新着順:51/8140 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

葬儀とは即ち霊山の儀式である 【再稿】

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月21日(水)06時20分19秒 i118-19-13-230.s42.a014.ap.plala.or.jp
  通報 返信・引用
  さて、相も変わらず創価外道が騒いでいる『葬儀に僧侶の出席は不要』などという文句について、
其れを茲にて叩いておこう。

先ず、創価の連中が満悦に取り上げた、読売新聞((4月21日付)の冠婚葬祭に関する世論調査であるが、
見れば其の『簡素化』の傾向をして『友人葬』の正当性が証明された、などと云う単純阿呆な連想を、
小会員などがベラベラ申している様ではある。鼻笑。

さても、世論の意見こそが、宗義破折の根本に成るとは、応に外道創価の得意とする所ではあるが、
果たして、其の支柱とする世論の意見の大半が、無宗教・無信心の衆生から出ている、という事を、
お前らは先ずもって知るべきである。して、もし其れらを了解して教義の支柱と為し、其れら世論を
以って、我ら富士門の法義に唾するならば、応に其れこそが外道の正体であり、新興宗教の性根その
ものと成るのである。

して、其の読売の世論調査をして『葬式に僧侶の出席は不要』などとは、何処にも書いてはおらん。
見れば、あくまで葬式への参列についての事であり、本より導師を務める僧侶をして『参列者』とは
申すまいが、つまりは、葬式への参列は、其の家族・親戚・友人・知人が望ましい、との事であって、
僧侶の不要などを希望するものではない。して見れば、自分の葬式で戒名などは必要ない、とする意見が
56%で、戒名を必要とするが43%である。尚、読売の記事に於いては『戒名カッコ法名』と記されておるが、
確かお前ら創価外道に於いては『戒名と法名は別モノだ!』という文句ではなかったのか。
何だ。この部分(世間の意見)については採用しないのか。鼻笑。ったく、都合の良い連中であるよな。

云うまでも無く、葬儀の盛大が故人の成仏に関係するものではないし、又、簡素にしたからと言って
成仏しない、というものでもない。先ずは第一、其の葬儀が正法正義に依って執り行われるか否かが
重要となるのである。本より、これ以降の記述は、世論を超えた仏法義の内容であるから、此の小生の
記述を世論の意見から批判するとなれば、其の時点でお前らは『馬鹿な連中』と相成るのである。
先ずは其の事を肝に銘じて置きなさい。よろしいか。

して、葬儀には僧侶の出席が絶対に不可欠とは、一体誰が言ったのか。

して、僧侶抜きの葬儀を執行すれば、故人は地獄に堕ちるとは、一体誰が言っているのか。

小笑。何てことはない。これらは皆、お前ら創価外道の造り文句なのである。

よいか。我らはこう申しておる。

『創価学会が富士門の三宝尊に違背し、正法正師、つまりは日蓮正宗の僧侶に対する怨念を以て執行
する友人葬などは、其の不純なる一念からして、故人の即身成仏などは為し得ない。つまり、我らが
富士門の根本たる戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈に随順しない葬儀は、其のすべてに於いて故人の
成仏は叶わないと云う事である。つまり、邪宗の葬儀に於ては、僧侶の出席の有無に拘わらず、其の
すべてが堕獄の因に成ると云う事である』と。

外道諸氏よ。上記の意味合いが理解出来るか。

つまり、僧侶が出席しなければ絶対に成仏できない、などとは、実にお前ら創価学会の付会であり、
其れこそ、我ら日蓮正宗信徒に於いて、何某が亡くなったとして、いざ葬儀という時に、其の居住が
僻地離島であり、しかも途上に於いて悪天候が続き、諸々の交通が遮断されたともなれば、其の間、
延々と御僧侶の到着を待つべきものであるのか。つまりは、そういう止むを得ない状況も有り得ると
いう事である。又、其の様な状況は、海外に於いても発生し得る事案でもあろう。而して其の場合、
葬儀に於いて僧侶が不在であるから故人は地獄に堕ちてしまうのか。

よいか。つまりは、富士門から破門された在家などが寄り集まって、其の恨念の下に勝手に葬儀を執
り行い、しかも、仏法に於いて僧侶など邪魔である、などという邪念の在家どもが導師を務める其の
醜態をして、我らは『其の葬儀に於いて故人の成仏は叶わない』と申しているのである。

ったく、邪宗邪徒が執り行う葬儀によって、故人が成仏するとは、一体、何処の御文に記(しる)されて
いるのか。この様な事、日蓮門下の端くれであれば、文証を引くまでもなかろうて!

