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御返事

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2016年 3月27日(日)21時44分50秒
返信・引用
  御返事が遅れて申し訳ありません。

まず、小少将局 の件ですがこのあたりの字もかなりの崩し字だったので本当に小少将だったか
自信がないので保留にしてください。すみません。


・今小路局は今小路のまま死去しているので、大貮局ではないです。

柳原家雑萃記別録 元禄十二年七月二十三日
仙洞女中今小路局 柳原大納言 今夜死去
         息女


・紀光養女 藤子 ですが、生年が同じ紀光の養女 藤子を柳原家参役已下雑事便覧でみましたが、安永時に山科忠言に嫁に行っているんです。
たぶん同一人物だと思うのですがどうなんでしょう。

忠言の配偶者は史料をみてもでてこないですし、息子の母親は家女房だし。
よくわかりません。

あやふやな情報ですみません。またいろいろ探してみます。


東京大学史料編纂所の柳原家譜は私が知っている限り(7~8年前くらい)には閲覧できなかったです。早くみたいですね~

 
 

雛の節句

 投稿者:煌子  投稿日:2016年 3月 3日(木)00時52分39秒
返信・引用 編集済
  【2016.3.10追記】

皆様、お出でくださりありがとうございます。


いのうえとろろ様
お久し振りでございます。
今回は、雛の節句に合わせて、とっても素敵なお土産をありがとうございます。
なんでしょう、このワクワク感は!!
いいですね、この感じは。
早く調べてみたいですが、昨日、かなり以前に陵墓陵印掲示板で話題に上がった「性源院」について見つけた文章があったので一先ずそちらを優先しなくては、というタイミングです。
新しい展開がありましたら、是非ご教示くださいませ。
よろしくお願いいたします。

  -----------------------------------------
【追記】
いのうえとろろ様、その後何かおわかりになられましたでしょうか。
ご教示いただいた内容を時空列で考えてみたところ、というか、父親で分けてみただけですが以下のように整理してみました。

いのうえとろろ様も既にご存知のように、宝暦5年の大夫典侍は桃園天皇・後桜町天皇・後桃園天皇の3代にお仕えした柳原忠子、安永4年の常盤井局は、恭礼門院上臈のおなみ御料人、のちの常盤井と合致しています。
以前ご教示いただいた『近世の朝廷と女官制度』36頁の註(1)に書かれている通りですね。

新たに判明したことは、常盤井の生母が織田信休(初代・丹波柏原藩主)の4女ということと、欣子内親王に仕えていた姪(紀光養女・実名は藤子のことか?)の仕え名が小少将局だったということでしょうか。
上記については、幣サイトに追記してもよろしいでしょうか。

柳原資廉の子女3人のうち2人は初出のようです。
読めなかった静壽院殿は享保2年の大夫典侍(中御門天皇の典侍)と同一人物ですが、弊サイトでは父の名前が不詳でした。
姉妹2人については、現在のところ確定出来ません。

謎其の一:「仙洞女中 大貳局」
当時の仙洞といえば、霊元上皇を指します。
以前ご教示いただいた『霊元天皇の奥と東福門院』に、『勧慶日記』より「今小路は柳原資廉女(註33)で、霊元天皇在位時は「典侍内侍之差別無」召し使われていたものである。」と説明が書いてあります。
しかしこれで確定かと思いきや、そのあとの文章に「大弐は不詳、」とあるのです。
今小路と大貳の関係は、同一人物? それとも、別人?
ちなみに、註33とは、『勧慶日記』元禄二年正月二十八日条に、「資廉の息女は院の女中今小路」であると書かれていることです。

謎其の二:「女院女中 實三室戸故三位誠光卿女 山小路局」
女院とは、東山天皇中宮の幸子女王、承秋門院を指すと考えます。
新上西門院の生存中は「新女院」と呼ばれていました。
承秋門院の女房は3名しかわかっていないので、もっと詳しいことが判明することを期待します。

ところで、東山天皇の新典侍(もとの勾当内侍)も三室戸誠光女なんですよね。
崩御後に移動した可能性、あると思いますか。

いつもお世話になっている東京大学史料編纂所のデータベースで、「柳原家譜」のイメージが無いのですが以前からそうだったのでしょうか。
『資廉卿記』などデータベースで見ることが出来ますが、崩し字なのでわたしには難しいです。
いのうえとろろ様、どうぞよろしくお願いいたします。
 

彌生

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2016年 3月 2日(水)10時53分35秒
返信・引用
  3月に入りました。みなさんお元気でしょうか。


先日、臨時収入がありちょっくら京都へ行ってまいりました。
そして煌子さまがブログに書かれていた
『大夫典侍局(タイフテンジノツボネ)由緒書:禁中女中』
を閲覧してきました。

類似文書として
『静壽院殿親類由緒并御藏米 : 中御門院女中』
『常盤井局由緒書』
『大夫典侍局由緒并知行所 : 禁裏女中』
もありましたので、一緒に閲覧してきました。

複写をしたかったのですが、江戸時代のものということで通常のコピーではなく
業者さんに頼んだうえで後日来館してください。とのことだったので断念して
頑張って手で写しました。

