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戒壇の大御本尊に於ける「法華講衆等」の脇書について

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月16日(月)12時27分59秒 i223-217-34-247.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  誠に畏れ多い事であるが、過日、本尊の何たるかも解からぬ無宗教の痴れ者が、我ら正統・富士門流の
大根本たる戒壇の大御本尊の脇書について誹謗して来たのであるが、当室管理人は、此の痴れ者を追放
するに際し、其の脇書の正義を説教せしめたのであるが、此の痴れ者は案の如く、追放の後に於いても
執拗に、弘安二年当時に「法華講」は存在していない、という概念を以って戒壇の大御本尊を中傷する
事について、改めて其の正義を申し述べるものである。尚、本投稿の趣意は、あくまでも、法華講員諸氏、
就中、初信の方々が閲覧されている事を考慮して、此に敢えて再掲するものである。

さて、本門戒壇の大御本尊の脇書に記(しる)されている「法華講衆」の御意を感ずるに於いては、
日蓮大聖人が、御書文中に於いて『大講堂』もしくは『講堂』と表記されている事に、先ずは意を
向けなければならないという事である。

つまり、僧が経典の講義などを行う建物を指して講堂という認識が大聖人御在世当時からしてあった
という事からして、其れら僧の教えを受ける信者の集合を指して講衆と呼ぶは至極当然の事と成るの
である。して、其れらの講衆が応に法華経を信ずる者達であるならば、其の法華経を説かれる大聖人
からして、それらの者を『法華講衆』と呼称されるは、応に当然の理と相成るのである。

して、当室から追放された痴れ者などは、戒壇の大御本尊が御建立された当時、現今のような組織
としての「法華講」は存在していないとして「法華講衆」との脇書がある此の御本尊は後世の偽物である、
と曰(のたま)うのである。

小笑。

本より、当室管理人は、其の痴れ者の文句について、其の浅識の極みを一笑の下に破折せしめたのであるが、
ここに改めて破す事としよう。

本より大御本尊に記されている「法華講衆」の読み方は「法華講の衆」ではなく「法華の講衆」と読むが
正解なのである。又、其の事は語尾の「等」の文字を接続すれば、実に「法華講の衆等」という表現は
不自然と成り「法華の講衆等」が実に自然と成る。

例えば「小泉法華衆等」とは「小泉の法華衆等」と読むものであり、又「上野講衆等」に於いても、
「上野の講衆等」と読むが正解であり、決して「上野講の衆等」とは読まないのである。

つまり、無宗教の痴れ者は、そういう解読が出来ずに、単に熱原の法難当時に於て「法華講」という
現在の様な組織が存在していない事を以って、大御本尊の脇書を侮蔑しているのである。
応に痴れ者にして浅識の極みとは此の事であろう。

而して「法華講の衆」ではなく「法華の講衆」と読むが正解である事は、前(さき)にも引用した日興
上人の『御講衆の申さるゝ旨聞こしめし候ぬ』との表現からしても其の正解が裏付けられるのである。
して、此の『(法華の)御講衆』という御認識は、当然の事ながら日蓮大聖人が御在世当時から持たれ
ていたのであるから、大聖人御入滅後十年経とうが四十年経とうが、日興上人をして、其の御認識は
些かも変わらないという事であり、其の不変の御認識をして『御講衆の申さるゝ旨聞こしめし候ぬ』
と表記されたのである。つまり、今の「法華講」に対する見方を以って読むから、そういう屁理屈が
生まれて来るのである。無論、そこに記さる「法華の講衆」をして、我らが「法華講」の御事である、
と解読するは、興門正統の我らからして当然の事であり、決して牽強付会の偏読ではない。

尚、当室管理人として前(さき)にも申し述べたが、将来の大戒壇に御安置さる本門戒壇の大御本尊の
脇書に於いて、それら将来に亘る法華講衆の大結成をも達観されて、願主に「法華講衆等 敬白」と
記念された其の御本仏の御予見こそを、我々は唯々感嘆するのである。して、これこそが信仰という
ものであって、無宗教の痴れ者が、文献の面上を舐めて唾を吐こうとも、一切立ち入る事の出来ない、
生命感得の大分野なのである。

日蓮大聖人に曰く『いまだ顕はれざる後をしるを聖人と申すか。日蓮は聖人の一分にあたれり』と。

果たして、其の時に無かろうとも、そして其の時に顕れざる事であろうとも、聖人は、其の御予見を
以って其の名を示し、又は初出の記述を以って、其れらの証文と為されるのである。実に前代未聞の
表記こそは、未萠(未来)を知る聖人、就中、御本仏たる日蓮大聖人の証明であるという事を此に知る
べきであろう。
 
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