尚、フェイクなどが引用しておる、昭和43年11月度の本部幹部会における池田太作の発言は、
今回の読売と同様、その当時の一般新聞での「葬式の合理化運動」を取り上げて述べたものであるが、
昨今の小創価の馬鹿どもは、此の池田の発言こそが友人葬の原点であり、何と此の池田の発言をして
『先師・日達上人の指南を経てなされたものだ』などと嘯(うそぶ)いているのである。哀笑。

ちと長いが、其の池田の発言を此に示そう。

云く『先日から新聞などに葬式の合理化運動の記事が出ています。そういう点も、私は大賛成です。
あれは形式だけの葬式を改革しようという動きで、坊さんを呼ばないとか、死亡通知だけでよい、と
いうような考えです。御本尊に題目を朝晩あげて、事の一念三千の当体である我々です。死んで誰に
お経を読んでもらう必要がありますか。我々こそ、葬式の最高の近代化を訴える人であり、合理化の
先駆者なのです。だからもし葬式の改革の話が出たら、我々は賛成だ、先端をいくのだ、と言っていいの
です。葬式に必ずしも御僧侶を呼ぶ必要はないのです。正宗は葬式仏教ではなく生きるための仏教です。
呼びたい人は呼んでもいいが、呼びたくなければ呼ばなくてもいい。この様に日蓮正宗は、あらゆる宗教の
なかで最先端をいくものであり、最高の近代性をもっているのです。これについては、総本山も大聖人の
根本精神につながった考えです、と言っておりました。しかし、これも行き過ぎないようにしてください。
御僧侶を呼ぶかどうかは、本人や家族の意思で決めることです。ただ、幹部が葬式の合理化について聞かれた
ような場合、なにも受け身になる必要はない、保守的に封建的に考える必要はない、という意味で申し上げた
わけです』

果たして、此の内容の全てが、御先師・日達上人の御指南によって成されたものであるのか、少しでも
脳ミソが働けば、判るというものである。

抑も『総本山も大聖人の根本精神につながった考えです、と言っていた』との意は、日蓮正宗に於る常盆・
常回向の精神を述べたものであり、其れらを怠って、葬式のみを本義とする偏頗な思考に同じない、
つまり日蓮正宗の法義は、葬式の為の法義ではない、という意味での文言なのである。つまり、
そういう意味での『根本精神』なのである。而して此の事を以て、僧侶不在の葬式こそが日蓮大聖人の
根本精神だ、などという意味にはならないのである。

又、其の事は、日亨上人が仰せの『葬儀は宗門の厳儀にして其の方式を霊山虚空会に取る』との御意にも
繋がるものであり、其の御精神に於いて、世間普通の無信仰の人間が因習的に、形式的に、人が死んだから
僧侶に引導を渡して貰って焼いて埋めて、はいお終い、などという惰性的な葬式などは、抑も我が宗の葬儀の
意義からして、まったく趣を異にするものである、との意なのである。

哀笑。其れを『(僧侶を)呼びたくなければ呼ばなくいい』という、池田の小言を『僧侶不要の宣言』と断定し、
しかも、其れを宗門が奨励したかの様な記事を書くなどは、まことお前ら怪文書フェイクの生(な)せる業(わざ)で
ある。ったく、どうしようもない連中であるよな。哀。

尚、太作は、上記の内容の前に、次ぎの様な事も言っておる。

云く『これは総本山とよく相談した結果をお伝えするわけですが、塔婆供養について一言申し上げたい。
というのは、従来、人によっては、五本も十本も塔婆をたてて追善供養してきたケースがありましたが、
原則は一本でいいのです。あとは回向料として、御供養すればよい。こういう細かなことをいうのは、
日蓮大聖人の仏法が、末法万年にわたって、永遠に合理性をもち、近代的であるからです。
事実、御書をみても、塔婆を何本立てなさいという指導はどこにもありません。でないと、世間の人達が、
日蓮正宗創価学会を、葬式仏教と成り下がった既成宗教と同一視してしまう可能性さえあります。
わざわざ世間の人の不信を買い、法を下げる結果を招いてしまうのです。塔婆は一本と決めておけば、
すっきりします。裕福な人も貧しい人も平等なのが真の仏法です』と。

