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創価学会員の謬論を破す 【其の二】

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月17日(土)16時48分12秒 i60-41-187-27.s42.a014.ap.plala.or.jp
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御本尊は有限、久遠元初の法は無限、貴方は、可視できる御本尊の中の本門の本尊名と
本門の題目と久遠元初の御本尊を混同して言っているので、話がより混同しております。

御本尊→可視できる御本尊
久遠元初の御本尊→久遠元初の法

このように考え直して下さい。

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さて其の前に、

>本尊問答抄
>■「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の
>題目を以て本尊とすべし」(P365)

>との言葉もあります。法華経の題目と、ありますが、本門の題目と言うより、本門の
>本尊と言えるでしょう。

との貴殿の解釈は正解である。

日寛上人に曰く『末法の本尊とは、本門の南無妙法蓮華経日蓮大聖人是れなり。是れ我等が
為の能引なり。十界の聖衆は、是れ日蓮体具の十界の聖衆なり』と。

つまり『法華経の題目を以て本尊とすべし』とは、本門の南無妙法蓮華経日蓮大聖人、
つまりは其の人法一箇をして本尊とすべし、という意である。

仍って、久遠元初の法(題目)こそが人法一箇の御本尊よりも根本である、という貴殿の
思想は久遠即末法からして誤りであり、其の様な仏法は大聖人の教えには無いものである。

さて、

>私は、一大秘法は、本門の本尊としている。
>しかし、究極に求められるものは、曼荼羅とお思いでしょうか、
>どういうことかと申しますと、
>一大秘法・本門の本尊も恐れ多いことですが、有限であります。
>久遠元初の法は無限であります。


小笑。そーか。一大秘法は有限で、久遠元初の法が無限であると云うか。

よろしい。先ずは其の文証を富士の立義から出しなさい。

其れにしても貴殿こそは、

>貴方は、究極に求められるのは、南無妙法蓮華経=久遠元初の法ではなく、曼荼羅
>(御本尊)とお思いでしょうか。

などと当方に話を向けておきながら、今にして、

>御本尊→可視できる御本尊
>久遠元初の御本尊→久遠元初の法
>このように考え直して下さい。

などと区分けして言い直しておる。小笑。

はて、久遠元初の御本尊とは何か。
加えて『御本尊の中の本門の本尊名』とは一体何ぞ。小笑。

貴殿は其れに答えなさい。

よいか。

当方は最初から最後まで『御本尊こそが南無妙法蓮華経であり、日蓮大聖人である。
其れこそは人法一箇である』と言っている。

而して貴殿は、南無妙法蓮華(久遠元初の法)=御本尊ではない、と言いながら、今回は
『久遠元初の御本尊』などと新たな表現を用いて、南無妙法蓮華経(久遠元初の法)=久遠
元初の御本尊などと訳の判らん事を言っておる。

何だ! 御本尊には現在の御本尊と、久遠元初の御本尊があるのか!
ならば『久遠即末法』の大原理はどう説明するか!!

本因妙抄に曰く『釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり』と。

果たして、久遠名字即の御身を今時末法に移された日蓮大聖人は、久遠元初の御本尊からして、
如何なる御本尊となるのか。

日寛上人に曰く『末法の本尊とは、本門の南無妙法蓮華経日蓮大聖人是れなり』と。

先にも申したが、御本仏・日蓮大聖人も、貴殿の肉眼からして可視できる御方である。
だから、どーだと言うのだ!?

よいか!

御本尊を有限とするは、大聖人をして有限と為す邪見である!!

貴殿は上記の一件を法義的に立証しなさい!
言って置くが貴殿の私感など要らんぞ!
仏法に於いて私義の展開は則邪義となる!
本より、是れこそは大聖人の御訓誡である!

