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管理人様 お詫びに

 投稿者:通りすがりの法華講員  投稿日:2017年 1月12日(木)21時59分47秒 p5231-ipngn6501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
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  御存じかもしれませんが、以下のことを情報共有させていただきます。

<下山大工に関する伝承>

ttp://www3.town.minobu.lg.jp/lib/shiryou/daiku/history00.html

1282(弘安5)年に日蓮聖人が亡くなって間もないころのことです。日蓮聖人にはたくさんのお弟子さんがいましたが、なかでも六老僧と呼ばれる6人の偉いお弟子さんがいました。そのひとりが日興上人で、日蓮聖人のあとを継ぐお坊さんには日興上人を、とみんなが考えました。
 ところが、それに反対する人がいました。そのころ身延の村を支配していた波木井実長です。実長は、前に日興上人から信仰のことで厳しく叱られたことがあり、そのことを根に持っていたのです。そのため、日興上人は1289(正応2)年、身延を去って富士郡へ行ってしまいました。富士郡は、今の静岡県の富士宮市のことです。
 日興上人が身延を去るときに、下山の石川という家の大工さんを、一緒に連れて行きました。この大工さんが、富士郡で「六壺の間」という名前のお堂を建てました。これが、今の日蓮正宗の総本山である大石寺のはじまりです。今でも同じ名前のお堂がありますが、これは大石寺ができて700年たった記念に、最近になって新しく建てられたものです。
 「六壺の間」は、四つの辺のそれぞれが12間(21.816m)ある、大きな建物だったそうです。どのくらいの大きさかというと、身延山久遠寺の本堂の1.5倍くらいです。その建物の内部が横の方向に3区画、奥の方向に2区画の6区画に区切られていたことから、「六壺の間」と呼ばれるようになりました。
 これが、下山大工についてのもっとも古い言い伝えとされています。この話が伝えられているのは、下山の石川武重さん、石川孝重さん、石川与市さんの家です。この3軒の石川さんの家は同じ一族で、大石寺にあるさまざまな建物を建ててきた一族なのです。

下山大工とは、石川・竹下両家を中心として発展した身延地域の在方大工集団であり、江戸時代には芝白金御殿・駿府城・甲斐善光寺の建設にも携わるほどの大工集団とのことです。その石山家に伝わる伝承が上記のものになります。
承久元年(1219年)に石橋八幡神社が再建された時の棟札(「下山大工七郎二」)が存在することから、下山大工は鎌倉時代初期から身延に存在する大工集団であったことがわかります。また、下山大工によると大石寺六壺には正応3年と書かれた棟札があるとのことです。
これは、大石寺が建立された正応3年10月12日と一致しています。

つまり、身延や創価学会仏どもが主張する「当時身延には楠が自生していなかったので戒壇様の楠を入手できない、日興上人が戒壇様を大石寺に移動することはできない」との邪推は、大聖人様御在世時代に身延に大工集団が存在していたこと、身延から大石寺への移動に大工集団が同行していた事実と六壺の棟札の存在から簡単に破折されるのです。

この度は、本当にご迷惑をおかけしています事申し訳ありません。
 
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