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松岡の邪文を改めて摧破す

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月 4日(月)09時06分1秒 i114-185-19-59.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  言うまでも無く、我々に御下付された一機一縁の分身散影の御本尊は、本門戒壇の大御本尊に会入されて、
つまりは直結される事によって、はじめて御本尊としての力用が示されるのである。

果たして、創価学会員は、保田妙本寺に参詣し、そこに安置してある万年救護御本尊を拝めるか。
して、拝むとすれば其れは何故か。又、拝めない、とすれば、其れは何故か。
尚、此の事は、邪宗身延派が保持している御本尊についても同様に聞い質すものである。

云ク、下種仏法ノ相待妙トハ、釈尊脱益化導ノ一切、イワユル一代応仏ノ域ヲ控エタル方ノ文上ノ
教経ニ対シ、マタソノ熟脱ノ教主ニ対シ、結要付嘱ノ妙法、即チ久遠元初ノ仏法トソノ教主ニ於テ、
権実・本迹・種脱ノ筋目ヨリ、根本ノ麁妙ト本迹ヲ判ズルニアルナリ。

次ニ下種仏法ノ絶待妙トハ、コノ脱上ノ仏教、乃至諸宗教ノスベテガ、文底下種名字ノ妙法蓮華経ニ
帰入シテ、一句ノ余法モナク、待対ヲ絶スルコトナリ。右ハ、一期下種化導ノ大綱ニ約シテ弁ズ。
而シテ宗祖一期ノ弘通ニハ、時期ニ於テソレゾレノ段階アリ。鎌倉期ハ権実相対ニシテ題目ノ弘通、
佐渡期ハ更ニ本迹相対・種脱相対ヲ明カシ本尊ノ弘通、身延期ハ種脱相対ニヨル教主ト大法ノ明確ナル
顕現ト、三大秘法ノ整足、即チ本尊ニ伴ウ戒壇ノ明示等、時期ニ於ル弘法ノ展開アリ。ソノ始終ニ方便ノ
教法ハ一切存在セザルモ、ソノ一々ノ弘通ノ段階ニ於ル破邪顕正、及ビ未究竟ト究竟ノ前後ニ於ル妙法ニ、
自ズカラ相待・絶待ノ二妙ヲ具スナリ。

(中略)

次ニ、題ノ「実行」ノ実トハ、権ニ対スル真実ニシテ、方便ナキ法、即チ種脱相対ニヨル下種ノ妙法ヲ
云ウ。マタソノ行トハ、釈尊ノ一代五時、口輪説法ニ対シ、一ニハ一期ノ始終、事行ノ妙法ノ受持弘通、
二ニハ謗法ノ諸宗諸人ニ対シ、折伏ヲ行ジ給ウニアリ。コノ妙法ノ事行ハ絶待妙、謗法折伏ハ相待妙ニシテ、
絶待ノ処ニ相待アリ、相待ノ処ニ絶待アリテ、一往不二ナレドモ、再往、而二ノ上ニ相待ハ迹、絶待ハ本ノ
勝劣アルナリ。

(中略)

マタ前記待絶二妙ニツキ補足セバ、閻浮総与タル本門戒壇ノ本尊ノ当体ハ絶待妙ニシテ、各個別々ノ本尊及ビ
血脈付法ノ本尊ハ相待妙ナルモ、絶待ニ帰一セバ絶待妙ノ意アリ。他宗他門ノ爾前権迹ノ各本尊及ビ所顕所縁ノ
人ハ、末法ニ於テハ謗法ヲ成ズル故ニ、麁ニシテ妙ニアラズ。但シ棄執帰伏ノ上ハ、個々自立ノ形待ナキヲ以テ、
当宗ノ垂迹堂ニ安ンズルハ相待妙ノ義ニ当タルベシ云云。

                                     【拝述記384頁】


さても、区別・選別は相待妙。其れを絶して会入する(開会して収める)が絶待妙。而して待絶の二妙は、
而二にして不二のものである。さすれば『而二』の意が相待妙、『不二』の意が絶待妙である。例えば
一閻浮提総与の大御本尊と、御形木御本尊は、其の大義からして区別されるものであるが、一閻浮提総与の
大御本尊の法脈からすれば、すべての御形木御本尊は、一閻浮提総与の大御本尊に会入されて一体となり、
応に絶待妙の御本尊として其の力用が示されるのである。つまりは(畏れ多い譬えではあるが)電流が通った
電燈と相成るのである。

つまり、其の理(ことわり)を以って、絶待妙の御本尊、相待妙の御本尊と定義したものである。

而して、其の区別・選別による一機一縁の御本尊は相待妙に位置づけられるのであり、それらの区別・
選別を絶して、其れらすべてを会入する御本尊、つまりは、究竟中の究竟たる日蓮大聖人御本懐の
大御本尊こそが絶待妙の根本なりと識るべきなのである。

爾して、本門戒壇の大御本尊こそが、絶待中の絶待であり、恩師が云われる処(ところ)の『御本尊様は一つ
しかありません』とは、実に其の絶待の意を示されたものなのである。果たして『一つしかない』とは、
これこそが絶待妙の意ではないか。

三大秘法随一(本門の本尊の随一)たる大御本尊であれば、此の大御本尊こそが、他から絶する事の出来ない
究極の法体であり、其れこそ閻浮提の一切衆生が救護される絶待法門の極体なのである。
仍って、其の分身散影たる御形木御本尊は、其の極体からして会入されるべき相待妙の御本尊と成るのである。
爾して、会入されるべき相待妙の御本尊も、一たび会入されれば、須らく絶待妙の御本尊と相成るのである。

