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冥界の深義

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月10日(木)20時53分1秒 i114-185-13-13.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  今や夏も後半戦。

連日の猛暑にはうんざりであるが、ここは怪談話でゾクッと小寒くなって貰いましょう、とは
応に納涼の決まり文句ではあるが、これらの怪談話、つまりは幽霊話であるが、果たして
本当にあるのであろうか。

無論、我々は創価などの新興宗教と違って、真っ当正真な仏教徒であるから、本より幽霊ついては、
其の「存在なり」を法義の上からして領解するものである。

凡(およ)そ、此の世は此の世のみであって、あの世などは決して無く、其の様な世界、つまりは死後の
世界などは有り得ない。だから、葬式も塔婆供養も単なる気休めでありセレモニーであり、御冥福
(冥界での幸福)などと云う言葉も、実際には存在しない冥界(死後の世界)を祈らんとする虚語でしかない、
との言い様は、曾(かつ)て当室に出入りしていた創価外道の狂信者のものであったが、勿論、其れこそが
間違いであり、厳然と「冥界」は、此の宇宙法界の中に存在するのである。だからこそ、我々は其れら冥界に
於ける精霊、つまり此の宇宙法界に冥伏している生命に対して、日々追善し供養するのである。
重ねて云うが、創価信者が言う様な、精霊とは今生きている我々の事を指している、などという狂言は、
最早、仏教徒の其れではなく、其れこそは新興外道の創価らしい断見の世迷言であると、此(ここ)に改めて
呵責するものである。

御義口伝に曰く『法界とは広きに非ず狭きに非ず。総じて法とは諸法なり、界とは境界なり。地獄界乃至
仏界共に界(さかい)を法(のっと)る』と云云。
続けて曰く『仍って法界が法界を礼拝するなり。自他不二の礼拝なり』と。
爾して曰く『即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち
即身成仏なり』と。
仍って申さく『今日蓮等の類(たぐい)精霊を訪(とむら)ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、
題目の光無間に至って即身成仏せしむ。廻向の文此れより事起こるなり』と。

つまり、我々現世の生命と、冥界に伏している死後の生命(精霊)は、此の宇宙法界に於いて不二であり、
其の相関は、あらゆる境涯(十界十如是)に於いて断絶されないのである。

何時ぞや、当室でも紹介したが、彼の東日本大震災で犠牲になられた方の亡霊(幽霊)が、驟(しばしば)
被災地に現われて、其れら幽霊を乗せたタクシーの乗務員の複数体験や、仮設住宅に住む婦人の体験など、
其れらの幽霊体験は、東北三県(岩手・宮城・福島)などで延べ300件以上にもなるという。
尚、此等の事は、或る女子大生の卒論に紹介され、NHKに於いても特集が組まれたのである。
                    ⇒【NHKスペシャル 「亡き人との再会~被災地 三度目の夏に~」】参照

本より、十界十如是は、有情非情に亘るのであるから、其れら非情の生命が、其々の相関に於いて感応し、
実際の現像として現われても、決して不思議な事ではない。つまり、其の事を突き詰めれば、此の法界には
幽霊も居れば悪霊も居る、という事である。尚言っておくが、目に見えないモノは信じない、という御仁は、
当方からして全くの莫迦であるから、そういう知恵足らずの者は、当室から速やかに退室した方がよかろう。

さても仏法の根義というものは、自分自身と森羅万象を分別せず、其れら全体を一として領解する、つまり、
無分別知を以って開悟するものであるから、学者等が喚(わめ)く断常の二見などは須らく其れら範疇内の小義と
心得るべきである。

日蓮大聖人が曰く『理の顕本は死にて有情をつかさどる。事の顕本は生にして非情をつかさどる』と云云。

つまり、理の顕本とは、常住としての仏性を説くものであり、事の顕本とは、仏身としての常住を説くもの
である。なれば、其の理事究極の御尊体こそ、非情の態相に刻印された日蓮大聖人の御仏性。つまりは
「南無妙法蓮華経 日蓮」たる曼荼羅御本尊の事であり、其の人法体一たる曼荼羅御本尊の御顕発こそが、
応に日蓮大聖人の御本懐だったのである。

