新着順:124/8140 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

幽霊問答

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月29日(金)18時31分51秒 i223-218-151-119.s42.a014.ap.plala.or.jp
  通報 返信・引用
  言わずもがな。

幽霊には足が無い、とは、昭和人であるならば、誰もが知っている物言いではある。

して、其れを言うならば、足の無い幽霊こそは、地に足が着いていない姿ともなる。

はてさて、そんな幽霊が、昨今大いに土中から現れて、あーだ、こーだと、小理屈を並べ、
地に着いていない己(おのれ)の無足を惚(とぼ)けて、相手が立っている土台に文句を言い立てる。

哀笑。

解ろうか。

其の幽霊とは、己(おの)が身を置く宗派教団という土台から足を遊離し、其れこそは地に足が着いていない、
違背退転の姿をして云うものである。而して地に足が着くとは、応に所属する宗派教団にして確固たる信心を
構築するに在ると云えよう。本より、日蓮大聖人の仏法は、先ず以って其の信心こそが重要となる。

されば、無足不信の幽霊たちが、己(おのれ)の恥態を顧みず、相手が信奉する本尊教義をして、あーだ、こーだと
文句をいう。

哀哀。いやはや何とも、情けない姿ではないか。

さて観れば、そんな幽霊たちが、大御本尊の仏滅讃文について、あれやこれやと小理屈を交わしておる。

先ずは幽霊Sが云う。

『日寛上人が「本門戒壇の本尊は三大秘法の随一/真実究竟の本尊」と結論付ける前提として、
弘安元年以降が「仏滅後二千二百三十余年」となり、この表示が「究竟の極説」だと定義されているのです。
だから、これに符合しない「楠板曼荼羅」は「本門戒壇の本尊」と称する事はできないのです。

更に云く、

『「仏滅後二千二百三十余年」を「究竟の極説」としているのに、「本門戒壇の本尊」が「楠板曼荼羅」であるならば、
日寛上人は「楠板曼荼羅」をご覧になっていないか、その後造り直されたと何度も申し上げているのです』


対して幽霊Gが云く、

『弘安元年以降ならば本尊に「仏滅後二千二百二十余年」とあっても問題ないのです。
何故ならば、日寛は日蓮の遺文や本尊の弘安の年号と仏滅後二千三十余年(ママ)を対比して
弘安元年以降が「仏滅後二千三十余年」となり、即ち弘安以降が「究竟の極説」となるからです。
日寛は「仏滅後二千三十余年」とある本尊が「究竟の極説」と教示しているのではなく、
仏滅後二千三十余年となる弘安元年以降に図顕された本尊が「究竟の極説」と教示しているのです』

はてさて、一方の幽霊が「日寛上人」と尊称すれば、一方の幽霊が「日寛」と呼び捨てにする。

爾して此の幽霊問答。「日寛上人」と尊称している方が正論を述べているのか、と思いきや、
さに匪ず、実は「日寛」と呼び捨てにしている幽霊の方が正しい事を言っているのである。

つまり、大曼荼羅御図顕の御本意(大聖人御魂魄の観心本尊)を、二千二百三十余年に当たる弘安以降に御顕発された
事が重要なのであり、其の御本意を根因としての「二十余年」であり「三十余年」である、という事を領解しなければ
戒壇本尊に記(しる)された仏滅讃文(二十余年)の御意などは到底理解し得ないという事なるのである。

更には幽霊Sが、

『「仏滅後二千二百三十余年」を「究竟の極説」としているのに、「本門戒壇の本尊」が「楠板曼荼羅」であるならば、
日寛上人は「楠板曼荼羅」をご覧になっていないか、その後造り直されたと何度も申し上げているのです』

などと言っているが、其れこそは幽霊Gが云うが様に「究竟の極説」とは、弘安元年已後の御図顕を指すものであり、
更に言えば『二十余年』『三十余年』との御算定は、須らく日蓮大聖人の寿量文底の御内証から明記されたものであり、
其の真の御相貌こそが、中央首題と直下判形の大書を以って「究竟の極説」つまりは御本懐の御相貌として顕示遊ばさ
れたされたものと領解する事こそが重要となるのである。仍って、日寛上人は、弘安以降、種々ある御本尊の中から、
特に戒壇の大御本尊を指して「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり」と
御断言されたのである。

爾して、此等の本尊義は、三大秘法の中核たる一大秘法が、人法に亘るという事を識らなければ、到底領解する事など
出来ないのである。

加えて幽霊Sは『日寛上人は「楠板曼荼羅」をご覧になっていないか』などと疑妄を呈しているが、其れこそは、
日寛上人御自ら『戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇』と述べられている事から
して、全く当たるものではない。ましてや、日寛上人が戒壇の大御本尊を偽造したかの様な物言いは、無足の幽霊を通り
越して、三首妖怪の類(たぐい)ではないか、と此に責断するものである。