『静壽院殿』は虫食いがかなり激しくしかも崩し文字だったので、いまいち読めず。

『大夫典侍局(タイフテンジノツボネ)由緒書』のほうは享保2年のもので
父欄に「柳原一位前大納言資廉卿 死去」
母欄に「家女房 死去」
とあります。
あとは祖父母・兄弟姉妹・伯父・甥・従弟が載っております


気になることといえば姉妹の欄に
「仙洞女中 大貮局  死去」
「女院女中 實三室戸故三位誠光卿女 山小路局」

ですね。


『大夫典侍局由緒并知行所 : 禁裏女中』は宝暦5年のもの。
父「柳原正三位権大納言光綱卿」
母「家女房」

で祖父母・弟・妹・伯父・父方従弟・甥・姪 そして知行所が載っていました。
女官はいません。


『常盤井局由緒書』は安永4年のもの。かなり崩してある字なので読みにくいです。
父「柳原正三位権大納言光綱卿 死」
母「織田(あと読めなかった…)」
ので上記の「大夫典侍」とは別人の光綱女ですね。
娣欄に「禁中女中 典侍局」とありましたし。(これが上記の「大夫典侍」かしら)
あと
姪欄に「少少将局(これも読みにくかった。誤読しているかも」がいました。


何人か知らない女官がいたので、今後の課題です。


 

あけましておめでとうございます

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2016年 1月 4日(月)00時27分46秒
返信・引用 編集済
  申年の新年も、はや3日となってしまいました。
時が過ぎるのがなんと早いものか・・・・
申年だからだけではない、というところが問題なのです。
早くHPのほうを充実させなければいけないと心が焦ります。

皆様、今年も掲示板とともに拙HPもよろしくお願いいたします。


☆いのうえとろろ様
「東家」や「中東家」の読み方についての発見がありました。

北上 真生氏 "近世期における女房日記の視点と方法-長橋局による記録を中心にして-" 『国文論叢』 第40号. P.29-45 (2008.3) (神戸大学文学部国語国文学会)

この論文のP.41上段、『御湯殿上日記』より引用された〔21〕の記事には、春日社社家・中東家より禁裏へ柿が献上されたことが書かれています。
「・・・・ なら(奈良)の なかひかし(中東) かき(柿)の ひけこ(髭籠)しん上申。・・・・」
このことから「中東」は「なかひがし」であり、「東」も「ひがし」と読む、でいいのではないでしょうか。
いかがでしょうか。

[2016.1.7追記]
と、これに気付いた後は、『御湯殿』を読んでいて、あと2~3箇所発見しました。
「中ひかし」と書いてあったところもありました。

ところで、霊元天皇の御下の小辨は「春日の社家の娘」と『御湯殿』にありましたが、中東家の娘と考えてもいいのでしょうか?
(幣HP 女房一覧 江戸時代前期(3)参照)
 

ネコ守り

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2015年11月19日(木)15時22分11秒
返信・引用
  いのうえとろろ様、お久し振りです。
この時期の京・奈良はさぞかし美しかったのではないでしょうか。

陵墓や女房の墓所巡りの情報をありがとうございます。
それ以外の情報も(笑
そして更に思いました、カラス怖い!
故に墓所巡りから足が遠のく管理人です。

ブログのほうへも貴重な情報がありましたら是非お願いします。
名前の読み方については、こちらでも調べてみます。
 

京都・奈良

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2015年11月15日(日)17時10分50秒
返信・引用
  おひさしぶりです。いのうえとろろです。みなさまおげんきでしょうか?

一年ぶりに京都・奈良へ行ってまいりました。

まず、京都は洛西・松尾のほうへ。葉室家墓地を目指し自転車で。
あらかじめ見当をつけていったのですぐに見つかりました。

葉室光子墓はすぐに見つかったのですが、以前照山もみじ様名義で投稿されていた厚淳院殿墓は見つかりませんでした。
墓地内に入るわけにもいきませんでしたので、墓域外から写せるだけ写したのですが撮れていなかったようです。がっかり。

そのまま山をのぼって桜谷墓地へ。松尾大社社家の墓があるとのことでしたが、山は大変です。もし行かれるようでしたら、車がもしくはいっそのこと徒歩がよろしいかと。楽だからとレンタサイクルで電動自転車を借りたのですが、これがあだになって…何せ自転車が重いので山登りも大変です。

結局見つかったのは南家・松室家・東家で女官は一人だけでした。(墓地の一番奥区域です)

命婦伊賀局秦村子墓

余談ですが、この「東家」は「ひがし」なのか「あずま」なのか。
春日大社の社家の「中東家」は「なかひがし」なのか「なかあずま」なのかはたまた「ちゅうとう」なのか。
大体どの書物を見ても振り仮名は打っていないのです。史料を整理する際こまります。



あとは、嵐電沿いに降りて一度行ったことのある陵墓を撮影しました。大体のところが10年以上前に行っているので、いろいろ周辺が変わっているところも多かったです。
レアなところでは、光孝天皇陵で「宮内庁」の軽トラを見つけました。