従って今更言うまでもない。曼荼羅御本尊こそ日蓮大聖人の御尊体であり、日蓮大聖人の御魂魄なのである。
して観るに、曼荼羅御本尊は紙幅であり、又、御板でもある。したがって其の態相は非情である。
しかし、其の非情なる御本尊に帰命すれば、我ら有情の命に其の仏法力が感応するのである。
応に此の原理こそ、自他不二の礼拝の其れであり、実(げ)に曼荼羅御本尊こそが生死不二の御尊体であると開悟
すべきが、我らにして正しい仏法道と成るのである。さてもさても、大聖人御魂魄の曼荼羅御本尊。
果たして、是れ程の不可思議境が他にあろうか。果たして、これら最高なる御尊体を日々眼の当たりにし、其の
無量なる宝珠を有情の身にして獲得するを了するならば、其れこそ現世に於ける財物金銭の獲得や、名誉権力の
獲得など、是れ全く小利益の類(たぐい)と成るのであり、其れら小利益を以て一々歓喜している様では、まだまだ
其の命に於いて大法の妙義を体得していない証拠ともなるのである。

爾して昨今、幽体離脱等の神秘的な体験を以って、妙法の大義を論じようとする志向も見られるが、
是れこそは個人的な感応体験であり、与えて其れが法理の一端であろうとも、其れらの体験を仰々特殊として
取り上げ、信心会得の目標例と為すは、是れ全く浅識の小智と断ずべきであり、又、其の様に洞察する事こそが
我ら富士門信徒に於ける信心会得の基底ともなるのである。

御書に曰く『古(いにしえ)の人々も不可思議の徳ありしかども、仏法の邪正は其れにはよらず』と。

応に此の御文こそ、摧尊入卑を抑止する御誡文であり、小現証の歓喜を以って大法全体の歓喜と為す事を
誡める御文である。さても、一喜一憂は小信の印(しるし)とは…。いやはや、仏道修行とは厳しいものである。

尚、以前にも申し述べたが、此の宇宙法界に於いては、一念の波動に距離間は存在しない。
つまり、目の前1センチという距離も、遥か何千キロという距離に於いても、妙法の一念からすれば
無距離、つまりは基点にして同じ、という事である。したがって、日本で唱えた題目(御祈念)が、ブラジルの
サンパウロに届くのに、何分かかるとか、何時間かかるとか、そういう概念は存在し得ない、という事である。
本より其れは地球外に於いても同じであり、1センチも百億光年も、此の宇宙法界からみれば同基なのである。

仍って曰く『四方四惟上下合して十方なり、則ち十界なり』と
して曰く『今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは十界同時に光指すなり』と。

尚、此に重ねて云うが『霊界』などと称し、恰(あたか)も宇宙法界に冥伏している生命が「霊界」という別の
世界に存在しているかの様な言動は、全く以って間違いであるから、以後に於ては幽霊も幽体も、須らく法界の
一現象である、という事を此(ここ)にして領解すべきである。

今更云う事でもないが、正統・富士門流に於いては、其の論説に於ける表現などは、特にうるさいのであるから、
霊界だの、霊格だの、十界勧請だの、御祖師様だのと、其の様な言い回しは止めた方がよろしい。

日有上人が曰く『法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり』と。
又曰く『門徒の僧俗の中に人を教へて仏法の義理を背せらるる事は謗法の義なり』と。

異質なる表現は、在らぬ誤謬を招き、遂には異義と成って、仏法の義理に乖(そむ)く。

さても、夜な夜なお化けが出るのは構わんが、教義がお化けになっては話にも成らん。

其れこそが一番怖い話となる。

さて、明日よりは又『嗚呼、邪教人』と参ろうか。

是れとて立派なお化け退治である。
 
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