松岡は何か勘違いしてないか。

本より御隠尊日顕上人猊下は、日寛上人の御指南を根本にして、究竟中の究竟、本懐中の本懐である
「本門戒壇の大御本尊」こそが、応に絶待妙の極体となる上から、本尊に於る待絶の二妙を解釈されたのである。

つまり『拝述記』に、

竜ノ口ノ後ヨリ妙法本尊ノ顕示ヲ始メ給イ、以後、一期ニ於ル本尊顕示ハソノ時々ノ待絶二妙ニシテ、
爾前権迹ノ仏像経巻本尊ニ対スル相待妙ト、下種本尊ニ於ル絶対妙義アルナリ。【同 387頁】

とあるが如く、日蓮大聖人が顕示されし本尊と、其れ以外の爾前権迹の本尊(仏像)等を相対し、応に其の相対を
以って勝劣を判じる相待妙に対して、顕示されし本尊こそは、須らく絶待妙であると判じられているものである。
実に是れこそが、明解なる待絶二妙の極説であろう。

言うまでも無く、邪宗が保持する真筆本尊は、無得の本尊ではあるが、本門戒壇の大御本尊に会入されれば、
つまり、正法正義の感得が相成れば、其れこそは絶待妙の御本尊して、其の力用が示されるのである。

さても、お主が言う「区別を生かす仏教的合理性に背くことは自明であろう」とは何か。
加えて「合理的な日蓮仏法者」とは一体何か。 松岡よ。あまり軽論を弄するものではないぞ。

>〈比較を絶した妙〉は〈比較する妙〉を通じてのみ現れる。

いや、其の一方のみではない。相待妙(比較する妙)は、絶待妙(比較を絶した妙)に通じなければ、つまりは、
其の義が絶待妙にまで至らなければ真の相待とはならない、という事である。

>先にも触れたが、宗祖の御本尊を相待妙とも見るのは、阿部独自の説と考えられる

だから、御本尊を相待妙と観るのではなく、究竟中の究竟の大御本尊からして、其の他の御本尊は皆、
相待妙と成る、との意である。つまり、個々に於いては絶待妙であるが、三大秘法の総在たる一閻浮提総与の
大御本尊からすれば、其れらの御本尊は皆、相待妙の義となるのである。

本より、人法体一をして観れば、人法(而二)は相待、体一(不二)は絶待。
仍って、日応上人と日顕上人の弁は、其の立て分けからして同義となる。

日寛上人に曰く『弘安の御本尊、御本懐を究尽するや。答う、実に所問の如し、乃ち是れ終窮究竟の極説なり』と。

つまり、弘安に於ける本懐中の本懐たる戒壇の大御本尊こそが、絶待妙としての終窮究竟の極体という御意である。
お主は当分に於いて論じ、当方は跨節に於いて論じているのである。つまり、戒壇の大御本尊を絶待妙の唯一と
しないかぎり、お主の持論は須らく相待妙の片論となるのである。

よろしいか。体外の辺は勿論ダメであるが、体内の辺に於いても、実でなければ駄目なのである。

果たして、分身散影(分身散体と同義)の御本尊とは、一体、どこから分身したのであるか。抑も、分身するという事は
其の分身する以前に於いて本体がある、という事であろう。

つまり、御本尊に於ける待絶の二妙を否定するという事は、本門戒壇の大御本尊の大義を否定する事であり、
其れは日寛上人の御教示に違背する事であり、其(そ)はつまり、創価学会に於る日寛上人の御本尊下付の大義を、
自らが否定する事となるのである。つまり、矛盾をきたすは、お主の論という事になるのである。

云く、

『「法体の血脈」という時、その「法体」とは本門戒壇の大御本尊以外には有り得ません。ゆえに、日寛上人が
「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり(中略)題目の力用に由るなり」と示されている
通り、一切衆生の成仏を説かれた大聖人の仏法では、法主に限らず、全ての門下僧俗が「題目の力用」によって、
「法体の血脈」を受けられるのであります』と。 【日蓮正宗改革同盟 決議文より】

哀笑。

果たして、法体の血脈の「法体」こそは、本門戒壇の大御本尊以外には有り得ない、とは如何なる事か。
して、其の唯一の法体に帰命し、応に其の力用によって「法体の血脈」を得るとは、如何なる事か。
一部の表記には間違いがあるが、戒壇の大御本尊をして法体の唯一とし、その法脈を以って題目を唱うれば、
日寛上人の御本尊に於いて功力を得るとは、応に絶待にして相待たる、本尊授与の大義を云うものではないか。

して松岡よ。

お主は今、どーしておるのか。

果たして、今に於ても、上記の論説を死守するのであるか。

本より変節していない、というならば、早急に創価学会の邪義を破折せよ!

>「法体」こそは、本門戒壇の大御本尊以外には有り得ない。

其の事、よもや、ウソではあるまいな。

ならば早く致せ!

最早時間は無い。モタモタしておると、お主も其の内にポイ捨てされてしまうだろう。

諫言するなら今のうちである。

池田センセーが臥していたならば、今すぐ叩き起して言いなさい。

「唯一の法体を不受持にするとは、一体何事ですか!」とな。

よいか、禿人。

白を切っている場合ではないぞ!
 
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