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愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 9日(火)15時05分44秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  >一大事因縁こそが仏様の出世の本意なのである。つまり仏様の出世の本意は法華経を説くことである。

>衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。

はて、仏の本意は法華経を説く事にある、という。
しかし、衆生の願いは、仏の出世のみにて、法華経を説いて貰う事ではない、という。

ならば、衆生たる弥四郎国重法華講衆の願主たるは、何を願って願主と相成ったか。

御答え頂こう。

爾して、寿量品に曰く『我等愚癡 誤服毒薬 願見救療 更賜寿命』と。

【我ら愚癡にして、誤って毒薬を服せり。願わくは救療せられて、更に寿命を賜えと】

されば、此等衆生の仏に対する救療願とは何か。

貴殿は言う。衆生が願ったのは仏の出世であり、法華経を説いて貰うことではない、と。

されば問う。

『世尊、唯願わくは之を説き給へ』の「之」とは何か。

さても貴殿の弁からすれば、此の寿量品こそは随他意の小品と相成るか。

して曰く『仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり』と。果たして此の文如何。


>『法華文句』の文は管理人さんの説の文証として適切ではないと指摘する。

さに匪ず。そこに示さる仏と衆生の因縁こそは、応に機感相応にして、能所一体の姿である。

然るに所生は必ず能生に帰す。以って、本懐大御本尊の造立縁起を此に思うべし。

>また、日蓮聖人が(無作三身の)教主だという説は誤りである。※( )内は筆者。
>日蓮聖人が『当体義抄』で明らかにした教主とは、「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して、
>世々番々に成道を唱へ、(中略)今日又中天竺の摩訶陀国に出世して……

御義口伝に曰く『如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。
今日蓮等の類の意は、如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは
末法の法華経の行者なり』と。

仍って曰く『過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり。此の釈尊は寿量品の教主なり。寿量品の教主とは
我等法華の行者なり。さては我等が事なり』と。

されば、寿量品の教主とは、法華経の行者なり。爾して、法華経の行者とは無作の三身なりと云々。

仍って申さく『日蓮大聖人こそ無作三身の教主』也と。

>念のために付加しておくが、弥四郎国重法華講衆等が教主でないことは勿論であり、修行を考案し、
>仏力法力を拵えたのでもないことは当然である。また、信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、
>その成就は仏様の教えによるものであるから、そこに自ずと次第は存する。

だからこそ問うておる。

弥四郎国重法華講衆の在家らが、其の境涯を以って大御本尊を顕したという、その境涯とは、如何なる
仏道修行に依って得られたのか。当方は其の事を問うているのである。

して観れば、

>信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。

と言ってはいたが、今観れば、

>信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、その成就は仏様の教えによるものであるから、
>そこに自ずと次第は存する。

と述べられて、ようやく能所不二の実義を領解した様ではある。

以って其れを思ふ可し。

されば、本門戒壇の大御本尊こそ、応に弟子檀那に授与されし御本尊であり、願主弥四郎国重は、
応に未来戒壇必設の願主と成って、其の未来戒壇に御格護さる大御本尊建立の対告衆と相成ったのである。
爾して其の阿吽こそは、応に能所に於いて機感相応し、遂には戒壇大御本尊の御建立と成って結したのである。
実(げ)に『敬白』とは、其の大義を以って拝しなければならない。

尚、愚人殿は、文中に於いて「仏様の教え」「仏様と同じ仏身」などと言われているが、其の『仏様』とは、
誰の事を指しておるのか。されば、弥四郎国重法華講衆が、其の『仏様の教え』によって『仏様と同じ仏身』に成り、
大御本尊を造立した、という事になるが、其れで間違いないか。

とまれ、反詰が重なってしまったが、一つ一つで良いから、御返答願いたい。
無論、忙しいのはお互い様であるから、一遍にこなす必要もなし。

須らく追々でよろしい。
 
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