そのまま街中へ行き、十念寺へ行きましたが入口・駐車場ともしまっており断念。そのまま南下し誓願寺へ行きました。
前回見つけられなかった勧修寺家の墓はみつけましたが、以前話題に上っていた徳子は見つけられませんでした。
あと3年前は木が生い茂っていた東久世博子の墓は周辺の木が刈り取られすっきり。その代りその奥の園光子の墓は木が生い茂り墓碑ははっきりと見えなくなっていました。




次の日に奈良の東山墓苑へ行き、春日大社社家の墓を探しましたが、てるやまもみじ様が投稿されていた「大中臣賀子」しか見つからず…

しかしまあなんですな、東山墓苑は怖い… お天気のいい午前中に行ったのですが墓苑内は木が生い茂って暗く、カラスがいっぱい。以前夕方近くに真如堂へ行き、そこでもカラスがかなりいたのですが、こっちのほうが100万倍怖い…
もう、行きたくないです(´;ω;`)


今回、陵墓・墓地へ数か所行きましたが、80%近い確率でねこがいました。陵墓はほぼ100%です。宮内庁は墓守にねこを飼い始めたのでしょうか(笑)それはそれで楽しみが増えるので問題ないのですが、カメラの準備をしていないので困ります(^◇^)

 

東京も梅雨入り

 投稿者:天明公主  投稿日:2015年 6月 9日(火)03時21分56秒
返信・引用 編集済
  煌子さま、返信が遅くなりました。

10日ほど論文発表のため佐賀まで行っておりました。
今回は、半分の5日間も肥前鹿嶋へ通いましたが、先日、あわや大惨事の肥前竜王駅も10回通りました。
最終日には、1年ぶりに原城跡を再訪し、長崎空港から帰京いたしました。
原城跡には、今夏か秋にユネスコの視察団が来日し、どうやら来年には登録の流れのようです。


それと宮中ものの韓ドラですが、だいたい皇后は悪役なのですが、トンイの仁顕皇后やイサンの誰たったけ?(チャングムのヨンセン)もいい人でしたね。

「ぶっちゃけ寺」は、深夜帯の放映時には、「月曜から夜更かし」を見ていたので録画で見ていましたが、ゴールデンに移行後は時々しか見ていませんが、昨夜は見ました。

このところ、内容の乏しい書き込みが続いておりますが、ご容赦を・・・・

現在、今夏に発表する論文の校正中ですが、また一段落したら本来の主旨の情報を報告したいと考えてはいますが、いつものように気長にお待ちください。

九州や四国では、いつも利用しているジョイフルがついに23区内(赤坂)に初出店しました。
 

書き忘れです

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2015年 5月22日(金)19時06分31秒
返信・引用
  随分前、4月13日の「ぶっちゃけ寺」なる番組に、梅窓院の墓地が映りました。
御覧になった方はいらっしゃるでしょうか。
販売されている墓地の話も出て、奥、桜の木が見える辺りが売りに出ていますとのことでした。
実際に、その場所も撮影。
この掲示板でも話題に上がっていたお寺だったので、複雑な思いで見ていました。
2つのキーワードで検索すると、放送された番組が見れます。
行かれたことのある天明公主さまなら、画面からいろいろとわかるのでしょうね。
 

美しい5月も終わりかけて・・・・

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2015年 5月22日(金)17時40分21秒
返信・引用
  皆様、お出でくださりありがとうございます。

最近暑い日が多くお疲れの方も多いと思いますが、今日は思いのほか過ごしやすい気がします。
そういえば、今年は強風注意報の発令が多く、最近は日傘が壊れないか心配です。

☆天明公主さま
またまたお返事が遅くなり申し訳ありません。
お仕事がお忙しくて大変そうですが、体調のほうはいかがでしょうか。
西定子の訂正、ありがとうございます。

『トンイ』終了に伴い、あまれすならぬトンイレスとなるかと思いきや、そうでもなく、ただ、挿入曲?が脳内を闊歩している現状です。
今は、全部を録画していなかったのですが、しかし長いCMを消そうと思い時間が取れれば1話ずつ見直している最中です。
残念ながら衛星放送は契約していないので(時代遅れかな)、教えていただいた『奇皇后』を見ることが出来るのは先になりそうです。
ところで、検索中に、韓国の識字率の話題から発展して、時代物のドラマでは宮中の服装などいくつかはドラマ制作上の作り物であるという話を読みました。
チャ・チョンス達武官の服装って、戦う時ものすごくかっこいいのでそれが作り物だとすると興ざめです。

今後とも、よろしくお願いいたします。
 

ひと休みひと休み

 投稿者:天明公主  投稿日:2015年 4月10日(金)13時56分19秒
返信・引用
  煌子さま、御無沙汰しております。


3月の下旬にようやく長編の報告書の制作が終了し一段落ついたのですが、とにかく連続の制作であったため昨夏から運動不足で3㌔も太ってしまいました。(笑)
ただ、現在は先送りしていた(某寺から依頼の調査)資料の制作などなどを1年遅れでまとめておりますところです。

そのような訳で新情報などはございませんが、ご指摘いただいた西完子⇒西定子を訂正しておきました。
ありがとうございます。


それと、『陵墓要覧』の件ですが、特定の個人だけに向けたメッセージ(書き込み)は、調査報告とともに記載したものは残しておりますが、そうでない場合は、大垂水酔鳥さまへのメッセージなどの様に10日ほどで削除しております。