>久遠元初の法=南無妙法蓮華経は、無限であり、可視出来る御本尊は有限であると、
>私は言っている。

呆哀。だから当方が過日にも詰問したであろう。

『貴殿は日蓮大聖人の御入滅をもって、日蓮大聖人は消滅されたと思っておるのか。
加えて其の消滅は、人間と草木とでは滅の仕様が違う、とでも言うのか』と

見れば其の一番大事な返答が為されていないではないか。

よいか。貴殿の〝私感〟からすれば、日蓮大聖人も有限という事になる。何故か。貴殿の
思想からすれば、日蓮大聖人も可視できる『人間』としての『像(かたち)』だからである。

どうであるか。だから日蓮大聖人は有限であるのか。

其れを仏法義に於いて答えなさい。さすればこの問題は解決出来よう。

大白法を信ずる者として、可見に囚われることが如何に浅識であるか。人法一箇の奥義を
熟思すれば、自ずと其の事が理解できようて。

ったく、このような事、旧創価学会(富士大石寺信徒の団体)教学部であったならば、助師・
講師のレベルであるぞ。

とまれ『可視出来る御本尊は有限で、可視できない久遠元初の法=南無妙法蓮華経が無限』
と言う意味が、単なる『可視できるモノと出来ないモノ』という、肉眼視の分類の意味で
主張しているとすれば、仏法義に於いて、これ程の稚見識は無かろうて。哀笑。

よいか。

宇宙空間は見えない。だから無限。草木は見える。だから有限。果たしてもし、貴殿が
そういうレベルで御本尊義を語っているとすれば、最早この論戦は、当方の勝ちである。
無論、ここで云う『勝ち』との意味は正誤に於ける正の意味である。

兎も角、可視できる日蓮大聖人が其の御入滅を以って滅した(有限)となれば、先ず、其の
正解を仏法義の上から述べて貰うしかなかろう。

本より、其の正解こそが、日蓮大聖人に於ける本尊義の正解となる。心して回答されよ。

日達上人曰く『我が戒壇の大御本尊様のことを誹謗して、板だからいつか無くなってしまうが
如き暴言を吐いている記事を見ました(中略) 彼等の説は、すでに仏教ではありません。
また、宗教でもありません』と。(大白蓮華・昭和38年1月1日号)

はて、貴殿の思考は、最早仏教ではないという。
ならば、其れこそは、断見に囚われた、外道思想の一類となる。

貴殿には今一度、可見の非を示してしんぜよう。

我ら日蓮門下に於ける本尊とは、法に即して言えば事の一念三千の三大秘法であり、人に
即して言えば、久遠元初の自受用報身如来である。而してこの本尊は人に即して法、法に
即して人であり、其の体こそは人法一箇である。故に一念三千は即自受用身であり、三大
秘法は即無作三身なのである。

又、日蓮大聖人の御内証とは久遠元初自受用報身如来の御当體であり、御本尊は其の久遠
元初自受用身即一念三千たる生命を事実の上に具現化されたものである。

したがって、宇宙の真理を日蓮大聖人が鎌倉時代に発見開悟し、その真理の姿を曼荼羅として
表現した、という考え方は外道である。

此に重ねて言うが、三大秘法の大御本尊は、法界即日蓮・日蓮即法界の真理からして、応に
日蓮大聖人の御当體であり、其の実体は滅不滅の御当體なのである。

御義口伝に曰く『戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於いて
面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云』と。

よろしいか。上記御文からして法華経の行者が有限である筈がないのである。

本門寿量品に曰く『我成仏已来。甚大久遠。阿僧祗劫。常住不滅』

【我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祗劫なり。常住にして滅せず』と。

仍って総勘文教相廃立に曰く『十界を身と為すは法身なり。十界を心と為すは報身なり。
十界を形と為すは応身なり。十界の外に仏無し。仏の外に十界無く依正不二なり。身土
不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ。是の故に無相の極理と云ふなり。生滅
無常の相を離るゝが故に無相と云ふなり』と。

さても、無作三身に即したる人法一箇の御本尊を、己(おのれ)の肉眼に於いて有限と断じた、
浅識の徒よ。

貴殿こそは、上記の深義こそを能く能く想うべきである。
 
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