うか。哀。

愚人殿。

一体に於いても総別の二義が存在する、という事を領解しなさい。
さすれば、真(まこと)の能所不二が観えてこよう。

猶(なお)此に言うが、以後、敬白の文を以って、大御本尊を疑難するのは、やめた方がよろしい。

決定打無くば、其れこそは凡打と成る。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 7日(日)22時21分11秒 om126211002096.13.openmobile.ne.jp
返信・引用 編集済
   ○管理人さんが提示した、


 能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず之を疑うべからず


との文は、その前文から読めば、日蓮聖人が弟子檀那等に信心修行の功徳を述べた文であり、日蓮とその弟子と檀那は、仏力・法力・信力・行力の四力が合して、その身は仏身と顕れ、その身の住む処は寂光土となることを明かした文である。

 信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。その境涯をもって顕した大漫茶羅に失はありません。


 
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 7日(日)19時22分57秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >私は、初信の位なのですか?。だとしたら六即でいえば名字即ですね。

愚人殿。何を言っておるのか。

当方が言ったのは、一般に云う初心に立ち戻ってという意味に於いて『初信』云々を述べたのであって、
貴殿が名字即だの、どーのなどと、そんな意味で申しているものではない。哀。

愚人殿。

其の様に理屈を捏ねていると、真に観えるものも観えなくなさってしまうぞえ。

>(弥四郎国重法華講衆等が造立した大漫茶羅に)「日蓮敬白」の文字は在りません。
>(日向が造立した板本尊に)「日向敬白」はなくとも日向上人の署名はあるのでは?。

哀。愚人殿。「敬白」がなくとも署名があるのでは、とは如何なる事か。

貴殿は「日蓮敬白」という四文字が願文に記(しる)されていないから、その本尊は弥四郎の本尊だ、と
言っているのであろう。其のお主が「敬白はなくとも本人の署名があるのではないか?」とは如何なる事か。

ならば言う。

署名とは花押の事であるのか。してそれは違うというのであれば、何をして違うのか。して其れに軽重はあるか。
加えて、首題直下の「日蓮」大書のお認(したた)めは、其(そ)も著名であるか、其れとも花押であるか。
而して、署名と花押が同義となれば、其れこそ「日蓮敬白」はなくとも、日蓮大聖人の署名(花押)があるのでは?
という貴殿の理屈に適うのではないか。されば問う。造立主の弥四郎国重の花押は何処(どこ)にあるか。

>日蓮本尊集を見ますと日蓮聖人の本尊には授与書きの無い本尊がありますが、その本尊の対告衆は誰なのでしょうか?。

ならば、本門戒壇の大御本尊に授与書きは無いか。
して、無いとなれば、造立主(ぬし)の弥四郎国重は、誰に此の大御本尊を授与したのか。
して、有るとなれば、此の大御本尊の対告衆は誰か。まさか、日蓮大聖人であるのか。

>能所一体の上から在家が大漫茶羅を造立しても良いのでは?。

哀哀。おいおい愚人殿。

能所一体とは、其の様な意味ではないぞ。

能とは衆生を救う仏をして云うのであり、
所とは仏に救われる衆生をして云うのある。
而して其の両者は、因果に於いて一体である、という意味である。

よいか愚人殿。一体とは同等の意ではない。其れこそは不二の意である。
本より、師弟不二の意も然りである。
さても、貴殿の解釈からすれば、仏と衆生は一体であるから、衆生が仏に成り代わって仏菩薩を教化するも良し、
という事になる。其れで間違いないか。

>日蓮聖人が造立したとしたら「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白」と書いた理由が解らない。
>能所一体だからと言って何故に「弥四郎国重法華講衆等敬白」と書く必要が有ったのか?。

能所一体であるからこそ、本懐造立の縁起となった弥四郎国重法華講衆に対し、お主等こそ所化の大鏡であり、
応に未来法華本門大戒壇の建立願主に相応しい者達である。仍って此に能化たる日蓮が、現当二世の大義を以って
敬白し、此の大御本尊を図顕造立したのである。爾して【南無妙法蓮華経 日蓮】也と。

よろしいか。愚人殿。此の文節の意が理解出来ないとなれば、今一度、而二不二論を再勉し、其れこそは、
総別二義、当文跨節・大綱網目・待絶二妙・体内体外等を学び直して、当に真の依義判文の遊撃手となる
事こそが、貴殿にとって最良の選択である、という事を、此に改めて諫言するものである。

尚、

>日蓮聖人が造立したとしたら「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白」と書いた理由が解らない。
>能所一体だからと言って何故に「弥四郎国重法華講衆等敬白」と書く必要が有ったのか?。