『トンイ』を視聴中とのことですが、『チャングム』『イ・サン』『馬医』とは、同監督なので演出やキャストがかなりかぶっています。(笑)

個人的には、現在BSで放映中の『奇皇后』の方が内容が充実しています。舞台が中国なので、また違った宮中の仕来たりなどをしることができますよ。
私は昨年、スカパーで全話見終えていますが、なかなかの内容です。
ただ、BSで放映中のは、日本語吹き替えなので、違和感があり見ていません。


それと、今年の2月と3月にスカパーで放映された『賢后衛子夫』もよかったですよ。
忙しかったので、ゆっくり見てはいられなかつたのですが、全47話を録画しているので、これからじっくり見直すつもりです。

わたし自身、中国が制作した宮中ドラマは初めてでしたが、相変わらずの権力争いと切ない悲恋ものですが、韓国の宮中とはかなり異なりますので、いろいろ参考になります。

5月からスカパーの「チャンネル銀河」で再放送が始まりますので、機会がありましたらご覧になって見てください。

と、言うわけで、今回は内容の薄い書き込みに終始してしまいました。

今年もいよいよサイクルロードレースの季節がやってきました。
 

春です

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2015年 4月 4日(土)19時32分22秒
返信・引用
  皆様、お出でくださりありがとうございます。

4月初めにして、東京では桜は強風のせいもあり散り始めています。
ただ、満開すぐにお濠端の桜を見ることが出来たので良かったです。


☆天明公主さま
書き込みいただいていたのに、お返事もせずに失礼しました。
西家墓の確認に行かれたとのこと、成果はなかったようで残念でした。
(西完子は西定子のことでよろしいですよね)
『地下家伝』は時期を見て、借りますのでどうぞお気遣いないように。

さて、只今私は某民放で放送中の『トンイ』に夢中でございますよー(笑
5話の頃に何気に見たら毎日気になり、楽しんでいます。
宮中の様子や女官のこと、階級による衣装や礼儀作法など、様々なことが面白く感じます。
省庁の名前など、何度も聞くと覚えてしまいますが、一度で覚えてしまったのは「オジャギン」です。
クムと共に宮中に戻り、最終回に近づくと思うと寂しさが募ります。
そうそう、モファカンでのシーンに、侍が映りましたが姿かたちにかなり違和感がありました。
江戸時代の宮中が舞台のドラマなんて、夢のまた夢。ですね。

今後とも、よろしくお願いいたします。


☆杉田さま
ようこそお出でくださいました。
『陵墓 陵印 掲示板』に書き込みされた方でいらっしゃいますよね。
何故か削除されているようですが、確かあちらで杉田さまへのお返事がありました。
御覧になられましたか?

照山もみじさまはこの方面に関しては特にお詳しい方です。
その方が書かれている記事なので、これ以外の墓碑銘は他のどなたも御存じないのではないでしょうか。

ところで、杉田さまは青山の梅窓院でお寺様に直接確認されたのですね。
合葬した「富田家のお墓」は、梅窓院に新しいお墓があり、杉田さまがそれを実際に確認したということでしょうか。
関心のある方もいらっしゃるので、その辺の詳細を教えていただけると幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。
 

西定子の墓碑銘を探しています

 投稿者:杉田  投稿日:2015年 3月20日(金)13時34分49秒
返信・引用
  2008年9月2日の記事に【明治天皇権掌侍・英照皇太后女官・西定子墓】のお墓が青山の梅窓院にあるとのことで昨年見に行きました。残念ながら、お墓が整理されており、西定子の墓石は無くなってました。お寺様のご説明では、富田家のお墓に合葬したとのことでした。(富田家の新しいお墓がありました。)私は西定子を調べようとしています。どなたか、撤去された西定子の墓碑銘をお持ちでしたら、共有頂けないでしょうか?

因みに、私が引用したのは下記です。
********************
引用)
24系北斗星   投稿者:照山もみじ   投稿日:2008年 9月 2日(火)00時47分2秒      通報 編集済


   早いもので、気がつけば今年も3分2が経過し、暦も九月になり蝉の鳴き声の中、トンボを目にすることがふえてきました。

月末には、北海道まで家族旅行にいってきましたが、二ヶ月ぶりとはいえ函館駅でキハ183系北斗を見ると、あらためて北海道に来たんだという実感がわいてきます。


【明治天皇権掌侍・英照皇太后女官・西定子墓】
梅窓院・東京都港区南青山

従五位西定子之墓 (角石)
(右) 明治二十九年十月十五日 清功院完譽徳寶智周大姉
(左) 富田家
http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1507
********************
 

どこいっちゃったの

 投稿者:天明公主  投稿日:2015年 1月 5日(月)20時33分16秒
返信・引用 編集済
  煌子さま、明けましておめでとうございます。

本日、初詣のため祐天寺まで行きましたので、その後、青山霊園まで西家墓の確認に行ってきました。
祐天寺へは、毎年、元日に柳原愛子墓を参拝した後、お参りをしているのですが、今年は元日の天気がよくなかったので本日になってしまいました。

