新着順:484/8140 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

Re:通りすがりの法華講員さん

 投稿者:法介  投稿日:2016年 9月23日(金)12時55分41秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  通報 返信・引用
  <外道義の一念三千の法門>

先に紹介しました法華講員さんと学会員さんのHP中の「一念三千の法門」の解説は、表現は多少異なれども言わんとしている内容に相違はないように思われます。まあ、どちらも宗門から教わった内容ですので当然でしょう。

また、御講でうちのご住職が語る「一念三千の法門」も、残念ならがこれらのサイト掲載の内容と変わりありませんでした。

皆、共通して言えることは、分別としての一念三千が語られているということです。

生命は十に分別され、更に十がそれぞれに互具して百界。そして三世間が加わって三千。
それが縁に寄って常に変化しながら現れてくる。だから一瞬一瞬の生命の実相はこの三千のどれかにあてはまる。
という三千の生命の分別が述べられている訳です。

でもそれは仮の姿なので「仮諦」であって、実は「無分別」で物事を判断しなくてはいけないんですよ
なんて、皆さん聞いたことないでしょ^^

なぜなら、創価学会も宗門も、どちらも分別どまり(仮諦)の一念三千になってしまっているからです。
それは客観認識(分別法)で説く一念三千であり、まさに外道義(分別=実体有り・我有り)に展開された「一念三千の法門」です。

だから互いが相手の事を悪と決め付けて罵りあっているのです。

「体曲れば影ななめなり」

の御金言通りのありさまです。


しかし、「無分別」(空諦)だと判断する基準が無くなる訳で、何をもって判断すれば良いのかと思われた方は正しいです。その為に一念三千(中諦)が説かれているのです。

では、実際に例をあげて解り易く「一念三千の法門」を説明していきます。
 
》記事一覧表示

新着順:484/8140 《前のページ | 次のページ》
/8140