などと文句を言っておるが、

当方からして言えば、もし、弥四郎国重等が願主として敬白するならば、

「本門戒壇之願主 法華講衆弥四郎国重 敬白」文

と書くのが自然であり、

「本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白」文

などと、弥四郎国重法華講衆自らを指して「等」に纏めるなどは、まこと不自然な書き様と言わざるを得ない。

よろしか。愚人殿。

御本尊は須らく、日蓮大聖人から弟子檀那に授与されるものである。爾して願主は、其の御本尊授与を
願うのである。しかも其の阿吽は、強盛なる信心に於いて感応道交し、以って敬白の意は、能所不二の
尊形と成って、御本尊の態相を顕すのである。


尚、当方は本日は午後八時より、明日以降は午後五時より留守となり、何れも帰宅は翌早朝と相成る。
しかも、其れから就寝する故に、投稿文の確認掲載は、帰宅後すぐに行うも、投稿のやり取りなどは
一日ずれる事もある。誠に申し訳ないが、其の点については予め御了承願いたい。

さても「遊撃」の「遊」が、「遊戯雑談」の「天台遊」に成らざる事を、唯々願うのみである。


          以如件 願主 破邪の蘭室管理人 大月天 敬白

 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 6日(土)21時37分43秒 softbank126074085016.bbtec.net
返信・引用
   私の再投稿、お手数をかけてしまい申し訳ありませんでした。

して観れば、深夜から早朝へと弛(たゆ)まぬ御投稿。

時間が乏しい当方からして、何とも羨ましい限りではある。

 ○九連休で時間がタップリありました。

されば、彼の人には遊戦、あの人には真戦なりと…。

はて、当方には、彼の人、あの人の区別など付かないが、とまれ「遊戦」の「遊」こそは「遊撃」の「遊」であって
欲しいと願うものである。本より法華講員同士、大御本尊の御事について遊ばれては堪らない。

 ○私が遊んでいるのは、彼の人です。

本より、大御本尊の脇書に記(しる)されし「法華講衆等」とは「法華講の衆」と読むのではなく「法華の講衆」と
読むが正解である。例としては「上野講衆等」という呼名があるが、是れこそも「上野講の衆等」と読むものでは
ない。然るに「法華講衆」「上野講衆」をして「御講衆」と呼ぶものである。依って大御本尊に「法華講」という
文字があるから、後世の偽作である、などという疑難は、其れこそ単なる難癖として片付けられるものである。
しかし、我ら法華講員が、其の『法華講衆』をして、現在の法華講に当て嵌めるは、決して我田引水ではない。

とまれ、愚人殿が「講衆」の意に於いて、大御本尊は後世の造立ではない、という、法華講員としての初信に立ち
戻れた事は、何よりも重要である。

 ○私は、初信の位なのですか?。だとしたら六即でいえば名字即ですね。

愚人殿。

其れこそは「遊言」ではないか。

 ○そうなんですか?。

一体、弥四郎国重を首(はじめ)とする法華講衆の在家らが、現当二世という謳い文句を奉じて、大御本尊の甚深なる
御相貌を、しかも弘安期の筆例を以って御板に図顕彫刻するなど、創価の阿呆ではあるまいし、其れこそは文面の配列に
眼目を奪われた、応に管見の痴読であると、此に諫言申し上げよう。

 ○痴読であると断言されても、私は弥四郎国重法華講衆等が大漫荼羅を造立したと思っています。

>此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。

此処(ここ)とは何処(どこ)か。

さても、此処(ここ)とは、何処(どこ)の此処(ここ)であるか。

 ○弥四郎国重法華講衆等が造立した大漫茶羅です。

言うまでもない。此処も何処も、皆、戒壇御本尊の御尊体の中に御坐(おわ)します。

 ○私は、弥四郎国重法華講衆等が造立したと思っていますので。

されば、首題直下に認(したた)めらる御花押【日蓮】の御大書こそ、全ての御文字に往き亘る御允判である、という事を
此に領解しなければならない。

されば、日蓮花押と中央に御大書されるに、加えて又、日蓮敬白などと御名は書かれまい。
本より大書花押こそが全てである。

 ○日興上人が書いた本尊には、日興上人が「日興花押」と署名しています。弥四郎国重法華講衆等が造立した大漫茶羅には、弥四郎国重法華講衆等が「弥四郎国重法華講衆等敬白」と署名したのです。

尚、対比するには、余りに御無礼とは思うが、身延日向の幽霊板本尊には、

【日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す】(大白蓮華・堀上人に富士宗門史を聞く)