さて、西家墓所を確認いたしましたが、西定子と冨田算子が改葬されたかという事実確認はできませんでした。
墓誌などに追記は無いので、改葬されていないと考えるのが妥当と思われます。

改葬されたと想定すると、一番近い青山霊園が妥当と考えましたが、あるいは奈良の西家墓所か?または他所か?それとも無縁廃棄かということになりそうです。

冨田家は、『地下家伝』に記載されているはずですが、何巻(上・中・下)は不明です。
今度、見ておきます。


以前、某子爵家のご当主さまに直接、お聞きした話ですが、ご当主様の江戸の菩提寺より江戸期の旧石を廃棄し新墓の建立を要請されたそうですが、ご当主様が断ると、住職夫人に「何で、こんな汚い古い墓を残すの?」と言われたそうです。
その後、江戸の菩提寺と離檀して国許の菩提寺に改葬しています。

東京では、突然、墓碑が影も形も無くなっていることはよくあることですが、とにかく記録を残しておくことが最善の対応策と言うのも悲しい話です。
 

そうでしたか

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2015年 1月 1日(木)17時52分11秒
返信・引用
  天明公主さま

あけましておめでとうございます。
今年も拙サイト、並びに掲示板をよろしくお願いいたします。

寒い中、お疲れ様でした。
梅窓院の墓地の状況がそういうことでしたら、拙サイトにも現在の状況についての一文を付け加えないといけないようです。
他の寺院・墓地についても同様のことが起きつつあるようですし。
ただ、新しいものが良くて古いものは要らないという風潮は何だか寂しいです。
明治以前の女房たちが現存する家の系譜に名前も載っていないことを知ってからは、せめて、無縁廃棄ではなく、改葬や集積であってほしいと思います。

今後とも、よろしくお願いいたします。
 

あけましておめでとうございます

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2015年 1月 1日(木)17時50分50秒
返信・引用
  昨年も皆様には諸情報などありがとうございました。
今年も掲示板をよろしくお願いいたします。

平素は管理人は裏方に徹するつもりでございますので、お返事の遅延等何卒ご容赦くださいませ。
 

やっぱり無かった(泣)

 投稿者:天明公主  投稿日:2014年12月31日(水)12時56分24秒
返信・引用 編集済
  今年も半日になりましたが、1週間前に梅窓院まで行ってきました。

梅窓院へは多分、2年か3年ぶりになりますが、以前はよく訪れたのですが、ここ15年ほどは御無沙汰状態で2年か3年に1度行くような感じなので、行く度に墓所の様相が変わっているような状況です。

私が初めて訪れた昭和55年当時の平松子爵家の墓域は広大で墓碑数も多かったのですが、現在はかなり縮小されています。

さて、問題の西定子、冨田算子などの墓所は、予想していたとは言え跡形も無くなっていました。
周辺の新規墓域を見て回りましたが西家、冨田家の墓所は無く、無縁廃棄、または青山霊園へ改葬されたものと思われます。
また、墓地内に無縁集積墓も無いので旧石の確認もできませんでした。
その後、青山霊園へも行ったのですが、所在地の記憶が曖昧なため確認することができませんでした。

そのような訳で、来年も宜しくお願いいたします。
良き新年をお迎えください。
 

ありがとうございます

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2014年12月23日(火)18時35分45秒
返信・引用
  あと数日でクリスマス、そして大晦日、日付けが変われば新しい年の始まり、と思うにつけ、物事がはかどらない日々を過ごしております。
諸情報をお寄せくださる方々には、お返事が遅くなり申し訳ありません。


いのうえとろろさま
お忙しいところ、茶阿であった橘充子の墓碑銘のご教示ありがとうございます。
『近世の朝廷と女官制度』を読み込まれていなければ、気づかないことです。
いのうえとろろさまのご慧眼に敬服いたします。
女嬬クラスですとこのような戒名を付けられるのでしょうか。
塵とか垌とか・・・・
よくよく読んでみたところ、p.200の表にある 寛政3年女嬬とよ(新規採用) は年齢が書いていないのですが、同一人物でしょうか。

『近世の朝廷と女官制度』に掲載されていたので、一覧の盛化門院の女房については女嬬等も載せましたが、別表を作ったほうがいいのかもしれませんね。
ゆるゆると考えてみます。
『昭憲皇太后実録』をまとめられて、こちらの不備などが見つかりましたらご連絡をお願いします。
今後ともよろしくお願いいたします。


天明公主さま
ご多忙の中、権掌侍富田算子の墓碑銘のご教示ありがとうございます。
享年から推測すると、冨田算子は明治天皇にお仕えしたのでしょうね。
冨田姓の出自は何なのでしょう。

それから、これまでにご教示いただいた女房・女官のうち、私が墓所を知り得なかったものについては一覧で空欄になっています。
天明公主さまや「陵墓 陵印 掲示板」の皆さまにとっては熟知していることなのだと思います。
記載されていない墓所について、一覧に追記出来る情報がありましたら是非ご教示くださいませ。
何卒よろしくお願いいたします。



追記:青山の梅窓院のHPを見ますと、墓地の相談会開催中とありますので残念なことになっているのかも。
 

もう無いかも

 投稿者:天明公主  投稿日:2014年11月26日(水)01時30分36秒
返信・引用 編集済
  東京は雨ですが今後、日々寒くなるかと思うと寒さ嫌いな自分にとっては辛い季節の到来です。

