新着順:463/8135 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

Re: 休憩中~

 投稿者:黒川 和雄@日蓮正宗  投稿日:2016年 9月23日(金)18時38分11秒 p1137-ipbfp2603osakakita.osaka.ocn.ne.jp
  通報 返信・引用
  法介さんへのお返事です。

>三千の法門は分別を説かれたものですか?それとも無分別を説かれたものでしょうか?

分別・不分別などと抜かしておる輩は天台の理の一念三千である!

「理」とは【理論】【理屈】である。・・・即ち「学問上はそうであろう」ということだ。実態ではあるまい。

ここに円柱があるとする。真上から見れば円と見える。
真正面から見れば長方形と見える。

いづれも実態ではない。

実態はどこまで行っても「円柱」である。法華経の寿量品文底に秘沈された南無妙法蓮華経が円教、即ち「完全なる実態」ということであり、宇宙法界の実態、草木等非情を始め、動物を始めとする有情等、全宇宙生命の過去、現在、未来を変革し得る法力が存するのである。

それを「悟られた」のが末法の御本仏・日蓮大聖人であります。

大聖人曰く、

「釈迦如来五百塵点劫の当初そのかみ、凡夫にて御坐おわせし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(総勘文抄・新編1419)

と仰せられています。この「五百塵点劫の当初」こそ久遠元初のことで、このときの「釈迦如来」とは凡夫時に即座開悟された法即人の本仏たる自受用報身如来であり、そのときの法は人即法の本因下種「南無妙法蓮華経」です。

従って、大聖人なくして南無妙法蓮華経は無し、南無妙法蓮華経無くして大聖人は無し。

これが「人法一箇」ということであります。

その究極が「本門戒壇の大御本尊」であります。

では



 
》記事一覧表示

新着順:463/8135 《前のページ | 次のページ》
/8135