本より、塔婆を五本も十本も建てなければならない、などと、御宗門は言っておらんし、其のような事は、
信徒それぞれの裁量である。つまり、出来る事が可能であれば、須らく其れを実行し、又、可能でないのであれば、
無理を押してする必要はない、という事である。又、其れを逆に云えば、実行可能であるのに、其れを敢えてしない、
というのは、信心の懈怠であり、ましてや其の不行が僧侶への怨嫉と怨念によっての不行となれば、其れこそが謗法の
邪念であり、そういう性根を以って葬儀を行えば、須らく堕地獄の因と成るのである。
仍って、お前ら邪徒が邪徒を弔う『友人葬』などは、其の全てに於いて地獄の儀式と相成るのである。

よいか。お前らの葬儀などは、立正佼成会の信者が葬式を執り行うと同じ事なのであり、抑もが、僧侶を呼ぶ、
呼ばないの以前の問題なのである。よいか。先ずは其の事を理解しなさい。

尚、引導・戒名・塔婆については、本より我ら正統・富士門流の化儀であり、破門された在家どもが、
己(おのれ)の都合によって一々騒ぎ立てようとも、其の動かざる正義は即化法として、お前らの眼前に
立ちはだかるのである。

日有上人が曰く『仏事追善引導の時の回向の事、私の心中有るべからず、経を読みて此の経の功用に依り、
当亡者の戒名を以って無始の罪障を滅して、成仏得道疑ひ無し乃至法界平等利益』と。

加えて日亨上人が曰く『塔婆などに題目などを書写する事は、受持体分(総体の受持)の書写となるなり』と。

よいか。引導も戒名も塔婆も、当流に於ては、世間邪宗の形式に非ず、其のすべてが霊山の儀式を執(とり)成す
重要な化儀となるのである。

仍って恩師が云く『(塔婆は)形式ではありません。仏法上の儀式であります。色心不二の成仏、草木成仏の
深い原理からきているのであります。(中略) 生命論がわからなければ、この深い原理はなかなかわかりません』と。

果たして一体、此の恩師の指導からして、塔婆など不要とは、どういう事であるのか。つまりは、
お前らの葬式に於いて、塔婆を建てる者が居ないから、単に要らないと言っているだけではないのか。
本より、そんな理由などは仏法でも何でもない。して、間違いなく、塔婆は不要というのであれば、
上記の恩師の指導は間違っている、という事を、此に証明しなければならない。
加えてお前らは、仏教に於いて、僧侶は葬儀に携(たずさ)わるべきではない、などと言っている様で
あるが、其れでは何故、六老僧は日蓮大聖人の御葬儀を執行したのであるか。つまりは、お前らからして、
携わるべきではない日興上人を首(はじめ)とする御僧侶が、日蓮大聖人の御葬儀に参列したるは邪道に値する、
という事であるのか。先ずは其れを述べよ。尚、日興上人は信徒の曽禰殿に対し『市王殿の御うは(乳母)他界
御事申はかり候はす、明日こそ人をもまいらせて御とぶらい申候はめ』と申されておる。
されば『人をまいらせて』とは、曽禰殿と同じ在家信者を参らせるのか、それとも御一門の御僧侶を参らせるのか。
仏事の道理として申してみよ。して、其の参らせる人が僧侶となるならば、お前らが大白蓮華で主張した
『僧侶が葬儀を執り行う事は仏教本来の在り方ではない』と云う文句は、其れこそ日蓮大聖人御遷化に於ける
大葬を侮蔑する事となり、日興上人に対する無礼となるのである。

尚、怪文書フェイクなどは「葬儀の本来の意義を見直すことは、謗法と化した日顕宗への施しを止める戦いでもある」
などと馬鹿な事を言っておるが、つまりは、葬儀に於ける僧侶の不要などは、単に我ら興門正統に対する反抗の証しで
しかない、という事ではないか。鼻笑。