と在るようだが、此にも「日向敬白」という文字其のものの配列はない。

 ○「日向敬白」はなくとも日向上人の署名はあるのでは?。

其れよりもよりも、弥四郎国重法華講衆等が大御本尊を敬白造立したとなれば、果たして、此の戒壇御本尊の対告衆は
一体誰であるのか。まさか日蓮大聖人では有りますまい。ならば願主弥四郎国重、己(おのれ)をして対告衆と為すか。

 ○日蓮本尊集を見ますと日蓮聖人の本尊には授与書きの無い本尊がありますが、その本尊の対告衆は誰なのでしょうか?。
 私は、四条金吾や富木常忍が自分が拝む為に仏像を造立したように、弥四郎国重法華講衆等も自分達で拝む為に大漫茶羅を造立したと推測します。

御義口伝に曰く『衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』と。

 ○感応道交。仏様は衆生の仏様を求める機に応じて娑婆世界に出世するということを示した文ですね。

仍って、当体義抄に曰く『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず、
之を疑うべからず』と。


爾して大御本尊の脇書に曰く『右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白』と。

うむ。応に是れこそ能所一体の敬白文。

 ○能所一体の上から在家が大漫茶羅を造立しても良いのでは?。


実(げ)に之を思え、之を思え。

 ○日蓮聖人が造立したとしたら「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白」と書いた理由が解らない。能所一体だからと言って何故に「弥四郎国重法華講衆等敬白」と書く必要が有ったのか?。


 

如水さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 6日(土)20時37分40秒 softbank126074085016.bbtec.net
返信・引用
  横からご意見申し上げます。

 ○これからもお願いします。

> 戒壇の大御本尊は在家信者達が造立した

仏様はモノじゃない!

ので、上記のもの言いは不信の言葉です。

 ○在家が板本尊を造立しても、その板本尊には妙楽大師が「乃ち是一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」と教示しているように、仏性が具わっているのです。ですからモノではあっても、お互いに其所は弁えて扱いたいですね。私は、つい乱暴に扱ってしまいますが。

個人個人で多種多様な思いがあるのは当たり前ですが、私たち日蓮正宗の信徒の根幹は、戒壇の大御本尊様と血脈付法の御法主様を信じ奉ることですから、不信が生じれば、お師匠様にご指導を願い、公言は控えましょう。

 ○初めから信なくして入っているので。

必ず後悔なさいますから

 ○たぶん、苦しむということだとおもいますが、強盛な信心を貫き通した日蓮聖人は、晩年に手紙に署名を出来ないぐらい病に苦しむ衰弱してしまいました。日蓮聖人には、病に苦しんで衰弱するという何かしらの因縁があったのでしょう。私も苦しんで衰弱することがあれば、それは過去世からの因縁だと思って受け入れていくつもりです。
 

投稿者各位

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)18時14分29秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  誠に恐れ入りますが、急用が入り、今より、明朝まで留守となります。(其の後・就寝)
従いまして、其の間の投稿文は、即時に掲載されません。

実に不便と承知はしておりますが、これも、宿坊を首(はじめ)とする私憤アンチからの荒らし投稿を防止する為の
ものであり、現に其の抑止が効いている状態であります。

重ねまして、投稿者各位には、御寛容の程、お願い致します。

其れでは、今より出掛けます。
 

如水殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)17時53分39秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  御注意の程、御尤(もっと)もであります。

法華講員として、本門戒壇の大御本尊を疑するは、是れ全く身蟲の其れでありますから、そういう御仁に対しては、
応に慈折の意を以って論ずるのみであります。

しかし、日蓮大聖人の御内証を、我ら凡愚なる庶人が、何にをか量らんなどとは、当に増上慢の極みとなりましょう。

とまれ、疑難の箇所を、種々破折するに於いては、充分に気を付けて参りたいと思っております。

尚、如水殿に於かれましても、御自身の許容する範囲に於いて、是非とも、正義顕揚・邪義破折の論弁を投じられます
よう、当室管理人として此に願うものであります。


【お知らせ】

※当室の投稿モードは「確認後掲載」となっておりますので、投稿文が即時掲載される事はありません。
あくまでも管理人が新たな投稿文の有無を確認した後の掲載となりますので、管理人が不在となる場合は、
掲載が数日後になる事もありますので、予め御了解の程、お願い申し上げます。
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)17時52分0秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >苦戦?。遊戦ですね。彼の人が遊戦なので私も遊戦をしています。あの人は真戦のようなので私も真戦をしました。