3日前にようやく長編の論考が終了し、現在、12月の初めに締切りの小論文を制作中なのですが、調査記録を探していたところ陵墓要覧でも話題になった西定子墓を調査した時の資料が出てきました。
わたしが墓所で調査した記録は、年度別に分けて保存しているのですが調査記録を見ると、完子さんの墓碑と同域内にもう1人女官の墓碑が建立されていたことを失念しておりました。



1 權掌侍正五位勲四等冨田算子之墓
左)至徳院算譽精道敦厚大姉
右)昭和二年四月二十三卒 享年五十六
裏)昭和二年七月三十一日 施主冨田光増建之

ただ、墓所が改葬されたということなので現存していないかも・・・・
確認に行きたいと思いつつも延び延び状態です。
 

女嬬

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2014年11月22日(土)20時17分6秒
返信・引用
  前回の京都旅行の報告の続きです

くろ谷(金戒光明寺)で以前発見した女嬬です

女嬬前茶阿橘充子墓

右側)私謚曰
   遠塵院無垌浄光大姉
左側)正六位下叙右近衛将監橘久充女
   明和九年壬辰六月二日生
   天保十三年壬寅正月十一日死

父親の橘久充とは「陣官人 櫛田久充」と推定されます。

『近世の朝廷と女官制度』のp.197の表 上から10人目の女嬬茶阿と思われます。
年齢もぴったりですし。



『昭憲皇太后実録』のコピーは大変でしたが購入するのに比べればこれくらいの苦労は…

お正月休みにでもゆっくりまとめようかなーと長期戦でやっております(笑)
 

情報をありがとうございます

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2014年11月14日(金)01時34分40秒
返信・引用
  天明公主さま
記録を確認していただき、ありがとうございます。
そして、鴨脚八十の墓碑銘の御教示もありがとうございます。
八十さんは、笹権命婦であった方ですね。
名前しかわからなかったので、知ることが出来てとても嬉しいです。
女官一覧のほうへ追記させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。


いのうえとろろさま
お久し振りでございます。
京都!
紅葉はまだまだでも、京都はいつ行っても良いところですよね、羨ましいです。

伏屋美能子(と私は記載しています、出典不明ですが)は明治天皇の乳母だった方です。
wikiでは最初の乳母だとあります。
乳母であった伏屋美能子(みの)と、木村羅伊子(らい)は何となく明治天皇の女官一覧から外していました。
これまた、名前しかわからないので何か発見がありましたら御教示ください。
女房一覧における東山天皇掌侍の冷泉経子の墓所は、東山天皇実録より記載したものです。
現在は最勝院にあるのですね。
これについては追記させてくださいませ。

『昭憲皇太后実録』のコピーは大変じゃなかったですか?
どうまとめようかと私も悩み、初めてエクセルを活用してみることにしました。
入力は手書きよりも時間が掛かったのですが、検索機能があるので探し物には最適だとわかりました。
とはいえ、下巻を読み始めたので上巻を一覧に反映するのが途中になってますけれど(汗
本当に忙しくなる師走にならないうちに何とかしなくちゃと思う次第です。
エクセルをお使いならば、データ(最低限のことしか載せていませんが)をお送りしますけど・・・・

写真からの発見を楽しみにさせていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

生嶋朝子

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2014年11月12日(水)10時46分22秒
返信・引用 編集済
  おひさしぶりです。いのうえとろろでございます。

一年ぶりに京都へ行ってまいりました。
洛中の紅葉はまだまだですね。貴船のほうはもう少しといったところだそうです。

真如堂へ行ってきました。ここも紅葉にはまだまだです。

ご報告をひとつ、ふたつ。


仁孝天皇以後明治まで出仕していた生嶋朝子の墓を確認しました。

  故權命婦平朝子之墓
左 號玉光院如月圓照大姉
右 生(以下剥離)
裏 明治二十五年二月…

裏面の二月以下は写真写りが悪くて解読できませんでした、すみません… 没年月日だけのはずです。

生嶋家の墓域内に石欄があり、ひときわ立派なあつかいです。

…追記…
と、ここまで書いて以前「陵墓…」の掲示板のほうにてるやまもみじさまがご投稿されていましたね。
今気がつきました。喜び勇んで書いてしまい恥ずかしいです(/ω\)


あと近くに

命婦伏屋氏之墓

というのもありました。左右面・裏面とも記載なし、もしくは摩耗しているため確認できず。でした。
明治時代にひとり命婦で伏屋氏をどこかでみたことがあるのでこの人かなとも思いますが、史料は確認できず…ごめんなさい。



南禅寺最勝院 墓地

東山天皇掌侍の冷泉経子

永壽院仙巖真松大禅尼

卵塔でした。六文字目の「真」はほかの字かもしれません。苔がいっぱいで…

最勝院の墓地の奥のほうでした。よく見る卵塔よりもごんぶとで大きい卵塔です


あと、いくつか女官関係をほかの寺院で見つけましたが、取り急ぎはこれくらいで…

とにかく写真の腕がなさすぎるのか、デジカメの機能を使いきれていないのか、デジカメが古いのか、映っていると思ってあとから確認すると光の反射具合で映っていないものが多々あり情けなくなります(とほほ…)

