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愚人へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月14日(日)18時15分59秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  呆哀。しかし、お主という奴は、まこと口減らずの小理屈男であるよな。呆。

ったく、一々の小返事は要らんと言っているだろう。

>・差別面から言えば、其の通りです。

ならば「日蓮」などと呼び捨てにするものでない!

>・日蓮聖人は、そんな事を気にはしません。

阿呆! お主の様な者に「日蓮」などと呼び捨てられる日蓮大聖人ではない、と申しているのである!

日蓮聖人はそんな事を気にはしません? 阿呆!! 気にしてないのはオマエだよ!

ったく、無神経な奴め。呆怒。

して観れば、下らん事を愚駄愚駄と言い並べおって!

哀。まぁよい。そろそろ最後と成ろう。

されば、お主の小理屈を此に責断し、腐れ講員による与太話を此に閉じよう。

鼻笑。はて、此の意味、解ろうか。

其れにしても、お主という奴は、慇懃にして惚けた奴であるよな。

>>呆哀。お主の頭は、七分に割れておるのか。

・七分に破れていたら、死んでいます。

呆怒。だから死んでるんだよ。講員として。哀哀哀。

ったく、ふざけた奴め。

>>日蓮大聖人は仏には非ず、而して、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、とな。

・えっ?!。日蓮聖人は漫茶羅本意ではないのですか?。管理人さんは日蓮聖人は、仏像本意だと考えているのですか?。

阿呆! 日蓮大聖人は仏に非ず、とは、お主の愚弁を申しているのである。

してお主は、其の非仏が図顕した曼荼羅を本意とする、と言っておる。だから、愚人だ、と言っているのである。

ったく、お主の目ん玉は何処(どこ)に付いておるのか!

>>爾して、お主は言う。
>>末法の仏とは凡夫身の釈迦如来のことである。と。
>>されば、凡夫身の釈迦如来とは何か。して、凡夫身は何処(どこ)に居るか。答えよ。

・凡夫身の釈迦如来とは色相荘厳の仏様ではなく、凡身の仏様です。

呆哀。末法の仏は凡夫身の釈迦如来だとお主は言う。だから、其の凡夫身の釈迦如来とは何かと問う。
すると其れは、色相の仏ではなく凡身の仏だという。阿呆! そんな事ぁ初手から成っておろう。
よいか。此の問いは、して其の凡夫身は何処(どこ)に居るのか、という詰問に係っているのである。
して、其の詰問に対して答えが無いではないか。されば問う。凡夫身の釈迦如来は何処に居るのか。
爾して、末法の凡身僧は、何処(いずこ)に居るのか。お主は其れに答えなさい。

>>されば問う。其の寿量品の教主は非仏であるか。此に答えよ。

・末法の法華経の行者である日蓮は、残念ながら非仏です。年のために言っときますが、
・非仏とは本仏ではないということですよ。
・私も管理人さんも本仏ではないが、仏です。文意は「当体義抄」と同じです。

小笑。つまりは何だ。非仏と本仏の間に仏がある、という事かいな。小笑。

ならば、日蓮大聖人は仏であるか! して、其の仏は、別してお主と同等であるか! 答えよ!

御義口伝に曰く!『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。
今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは
末法の法華経の行者なり』と!

されば、上義を別してば往けば「末法の法華経の行者」とは応に日蓮大聖人の御事と成るのであり、
さても、釈尊をして別すれば無作の三身と成り、実(げ)に其の無作三身の御当體こそ、日蓮大聖人と
成るのである。尚、念の為に言って置くが、無作三身の法華経の行者とは、お主の事ではない。

して、其のお主が言う。

・法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となる。と。

されば、末法の衆生に対して教主となるは、応に衆生からして仏となる意ではないか。
されば、此の閻浮提に於いて、本未有善以外の衆生が居るとでもいうか。
爾して、其の『寿量品の教主』をして仏と為すに何の誤謬があろうか。
然るに、教主とは仏の異名であろうが。

してお主は、

・釈迦如来から付嘱を受け南無妙法蓮華経を唱え衆生に下種を為す地涌菩薩すなわち法華経の行者は、
・本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となるのである。

などと言うが、末法の衆生に対して法華の行者が教主と成り、其の教主をして衆生が成道するとは、
応に是れこそ機縁に於ける能所一体の態相であり「衆生が願うは仏の出生のみにて、法華経(妙法)を
説いて貰う事ではない」とするは、当に断片撞着(どうちゃく)の小論となるものである!

されば曰く『法華経の意は能所一体なり』と。よいか、法華経の意(こころ)は、説く能と、受く所に
於いて一体なのである。されば曰く『古今能所不二にして法華の深意をあらわす』と。

尚、お主は、

・三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したもので、日蓮聖人は、それを付嘱されて五百塵点劫の当初の衆生と
・末法の衆生、則ち本未有善の衆生に説かれたのです。本仏は釈迦如来です。

などと言っておるが、さても、日蓮大聖人が五百塵点劫の当初の衆生と末法の衆生に三大秘法を説かれた、とは
如何なる事か。而して、其の三大秘法は、釈迦如来が五百塵点劫に修行したものだ、と言っておるが、されば、
釈迦如来が五百塵点劫に修行した三大秘法を、日蓮大聖人が五百塵点劫の当初(そのかみ)に、其の当初の衆生と
末法の衆生に三大秘法を説いた、とは、如何なる文証を以って其(そ)を論じるか。其れを此に示せ。

>>日蓮大聖人と御本尊との関係を此に述べよ。

・日蓮聖人は釈迦如来からの付嘱に順じて漫茶羅本尊を書き顕してくれる関係。漫茶羅本尊は、釈迦如来からの
・付嘱に順じたものであり、其の曼荼羅本尊は法華経の行者である釈迦如来の一身の当体です。

されば、釈迦如来から順じて付属された曼荼羅本尊が釈迦如来の一身の当体とは、何処(いずこ)の文に在るか。
爾して「順じて」とは如何なる事か。加えて、付属に順ずる曼荼羅が釈迦如来一身の当体とは如何なる事か。
其の文証を此に示せ。

曰く『釈尊久遠名字即の位を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり』と。【新編 1684】

爾して「移す」とは「順ずる」意となるか。

されば、久遠釈尊の位を、日蓮大聖人が其の身に移し、曼荼羅御本尊を御図顕するに、其の曼荼羅の当体が
日蓮大聖人の御当體と成るは、当に理在絶言ではないか。

されば言う。

『釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を
供養せん功徳はすぐれたり』と。【新編 739】

さても、此の大聖人の法師品の一文に対する解釈からすれば、お主が言う処の釈迦如来の当体たる曼荼羅は、
一中劫の間、ねんごろに供養しようとも、法華経の行者への供養よりも劣る、という事になる。

果たして、末法法華経の行者よりも劣る釈迦如来曼荼羅とは、一体如何なる曼荼羅であるのか。

お主は其れを説明致せ。

尚、今よりは留守となる。

したがって、残りの痴文に対しては、後日の呵責となる。

尚、此に重ねて言う。

>日蓮さんって、パッカパカーンな人だったんですね。

こーゆー言い方はやめよ!

腐っても法華講員ならば、少しは恥を識(し)りなさい!
 
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