して観れば、深夜から早朝へと弛(たゆ)まぬ御投稿。

時間が乏しい当方からして、何とも羨ましい限りではある。

されば、彼の人には遊戦、あの人には真戦なりと…。

はて、当方には、彼の人、あの人の区別など付かないが、とまれ「遊戦」の「遊」こそは「遊撃」の「遊」であって
欲しいと願うものである。本より法華講員同士、大御本尊の御事について遊ばれては堪らない。

>日蓮聖人の時代に「○○講衆」の文はなく、板本尊は日蓮滅後に造立されたものと考えていましたが、
>『講衆に関する研究』という論文を読み、日蓮聖人の時代に、「○○講衆」が仏像・鐘を造立したことを知り、
>日蓮聖人の檀那達が「法華講衆」として曼荼羅を造立することは有りうると考えた次第です。但し、日蓮聖人が
>知っていたかは解りません。

本より、大御本尊の脇書に記(しる)されし「法華講衆等」とは「法華講の衆」と読むのではなく「法華の講衆」と
読むが正解である。例としては「上野講衆等」という呼名があるが、是れこそも「上野講の衆等」と読むものでは
ない。然るに「法華講衆」「上野講衆」をして「御講衆」と呼ぶものである。依って大御本尊に「法華講」という
文字があるから、後世の偽作である、などという疑難は、其れこそ単なる難癖として片付けられるものである。
しかし、我ら法華講員が、其の『法華講衆』をして、現在の法華講に当て嵌めるは、決して我田引水ではない。

とまれ、愚人殿が「講衆」の意に於いて、大御本尊は後世の造立ではない、という、法華講員としての初信に立ち
戻れた事は、何よりも重要である。

>弥四郎国重法華講衆等が「敬白」した内容は、「現「佛滅後二千二百二十四年・・・大曼荼羅」を「現当二世為」に
>「造立」したことです。此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。

愚人殿。

其れこそは「遊言」ではないか。

一体、弥四郎国重を首(はじめ)とする法華講衆の在家らが、現当二世という謳い文句を奉じて、大御本尊の甚深なる
御相貌を、しかも弘安期の筆例を以って御板に図顕彫刻するなど、創価の阿呆ではあるまいし、其れこそは文面の配列に
眼目を奪われた、応に管見の痴読であると、此に諫言申し上げよう。

>此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。

此処(ここ)とは何処(どこ)か。

さても、此処(ここ)とは、何処(どこ)の此処(ここ)であるか。

言うまでもない。此処も何処も、皆、戒壇御本尊の御尊体の中に御坐(おわ)します。

されば、首題直下に認(したた)めらる御花押【日蓮】の御大書こそ、全ての御文字に往き亘る御允判である、という事を
此に領解しなければならない。

されば、日蓮花押と中央に御大書されるに、加えて又、日蓮敬白などと御名は書かれまい。
本より大書花押こそが全てである。

尚、対比するには、余りに御無礼とは思うが、身延日向の幽霊板本尊には、

【日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す】(大白蓮華・堀上人に富士宗門史を聞く)

と在るようだが、此にも「日向敬白」という文字其のものの配列はない。

其れよりも何よりも、弥四郎国重法華講衆等が大御本尊を敬白造立したとなれば、果たして、此の戒壇御本尊の対告衆は
一体誰であるのか。まさか日蓮大聖人では有りますまい。ならば願主弥四郎国重、己(おのれ)をして対告衆と為すか。

御義口伝に曰く『衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』と。

仍って、当体義抄に曰く『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず、
之を疑うべからず』と。

爾して大御本尊の脇書に曰く『右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白』と。

うむ。応に是れこそ能所一体の敬白文。

実(げ)に之を思え、之を思え。
 

一水四見

 投稿者:如水  投稿日:2018年 1月 6日(土)13時02分39秒 sp49-96-24-34.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  横からご意見申し上げます。

> 戒壇の大御本尊は在家信者達が造立した

仏様はモノじゃない!

ので、上記のもの言いは不信の言葉です。

個人個人で多種多様な思いがあるのは当たり前ですが、私たち日蓮正宗の信徒の根幹は、戒壇の大御本尊様と血脈付法の御法主様を信じ奉ることですから、不信が生じれば、お師匠様にご指導を願い、公言は控えましょう。

必ず後悔なさいますから。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 6日(土)10時43分47秒 softbank126074115165.bbtec.net
返信・引用 編集済
   私の他板での投稿を閲覧して頂きありがとうございます。