なので中途半端な御報告になってしまいますがよろしくご容赦を…

残りの分は写真を整理しきった後日にいたします。



あと、『昭憲皇太后実録』がうまく整理でしません…

一応、目次をコピーし目次に載っている女官らしき女性を1ページづつ確認して、コピーして、
と作業をし、とにかく本を返却して一覧表にしているのですが、進退がすべてのっているわけではないので知らない間に身分が上がったり、いなくなったりコピーがぬけていたりとてんやわんやです。
しかも年末に入り仕事・家庭ともいそがしくなって、めんどくさがり屋の本性が現れてやりっぱなしな感じです。

年明けぐらいには本気だしてやらないとなあ思ってはいます。
以上愚痴でした(笑)
 

鴨脚頼子さんの没年

 投稿者:天明公主  投稿日:2014年11月 9日(日)21時38分36秒
返信・引用 編集済
  煌子さま、ご無沙汰しております。

土日は、法要後、箱根強羅温泉で1泊し温泉と食事を堪能してまいりました。

さて、この度は鴨脚頼子さんの没年をご教示いただきましてありがとうございます。

頼子さんの墓碑には、長文の碑銘が列記されており時間の関係上、全文を記録することができず断片的な記録となってしまい、没年と没月日の碑銘が離れていたことから没年を探すことができず諦めた経緯がございます。

最近、京都はご無沙汰状態であるため全文の記録をと思いつつも、はたしていつになるのか状況です。

のんびり温泉で骨休めをしたので、明日からまた報告書の制作にとりかかります。

今後も宜しくお願いいたします。


当方の書き込みを確認いたしましたところ墓碑には頼子さんの没日は2日とありますが、『昭憲皇太后実録』では4日ということですので、調査時の記録をもう一度、再確認しておきます。


★ 追 追 記 ★

京都調査時の記録を確認いたしましたところ頼子さんの没日は、2日とありました。
「四」と「二」は、見誤る可能性は低いので誤記の確率は低いのではないかと思われます。
実際、資料と墓碑銘では、法号と没年が異なることは珍しいことではありませんが、早く確認に行きたいものです。
碑銘には、「・・・・・十一月二日在職中死・・・」とあります。


ご参考までに、鴨脚家の同域墓地内にある女官の碑銘を記しておきます。

1 故正七位鴨脚八十之墓
右)大正三年四月十日鴨脚家建之
裏)・・・・光長二女母栄安政五年二月二十三日生明治十一年二月七日皇太后宮御附・・・・権命婦・・・・・大正二年四月十日病歿享年五十六

この墓碑も時間の関係上、碑銘は盲腸状態です。


昨年の12月に黒谷での調査後、真如堂を通りました。
会津墓地を過ぎると、すぐ真如堂ですが、墓地に入らず左折し墓地沿いの道を下ると、右側の多くの無縁集積墓の中に「藤原朝臣・・・」などの墓碑が見られます。
真如堂の無縁墓地は、治定墓の奥一列は知られていますが、道沿いにも多く残されています。
ほぼ日没間近でしたので記録している余裕はありませんでしたが、いつかはと思うもののままなりません。
江戸期には、墓地内に多くの公卿、地下、女官の墓碑が所狭しと建立されていたんでしょうね。 
 

2014.7.10の「明治天皇関連諸々」の記事の件

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2014年11月 9日(日)17時43分7秒
返信・引用 編集済
  ---再度、追記いたしました---

天明公主さまより御教授いただいた明治天皇の女官の墓碑銘のうち、鴨脚頼子の没年について、月日のみしかわからないということでした。
『昭憲皇太后実録』(上) 270頁に、鴨脚頼子の死去のことが載っています。

明治十四年十月二十八日の条に、「鴨脚頼子の死去」として「権掌侍鴨脚頼子病篤きを以て、・・(略)・・尋いで頼子死去せるにより、十一月四日皇后は金二十円を下賜あらせらる。」とあります。
このことから、頼子の亡くなったのは明治十四年と判明しましたので御報告させていただきます。
また、命婦から権掌侍に昇格していたこともわかりました。

『昭憲皇太后実録』は未見のことも多く大変参考になりますが、女官方の死去の記事では亡くなった日が省略されていることもあり、墓碑銘との照合が必要であるとの思いを強くいたしました。
今後とも、御教授よろしくお願いいたします。

【追記】
天明公主さま
お忙しい中、早速のお返事をありがとうございます。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。

【11/11 追記】
天明公主さま
お忙しいなか、お手を煩わせてしまう事態になりまして申し訳ありません。

2014年7月10日の天明公主さまの投稿記事の中では、
鴨脚 頼子
墓碑銘が長文であったため時間の関係上、碑銘を抜粋したものの、月日のみしかわからず。
鴨脚光陳女 某年11月2日卒
とあります。

『昭憲皇太后実録』の文章は、明治十四年十月二十八日の時点で頼子さんの病が重篤なものになった、そして何日かのちに亡くなり、十一月四日になって金なにがしを下賜あらせられた、という意味だと思われます。
他の女官が亡くなった記事でも同様な書き方をしています。

