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つづき

 投稿者:紫光  投稿日:2017年 8月13日(日)23時50分23秒 mo49-111-204-135.air.mopera.net
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   はたから見て「これは信じがたい」「信心に照らしておかしい」と思ったとしても、私たち凡夫は仏様ではないのですから、知り得ることなど砂丘の砂粒一つか二つあるかないかというレベルのものかと存じます。
 私たちがわからないこと、未知のことのほうが、はるかに多いのではと感じております。
 では、とある講員さんの体験なされたことがもしにわかに信じがたいとして、私たちに「それは絶対あるわけがない。その人がおかしいのだ」と否定したり、批判する確実な証明は、誰にも完璧にはできないのではないかと個人的には感じます。
 もしその講員さんが、本当に謗法を冒していて、その現証としてそうした体験が現れたり、信心のどこかに間違いがあり、その結果としてそうした体験をされたとしても、私たち周りの者が、多くの人の前でその方のことを批判したり、謗法者と指摘したならば、異体同心はどこに向かうのでありましょうか。
 また、私たちは仲間や先達を信じることができなくて、どうして世の中を幸せにし、広布へと歩めるのでしょうか。
 だめだしを出すことは簡単ですが、そこで歓喜やモチベションは上がるでしょうか。そこから生まれるものはあるでしょうか。
 もしそうしたことでその講員さんの信心、妙法を護持されている同士としての尊厳を傷つけたとすれば、互いにとってなにも生まれませんし、それはまことに不幸なことであると拝します。
 もし「あの人は謗法を冒しているのではないか」「この講員さんは信心がおかしいのではないか」と感じることがあれば、静かに御宝前に向かい奉り「あの方の信心が正しい方向に向きますように」と祈る、それでよいのではないかと、私ごときは思うのであります。
 みなの前でだめだしされては、その方の立場、メンツも丸つぶれになり、その師匠たる御尊師様のお立場もなくなるでありましょう。
 あえて何も申さず、ただひたすらその人のために唱題申し上げることが、一番の方法ではないかと、信心まだ至らない私なりに感じている次第であります。
 それぞれ人でありますから、様々な考え、意見もおありかとは存じますが、お互い妙法を護持させていただく身、これからも手を取り合い、信じ合い、尊敬しあって、まさに不軽菩薩の精神で日々を修行できれば、これほどありがたく、幸甚なことはございません。
 修行途中の身の上、ともに励まし合い、認め合い、尊重しあうことこそ、異体同心と私は思うのですが、先輩のみなさま、いかがですか?
 今打つべきは邪宗、身内ではないはずにござります。外折伏、内摂受という言葉もあるようにうかがったこともございますゆえ。
 
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