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愚人殿

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 6日(土)17時52分0秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  >苦戦?。遊戦ですね。彼の人が遊戦なので私も遊戦をしています。あの人は真戦のようなので私も真戦をしました。

して観れば、深夜から早朝へと弛(たゆ)まぬ御投稿。

時間が乏しい当方からして、何とも羨ましい限りではある。

されば、彼の人には遊戦、あの人には真戦なりと…。

はて、当方には、彼の人、あの人の区別など付かないが、とまれ「遊戦」の「遊」こそは「遊撃」の「遊」であって
欲しいと願うものである。本より法華講員同士、大御本尊の御事について遊ばれては堪らない。

>日蓮聖人の時代に「○○講衆」の文はなく、板本尊は日蓮滅後に造立されたものと考えていましたが、
>『講衆に関する研究』という論文を読み、日蓮聖人の時代に、「○○講衆」が仏像・鐘を造立したことを知り、
>日蓮聖人の檀那達が「法華講衆」として曼荼羅を造立することは有りうると考えた次第です。但し、日蓮聖人が
>知っていたかは解りません。

本より、大御本尊の脇書に記(しる)されし「法華講衆等」とは「法華講の衆」と読むのではなく「法華の講衆」と
読むが正解である。例としては「上野講衆等」という呼名があるが、是れこそも「上野講の衆等」と読むものでは
ない。然るに「法華講衆」「上野講衆」をして「御講衆」と呼ぶものである。依って大御本尊に「法華講」という
文字があるから、後世の偽作である、などという疑難は、其れこそ単なる難癖として片付けられるものである。
しかし、我ら法華講員が、其の『法華講衆』をして、現在の法華講に当て嵌めるは、決して我田引水ではない。

とまれ、愚人殿が「講衆」の意に於いて、大御本尊は後世の造立ではない、という、法華講員としての初信に立ち
戻れた事は、何よりも重要である。

>弥四郎国重法華講衆等が「敬白」した内容は、「現「佛滅後二千二百二十四年・・・大曼荼羅」を「現当二世為」に
>「造立」したことです。此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。

愚人殿。

其れこそは「遊言」ではないか。

一体、弥四郎国重を首(はじめ)とする法華講衆の在家らが、現当二世という謳い文句を奉じて、大御本尊の甚深なる
御相貌を、しかも弘安期の筆例を以って御板に図顕彫刻するなど、創価の阿呆ではあるまいし、其れこそは文面の配列に
眼目を奪われた、応に管見の痴読であると、此に諫言申し上げよう。

>此処に「日蓮敬白」の文字は在りません。

此処(ここ)とは何処(どこ)か。

さても、此処(ここ)とは、何処(どこ)の此処(ここ)であるか。

言うまでもない。此処も何処も、皆、戒壇御本尊の御尊体の中に御坐(おわ)します。

されば、首題直下に認(したた)めらる御花押【日蓮】の御大書こそ、全ての御文字に往き亘る御允判である、という事を
此に領解しなければならない。

されば、日蓮花押と中央に御大書されるに、加えて又、日蓮敬白などと御名は書かれまい。
本より大書花押こそが全てである。

尚、対比するには、余りに御無礼とは思うが、身延日向の幽霊板本尊には、

【日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す】(大白蓮華・堀上人に富士宗門史を聞く)

と在るようだが、此にも「日向敬白」という文字其のものの配列はない。

其れよりも何よりも、弥四郎国重法華講衆等が大御本尊を敬白造立したとなれば、果たして、此の戒壇御本尊の対告衆は
一体誰であるのか。まさか日蓮大聖人では有りますまい。ならば願主弥四郎国重、己(おのれ)をして対告衆と為すか。

御義口伝に曰く『衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏(ほとけ)機を承けて而(しか)も応ず、
故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』と。

仍って、当体義抄に曰く『能居・所居・身土・色心・倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢えて之を疑うべからず、
之を疑うべからず』と。

爾して大御本尊の脇書に曰く『右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白』と。

うむ。応に是れこそ能所一体の敬白文。

実(げ)に之を思え、之を思え。
 
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