 苦戦?。遊戦ですね。彼の人が遊戦なので私も遊戦をしています。あの人は真戦のようなので私も真戦をしました。

 日蓮聖人の時代に「○○講衆」の文はなく、板本尊は日蓮滅後に造立されたものと考えていましたが、『講衆に関する研究』という論文を読み、日蓮聖人の時代に、「○○講衆」が仏像・鐘を造立したことを知り、日蓮聖人の檀那達が「法華講衆」として漫荼羅を造立することは有りうると考えた次第です。但し、日蓮聖人が知っていたかは解りません。


 「佛滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也 右為現当二世 造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重 法華講衆等敬白」

 弥四郎国重法華講衆等が「敬白」した内容は、「現「佛滅後二千二百二十四年・・・大漫荼羅」を「現当二世為」に「造立」したことです。此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。



 14:10頃に「曼」を「漫」に、「未有」を「未曾有」に、「本門戒壇之本尊」を「本門戒壇」に訂正しました。    
 

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)09時35分18秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  何やら苦戦を強いられている様であるが、やはり貴殿の言う『戒壇の大御本尊は在家信者達が造立した」というのは
無理があるのではないか。当方、今まで色々と大御本尊に対する疑難を論駁して来たが、在家信者の集団が大御本尊を
図顕建立した、という話は、あまり聞いた事が無い。

本より大御本尊に認(したた)めたる「敬白」とは、能所一体、つまりは、所化以って同体なり、という日蓮大聖人の
御内心から拝さなければ、其の深義などは読み取れないであろう。

爾して、法華講に身を置く貴殿が、上記の様な発言をするとは、余りにも残念ではあるが、とまれ、御講衆の人々が
其れが弥四郎であれ神四郎であれ、そういう信者なりが敬白の意を以って寄り集まり、戒壇の御本尊を造立したという
論説は、到底、戴けるものではない。

兎も角、在家信者が御板御本尊を図顕建立した、という主張は、控えた方がよろしい。
いや、其れこそは訂正すべきであろうと思う。
 

管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 3日(水)22時21分46秒 softbank126074098128.bbtec.net
返信・引用
  愚人殿はどうでしょうか。無差別主義者でありますか?


 愚人は、無差別主義者ではありません。


優しく振る舞う人間と、子供を何人も殺した殺人鬼と、果たして其の両者に対して同じ態度言動で
臨まれますか?


 実際に殺人鬼と接したことはありませんが、接する機会があった時は同じ態度で臨みたいと思っています。


当方は、優しく振る舞う御仁に対しては『素晴らしい』と言い、何人も殺した者に対しては『馬鹿野郎!』です。


 被害者が身近な人ではないかもしれませんが、愚人は、被害者・加害者の間の過去世からの因縁を考えてしまいます。


>雑言・強言・自讚気なる体、人目に見すべからず、浅猿きなるべし。

愚人殿はどうですか?

そういう言動はなされておりませんか?


 しています。


>柔らかに又強く、両眼を細目に見、顔貌に色を調へて閑に言上すべし。

本より、其の言上に伴うセリフが前文に示されております。
因みに其の中には、邪師の死に様(ざま)も含まれております。


 はい。


>また「人の高下」については、智者大師が「六即」を教示していますように、
>「六」において「差別/階梯」がありますが、「即」においては「平等」であることに
>留意する必要があると思います

天台ですか。


 天台です。


おっと、呼び捨てにしてしまいましたが、興門義からすれば理門の師ですから、
我ら富士門徒からして、決して無礼(自讃)にはなりますまい。


 自讚にはならないと思います。


>また日蓮聖人も『御義口伝』、
>上慢の四衆の所具の仏性も、不軽所具の仏性も、一種の妙法なりと礼拝するなり。
>不軽は善人、上慢は悪人と、善悪を立つるは無明なり。此れに立って礼拝の行を為す時、
>善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。
>と教示しています。

不二のみならず而二不二であります。

仍って、一方に対するも正義。又、一方に対するも正義。

しかし、そこには一体義が在る。

無論、其れを承知の上で論折するのであります。

爾して、日蓮大聖人は、一方で蚊(カ)だ・虻(アブ)だ・蝦蟇(ガマ)だ、という言動を許し、
又、其の一方で自讃強言は浅ましき事であると戒めらる。

実(げ)に法華の大慢とは、而二不二の奥義を識(し)った上での事であると、此に知るべきでありましょう。

当室の巻頭文に云く、

『仮令強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損するは妄語・強言なり。
是れを思って臨機応変』

本より、此の姿勢こそが全てであります


 天台の六即も一遍に偏らない中道を説いたものだと思います。
 

如水殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 3日(水)21時32分21秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  明けましておめでとうごさいます。

本年もよろしくお願い致します。

御投稿は、お時間がある時で構いません。

行動の年。

お互いに頑張って参りましょう。
 

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