新着順:97/8140 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月10日(水)20時03分49秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
  通報 返信・引用 編集済
  >仏様は衆生の願いに応じてでわなく、自ら法華経を説かれたのである。これを「随自意」というのである。
>管理人さんが言うが如く、衆生の願いによって説かれたのではないのである。

愚人殿。

当方が何時「法華経は衆生の願いによって説かれたものだ」と申したか。
其れこそは、論弁の転嫁ではないか。

さても、己(おのれ)の作文をして、相手の言い分に置き換えるとは、是れ如何。

よろしいか、愚人殿。

当方が(御義口伝に示さる文句の意を通して)述べた事は、大御本尊の対告衆は一体誰であるのか、との詰問に於いて、
まさか、其れこそは日蓮大聖人ではありますまい、との文に続き、

『されば、衆生に此の機有って仏を感ずる、とは応に願主の意に通じ、仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、とは応に
図顕造立に通ず』と述べ、加えて『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり』との当体義抄の一文を添えて、応に戒壇本尊に標さる『造立如件 本門戒壇之願主
弥四郎国重法華講衆等 敬白』とは、応に是れこそ能所一体の敬白文なりと述べ、更には『能とは衆生を救う仏をして
云うのであり、所とは仏に救われる衆生をして云うのある。而して其の両者は、因果に於いて一体である』と述べて、
此に結んだのである。

爾して当方は『能所一体であるからこそ、本懐造立の縁起となった弥四郎国重法華講衆に対し、お主等こそ所化の
大鏡であり、 応に未来法華本門大戒壇の建立願主に相応しい者達である。仍って此に能化たる日蓮が、現当二世の
大義を以って敬白し、此の大御本尊を図顕造立したのである。爾して【南無妙法蓮華経 日蓮】也と』と加文して、
仏と衆生との同體義、つまりは能所一体・能所不二に於ける機感相応・因果共生の極意を、戒壇本尊に標さる「敬白」
に即して述べたのである。

其れを貴殿は、不読の故か、不解の故か、いや、其れこそは故意であるのか。

当方の記述をして「管理人さんが言うが如く、(法華経は)衆生の願いによって説かれたのではないのである」と
其の論弁を転嫁したのである。

よろしいか、愚人殿。

抑も当方が論詰しておるのは、

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

という貴殿のセリフに対して、

ならば、其の衆生たる弥四郎国重は、何を願って『願主』と成ったのか。(然るに本尊は法華経の要ではないのか)

加えて、寿量品の『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは一体何か。

されば、『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』との文は、如何なる事か。

という三詰であって『法華経は衆生の願いによって説かれたものだ』などと一偏に論じているものではない。

愚人殿には、改めて紙背に徹し再読して戴こう。

して、其の後の論交に於いて、当方の『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり』という当体義抄の一文に関し、
当方が『当該文を別義からすれば、日蓮大聖人御一人こそが無作三身の教主にして能居の大主なのである』との結論を
提示した所、貴殿は「無作三身の仏様とは釈迦如来の事だ」と曰(のたま)って、とうとう其の馬脚を現したのである。

なんと。創価の弾(はじ)け者ならいざ知らず、我が日蓮正宗法華講の信徒から『仏様とはお釈迦様の事だ』とのセリフを
聞こうとは、当に末法、此の世も末と言えようか。呆哀哀。

されば、当方が示した本門寿量品の御文に対して、

>管理人さんは寿量品の文を出してあーでもない、コーデもないと書いているが、その文があったとしても『法華経』を
>「随自意」と称することは……

などと、当方が示した本門寿量品の文に対し「あったしても」とソッポを向いて、迹門方便品の一文を持ち出すとは、
其れこそ、アーでもない以下の、小駄話ではないか、と此に呆笑するものである。

其れにしても、

>下種を為す地涌菩薩すなわち法華経の行者は、本未有善の衆生に対しては寿量品の教主となるのである。

との言い様は、応に当方が言う処の『機感相応』『能所一体』の姿に即するものではないか。

然るに『本未有善の衆生に「対して」は寿量品の教主と「なる」』とは、実(げ)に是れこそ『機感相応』『能所一体』の
顕文になるものではないか。

而して貴殿は「衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない」と断言したが、
実(げ)に「本未有善の衆生をして妙法を説く」とは、応に随自・随他を包含する、能所感応の極意ではないか。

曰く『能と云ふは如来なり。所と云ふは衆生なり、能所各別するは権教の故なり。法華経の意は能所一体なり』と。

                                      【新編 1862】

愚人殿。

解りょうか。


而して貴殿はこうも言う。『日蓮聖人が(無作三身の)教主だという説は誤りである』と。

ならば言おう。

即ち、御義口伝寿量品二十七箇の大事に曰く『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては
本地無作の三身なり。 今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。
されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり』と。

爾して、別すれば「末法の法華経の行者」とは応に日蓮大聖人の御事なり。

仍って当方が申さく『日蓮大聖人こそ無作三身の教主』也と。

果たして、無作の三身とは末法の法華経の行者なり。爾して、其の『法華経の行者(別して日蓮大聖人)をして
『無作三身の教主』とするに何の誤謬がある。本より、教主とは仏の異名である。爾して曰く『末法の仏とは
凡夫なり凡夫僧なり』と。

されば『日蓮聖人が教主だという説は誤りである』という貴殿の言い分こそ、彼の安永弁哲や、執行海秀や、
つまりは、そーゆー邪宗日蓮宗に属する小僧の主張に追従するものであり、当に釈迦円仏主義に汚染された
己義私見の増長弁であると、此に於いて責断するものである。

おっと。是れ以上は申すまい。是れ以上申せば、論点が『日蓮本仏論』に拡散していまうわい。
あいや、法華講員と対するならば『日蓮本仏論』ではなく『日蓮本仏義』と成るのであろうが、
とまれ、今の論点は『在家弥四郎国重等の敬白文による大御本尊の造立』の是非に関しての事であるから、
其の論駁の優勢を決判した後に、多忙時間の許される範囲に於いて『日蓮本仏義』を論証したいと思うものである。

其れでは愚人殿。

当方からの詰問、匆(いそがし)いとは思うが、須らく御返答頂こう。

無論、追々で結構。

当方とて忙しい身である。

尚、当方に対する直接のメールについては、当方連日の閲覧はしておらず、下手をすれば、五日後、七日後と
其のメール内容の確認が遅れる事も多々ある由。其の点、愚人殿には予めご了承願いたい。
一月六日のメール内容は、本日確認した次第。尚、本日は、今より明朝まで不在となる。
 
》記事一覧表示

新着順:97/8140 《前のページ | 次のページ》
/8140