尚、其の後に於いて幽霊Sは、二十余年と書かれていても、三十余年と書かれていても別段問題ない、と改論し、
専(もっぱ)ら「三十余年究竟説」に拘(こだわ)っているのは、他ならぬ日寛上人だ、などと疑妄を転嫁して、
だから其れに符合しない「楠板曼荼羅」は「本門戒壇の本尊」と称する事はできない、などと誑弁を吐いておる。

ったく、二十も三十も問題ないのであれば、抑も弘安以降の極説を以って、日寛上人が弘安二年の大御本尊を究竟と
定義されるに、其れこそお主からして何の問題など無い、という事になるではないか。

尚、富士大石寺塔中久成坊(日尊開基)の本堂には「二千二百二十余年」の御板御本尊が御安置されているが、
其の常住御本尊の御裏書には日寛上人の御判形があり、其れこそは「二千二百二十余年」の御本尊を日寛上人が
御允可された証拠ともなるのである。

加えて幽霊Sは、(三十余年に拘った)日寛上人だけではなく、歴代法主も「二千二百三十余年」を重要視されて、
書写本尊は全て「二千二百三十余年」と記載されています、などと見て来たような事を言っておるが、
「二千二百二十余年」の御本尊などは、日開上人のみならず、日精上人、日俊上人、日文上人なども書写されて
いるのである。さても、其れらの御本尊、一体、どの御本尊を以って書写されたのか。爾して戒壇の大御本尊は
「二十余年」であるのか「三十余年」であるのか。実(げ)に其れこそは、甚深なる拝仰を以って見地しなければ、
単なる引き算・足し算に終わって仕舞う、という事を能く能く識らなければならないのである。

尚、当方が御格護する日達上人御書写の御守御本尊には、『仏滅後正像未弘之大本尊也』と認(したた)められて、
二十余年、三十余年等の年記などは記(しる)されていない。

何だ。おかしいか。小鼻笑。
おいおい、其の様に頭を抱えても解るものではないぞ。哀笑。

とまれ、SとGの幽霊問答。

其の結論を言えば、軍配はGに上がったと云えよう。

爾して此の二人の幽霊。

もしや鎌倉時代にタイムスリップして、日蓮大聖人に会ったならば、さすがに『おい、日蓮』とは呼び捨て出来まいが、
其れこそは開口一番、曼荼羅がどーの、干支がどーの、仏滅がどーの、いやいや其れこそは『日蓮さんは仏かいな』と
身延紛いの己義私論を並べ立てて、三位房よろしく学者然を気取るのであろうが、そんなお主らは以下の日蓮大聖人の
御詰問によって、即時に悶絶してしまうのである。

曰く、法華の文を尋ねるは信じて問ふか、信ぜずして問うふか。と。

さても、信じて問うならば、何を信じ、何を以って法華の本尊と為すか。
加えて、其の正義を全うしておるのは、何処(どこ)の門派教団であるのか。
爾して、信ぜずして問うならば、其れこそは、以信得入を知らざる恥態とならざるか。

当宗の奥義に曰く、

『当家に談義あるべからず、其故(そのゆえ)は談義とは其の文段を横に沙汰する故に智者の所作なり、
当家は信の宗旨なる故に爾るべからず』と。

仍って曰く『当家説法の時智恵を面(おもて)に立て信を裏に成し候、信を裏へまわれば宗旨既に破れ行き候
去る間御祈祷も祈祷に成らず、作善も作善にならざるなり、一向天台宗の作法に成り候』と。

仍って曰く『智恵は理なり迹なり』と。

うむ。

まさしく此の義こそ、行学は信心よりをこるべく候、との日蓮大聖人の御金言に即するものである。

されば、自解仏乗成らざる凡人が、自義私論を展開し、以って法華本門の大義を推し量るは、是れ全く
増上慢の其れであり、実に其れこそは、自義なるか、経文なるか、との日蓮大聖人の詰問に粉砕される
全くの愚行である、という事を、幽霊を含む世の文献莫迦の者どもは識らなければならない。

さて、本年も愈々(いよいよ)残り纔(わずか)となった。

さてさて、明年こそは、富士門徒らしく信心第一に邁進して往こうと、此に重ねて誓うものである。
 
》記事一覧表示

新着順:124/8140 《前のページ | 次のページ》
/8140