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間抜けなフェイク云く、
「平成四年十一月、浄圓寺の成田宣道住職が日顕宗を見限って
離脱したが、これを知った日顕が「しまった。あの寺には寛尊
の御本尊があったなあ」と呟いたという。これは日顕模写の偽
本尊ではなく、日寛上人の御本尊が世界に流布する事への嫉妬
からであった」と。
鼻笑。
はて、日顕上人の本尊は偽本尊であり、其れに替わる日寛上人
の本尊こそが本物だという。
ならば申せ!
日寛上人の本尊が、何故に本物なのか!
そして、其の本物は、何に対して本物なのか!
そして、其の本物は、何を基にして本物なのか!
果たして、判形は、単なる印鑑証明と侮言したは誰か!
加えて判形は、誰が書いても同じと断言したは誰か!!
今一度問う!
日寛上人の本尊が、何故お前たちからして本物なのか!
そして、その本物の基準は、一体、何をして本物だと言うのか!
間抜けな創価学会員云く、
『日寛は戒壇板本尊・相承書を体系化し、位置付けましたが、
現在ではそれが私達の「考察の対象」となっているのですよ。
日寛の体系化した「大石寺教学」は今の私達には信仰の対象で
はありません。ですから、「観心本尊抄文段」「当体義抄文段」
「文底秘沈抄」などをいくら引用したところで「途中の人師が
どうしたの?」で終りです。(笑)』
哀笑。
間抜けなフェイクの言い分と、間抜けな創価学会員の言い分と、
果たして一体、どちらが本当の間抜けな言い分なのか。
其れこそ間抜けな連中しか判らない、間抜けた話である。
糞笑。
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