よいか。そういうのを『意固地』と云うのである。哀。

其れにしても、創価の馬鹿連中が言う『絶対でないのであれば破ってもよい』という極想は何とかならんのか。呆哀。
果たして『絶対でないのであれば、破っても良い、守らなくても良い』と云うのであれば、別段、数珠などは輪ゴムでも
よいのであり、蝋燭もクリスマスキャンドルでよいのであり、仏壇もミカン箱でよいのであり、樒(しきみ)も桜や薔薇で
よいのである。しかし、お前らは、それをやろうとしないであろう。つまりは、そういう事なのである。つまり絶対厳守で
なくとも、守るべき行動意識というものが、そこには在るという事である。よろしいか。其れをして『化儀』というので
あり、其の化儀は普段からして守るべきものであるから、つまりは其れこそが化儀即化法となるのである。

馬鹿が云く『葬儀も引導も戒名も塔婆も、それを絶対しなければ成仏しないという文証を出せ』と。

哀笑。もはや、馬鹿に付ける薬は無い、とは此の事か。鼻笑。

兎も角も、我ら興門正統は、今後とも創価外道が執行する友人葬を破し、其の邪念に基づいた地獄の儀式を、
より一層呵責すべく、化儀即化法の正義を此に愈々(いよいよ)宣揚しめんとするものである。

日亨上人が曰く『霊山の儀式とは、葬儀は宗門の厳儀にして、其の方式を霊山虚空会に取る』と。

仍って曰く『亡霊への廻向には、其の導師たるもの少しも私の意志を挟むべからず、御経の功用に任すべし、
此時は蓋(けだ)し戒名に意義ありと意得べしとなり』と。

爾して曰く『当法華宗は信謗を以って徳罪を峻別するが故に、如何なる荘厳儀礼を尽くせる仏事作善なりとも、
他宗他門にて此を行なふときは、能開の宗旨既に謗法罪科なれば、所開の作業従って又罪悪なるを以って、
決して随喜参列すべからず、寧(むし)ろ此を破斥するが大功徳なり』と。

されば創価外道の友人葬を今こそ破すべし! 此れ大功徳の源泉なり!


【付記】

尚、オマエらが得意げにギャーギャー騒いでいる、日亨上人の弁、乃(すなわ)ち、

『臨終ニ当リテ俄ニ法号ヲ乞フガ如キ愚挙ナキヲ期スベキナリ』との意は、

本より戒名自体を否定されているのではなく、臨終に際して俄(にわか)に戒名を乞おうとする、其の横着なる
根性を叱られているものである。よいか。オマエらは莫迦であるから、其れが解らんのである。

よいか。今一度言うぞ。

『俄かに戒名を乞う』との意は、其の姿勢根性をしてよろしくない、という事である。
本より、法華講員のみならず、戸田総講頭に於いても、臨終に及んで俄かに戒名を乞い願ったものではない。
日蓮正宗の化儀に遵(したが)って、須らく取次の御正師から戒名を頂いたのである。

つまり、其れを反(かえ)して言うならば、日亨上人が必要と言われた戒名の化儀を、オマエら創価こそが俄かに捨てた
という事である。つまりは、日亨上人が言われた『暴挙』こそは、応にオマエらの其の俄か根性に対して言われている、
という事を、此に識るべきなのである。

>この「亡くなった時につける戒名」について碩学の
>日亨上人は「臨終ニ当リテ俄ニ法号ヲ乞フガ如キ愚挙ナキヲ期スベキナリ」と記されている。
>これを「大白法」編集部は知らないのか?

堪笑。何度読んでも吹き出してしまうが『臨終に当たりて俄(にわか)に乞うが如き暴挙無きを期すべきなり』が、
なんで『戒名不要』の文に読めてしまうのか。哀笑。

鼻笑。答えは簡単であろう。

要は、オマエらの脳髄が邪教の害毒に犯されて、最早、真っ当な解釈が出来なくなっている、という事なのである。

実に、救いようのない馬鹿とは、応にオマエらの事を指して言うものであろう。

して、そんなオマエらが嬉々として貼り付ける怪文書フェイク。

実(げ)に其れこそ、痴人狂人に相応しい痴文書となるものである。糞笑。

少しは恥というものを知りなさい。
 
》記事一覧表示

新着順:51/8140 《前のページ | 次のページ》
/8140