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一念三千の法門

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月24日(土)09時17分11秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
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  私が言ってる事がどういうことか

具体的に解りやすく説明しておきます。


<一念三千の法門>


「一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり」と御書にある通り、十如是がはじまりとなります。

例えばフルマラソンを走りぬいたランナーがいたとします。
このランナーは、汗びっしょりでクタクタの如是相と如是性をそなえた如是体という当体です。
そんなランナーの前に一杯のコップに注がれた水が差し出されました。のどがカラカラのランナーは差し出された水が如是縁(外縁)となって、如是力(内在する力)が発動しコップを手に取り、如是作(作用)と転じて水を一気に飲み干します。
飲み干したことが如是因(原因)となって如是果(結果)としてランナーはお腹を壊して、如是報(報い)の苦しみを味わいます。

ランナーが飲み干した水は、実は友人がうっかり放置していた腐った水だったのです。

クタクタで喉がカラカラだったランナーは、正常な状態ならば気づいたであろう水の腐りを、全く気づかないまま飲み干してしまったのです。
仏法では苦しみは煩悩から生じるとしますが、具体的には様々な物事への執着から起こります。このランナーは水が飲みたいという欲望に執着するあまり判断を誤ってお腹をこわして大変な目にあいます。
そのことがきっかけとなり腐った水を置いていた友人と喧嘩するにまで至りました。

このランナーが腐った水を飲んでしまい苦しんでいる姿は、空仮中の三諦でいうところの仮諦の姿にあたります。勤行で十如是の所を3回繰り返しますが、そのうちの一つはこの仮諦の「仮」の姿を捉えた十如是(仮の義で読む十如是)です。

友人と喧嘩別れしたランナーは家に帰って勤行をはじめます。最初は腐った水を放置しておいた友人に対する怒りで一杯でしたが、唱題していくなかで御本尊様の仏界の境地に感応し、怒りも静まり空の真理を得る(空の義で読む十如是)ことで、「物事には実体はない、友人の方に問題があるのではない。」と己の心と向き合う姿勢が出来ます。

そして、腐った水に気づかなかった自身のふがいなさを反省し「明日、友人に謝りに行こう!」という一つの悟り(中の義で読む十如是)を得て、友人との仲は修復されました。

この一連の流れの中で、ランナーの心は餓鬼界になったり修羅界になったり人界になったりで、十如是が起点となって十界が変動して現れていくのです。
このような当事者の心の動きを内道として主観的認識で説きあらわされたのが一念三千の法門です。

それを客観的な解説に陥ると、「分別・差別」(違い)という客観的認識(仮諦)で終わってしまい、空諦、そして中諦の悟りまで辿りつけません。だから学会員さんや法華講員さん達は、悪を実体化(差別)し本来は「実体無し」と判断すべき「仮の姿」(仮諦)に執着し、醜い攻撃を繰り返すのでしょう。

そもそも、宗門が客観認識(分別・差別)で展開された誤った一念三千の法門を説いているところに重大な問題があるのではないでしょうか。

以下に示す御書の内容が只今の解説です。


《一念三千法門》

此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身般若解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。


《 総勘文抄》

十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是(※ 衆生の仮諦の十如是)は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是(※ 仏の中諦の十如是)は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是(※ 仮諦の十如是)なり末とは諸仏の十如是(※ 中諦の十如是)なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去現在未来の三世の虚夢を見るなり(※ 仮諦)、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く(※中諦)夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり(※ 境地妙合のこと)

 
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