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管理人さん

 投稿者:愚人  投稿日:2018年 1月 8日(月)23時03分52秒 softbank126074092117.bbtec.net
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  衆生に此の機有って仏を感ずる。故に名づけて因となす。

 この「因」とは、純円の機根の衆生が仏様を感ずることである。


仏機を承けて而も応ず。故に名づけて縁と為す。

 この「縁」とは、仏様が純円の機根の衆生の機に応ずること。


是を出世の本意と為す。

 一大事因縁こそが仏様の出世の本意なのである。つまり仏様の出世の本意は法華経を説くことである。

 衆生が願ったのは仏様の出世であり、法華経を説いてもらうことではない。もし仏様が衆生の法華経を求める心に応じて法華経を説いたのならば、法華経は「随自意」の経ではなく「随他意」の経となってしまい、爾前権経と同列になってしまう。よって、この『法華文句』の文は管理人さんの説の文証として適切ではないと指摘する。また『当体義抄』の文も然りである。

 また、日蓮聖人が教主だという説は誤りである。日蓮聖人が『当体義抄』で明らかにした教主とは、「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して、世々番々に成道を唱へ、(中略)今日又中天竺の摩訶陀国に出世して、(中略)唯一の妙法蓮華を説[新編696]」いた仏様のことであり、日蓮聖人のことではない。念のために付加しておくが、弥四郎国重法華講衆等が教主でないことは勿論であり、修行を考案し、仏力法力を拵えたのでもないことは当然である。

 また、信心修行によって仏様と同じ仏身が顕れたとはいえ、その成就は仏様の教えによるものであるから、そこに自ずと次第は存する。
 
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