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愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 8日(月)14時37分58秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  >信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。
>その境涯をもって顕した大漫茶羅に失はありません。

だから、其の能所一体の意義に於いて、(大聖人が)弥四郎国重等を召し出し、大御本尊を御図顕遊ばされたのである。
よろしいか。(弥四郎国重法華講衆)が大聖人を召し出して、大御本尊を図顕造立したのではないのである。

>管理人さんが提示した、
>能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。
>是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず之を疑うべからず
>との文は、その前文から読めば、日蓮聖人が弟子檀那等に信心修行の功徳を述べた文であり、日蓮とその弟子と檀那は、
>仏力・法力・信力・行力の四力が合して、その身は仏身と顕れ、その身の住む処は寂光土となることを明かした文である。

愚人殿。よく観られよ。

其の当方が提示した上記文の前に、御義口伝の一節を提示しているであろう。

曰く『衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』と。

されば、衆生に此の機有って仏を感ずる、とは応に願主の意に通じ、仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
とは応に図顕造立に通ず。

仍って、其の機縁の倶時、則ち、能所一体の意義に於いて、当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀等那の中の事なり、
と結文したのである。

よろしいか、愚人殿。

お主が論じておるのは、総義であって、当該文を別義からすれば、日蓮大聖人御一人こそが無作三身の教主にして
能居の大主なのである。

仍って申さく『一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏(つつ)み、
末代幼稚の頸(くび)に懸けさしめたまふ』と。【観心本尊抄】

本より、五字の内に珠を裏み、とは大曼荼羅御図顕の事であり、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ、とは
応に曼荼羅御本尊授与の事をして云うのである。

よろしいか。愚人殿。大慈悲の仏とは、在家信者の弥四郎国重法華講衆等を指すものではなく、其れこそは
大能化たる日蓮大聖人の御事を指して云うものである。

して観るに、

>日蓮聖人が弟子檀那等に信心修行の功徳を述べた文であり、日蓮とその弟子と檀那は、仏力・法力・信力・行力の
>四力が合して、その身は仏身と顕れ、その身の住む処は寂光土となることを明かした文である。
>信心修行によって、その身を仏身と顕し、その住む処を寂光土と為した所化である弥四郎国重法華講衆等は
>正しく其の身に於いて仏と一体であり、その住所に於いても能化である仏と一体であります。

などと貴殿は言っておるが、ならば、其の仏道修行、其の功徳を得給う仏道修行とは一体誰が拵(こしら)えたのか。
まさか在家衆生が修行を考案し、仏力法力を拵(こしら)えたとでも言うか。哀。

愚人殿。

一体に於いても総別の二義が存在する、という事を領解しなさい。
さすれば、真(まこと)の能所不二が観えてこよう。

猶(なお)此に言うが、以後、敬白の文を以って、大御本尊を疑難するのは、やめた方がよろしい。

決定打無くば、其れこそは凡打と成る。
 
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