天明公主さまが書かれたのは間違っていなくて、亡くなったのは墓碑の通り2日で正しいと思いますがいかがでしょう。
どちらにしても、お仕事を優先してくださいませ。
 

後光明天皇の勾当内侍について その2

 投稿者:ひなたむら  投稿日:2014年10月 4日(土)20時26分6秒
返信・引用
  煌子さまへ
こちらこそ、お返事ありがとうございます。
後光明天皇の勾当内侍について、出典つきでなら載せていただいて結構です。
なお、久保貴子先生の「近世天皇家の女性たち」(『近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集』)は、もちろんコピーしてあります。ありがとうございます。
また色々と教えてください。よろしくお願いします。
ところで、『吉良家日記』にも明正天皇の女房衆の名前が載っていましたので、一度ご覧になるといいかと思います。高家から見た天皇家も、いい史料がたくさんあります。
 

後光明天皇の勾当内侍についてのお返事

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2014年10月 4日(土)02時09分41秒
返信・引用 編集済
  ひなたむらさん、ようこそお出でくださいました。
先程ブログを拝見したばかりです。
中山冷泉家の成り立ちをみると、「中冷泉家」とも呼ばれたそうですから、確かに「冷泉」ですね。
素晴らしい発見ですね。
お知らせいただいた検証結果は、こちらの一覧にも使わせていただきますね。
よろしいでしょうか。

それと、『近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集』の、久保貴子先生の「近世天皇家の女性たち」は既にご覧になりましたか?
(ひなたむらさんのブログで検索が出来なかったので、ご覧になったかわからなくって)
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/3471/1/kinsei_2_5_17.pdf
こちらで読めます。
孝子内親王についても書かれています。

【追記】
ひなたむらさま、お返事が遅れてすみません。
ご許可いただき、誠にありがとうございます。
しばらくしたら追記させていただきます。

『吉良家日記』も内容的に素敵な本のようですね。
楽しみが増えました。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

後光明天皇の勾当内侍について

 投稿者:ひなたむら  投稿日:2014年10月 3日(金)22時55分21秒
返信・引用
  『後光明天皇ブログ』管理人ひなたむらです。
後光明天皇の勾当内侍は、(中山)冷泉(今城)為尚女だと判明しました。
明正天皇と後光明天皇、後西天皇、霊元天皇まで仕えています。
当ブログにも記事を公開しました。発見できて嬉しいです。
 

良い季節に・・・・

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2014年 9月20日(土)10時05分4秒
返信・引用
  夜の涼しさに、しみじみ秋だなぁと感じる今日この頃です。
予約した『昭憲皇太后実録』が秋の夜長の友になること間違いなしです。
皆様もそれぞれ自分だけの秋を見つけられましたか?

◇いのうえとろろさま
漢字の件、当時の日記などを見ていても、言葉先にありき、のような感じで、同じ女房名や名前に対して違う漢字が書かれていることがあります。
字の違いについては、そんなに問題としなくても良いのではないでしょうか。
日記を書いた当事者も自分の日記がよもや後世の人の目に触れるとは思ってはいなかったでしょうし、それを写した人の写し間違いもあったかもしれませんし。
ということで、どうぞ、そんなに謝られないでください。
それよりも、この先もご教示くださいませ。

教育社版の『日本の女性名』は三巻全て所持しています(古い人なので/笑
(下)巻が出版されるまで大変待たされました。
『近世の朝廷と女官制度』でしか確認していませんでした・・・・こちらこそ、恥ずかしい
そういえば、(下)巻の女房次第は『幕末の朝廷』に載っている女房次第からの転載でしたね。

明治3年の「維新日誌」については未見でしたので、国会図書館へ行く時に見てまいります。
いろいろ教えてくださいまして、いつもありがとうございます。
よろしくお願いいたします。


◇天明公主さま
墓碑銘について、お教えいただきありがとうございます。
今後とも、ご教示よろしくお願いいたします。

「宇宙戦艦ヤマト」は視聴率が低かったので見た人が少なかっただろうと思い、秘かに自慢です(笑
空飛ぶ戦艦の発想は確かにすごいですよね。
今は更に艦これの時代ですけど。
これも時代の流れでしょうか・・・・
これからもいろいろ教えてくださいませ。
よろしくお願いいたします。
 

続・三上文子の碑銘再考

 投稿者:天明公主  投稿日:2014年 9月17日(水)23時27分1秒
返信・引用
  墓碑銘に関しては、学者が撰書することが多く林大学の撰文によるものも見られます。
三上文子さんの碑銘には撰文者などの記載は無く近親者の撰文かと思われます。

碑銘が記載されている場合、直接、墓碑の側面や裏面に列記されたものと、三上文子さんの墓碑の様に墓碑本体の円墳は無銘で、墓前の墓標に列記する二通りがあります。
墓碑本体に記されている場合は、ほぼ撰文者名が記されていますが、墓標の場合は撰文者が記されていないことも見られます。


「宇宙戦艦ヤマト」も当初は、あまり数字は高く無かったみたいです。
わたしが小学生時代、松本先生の「スーパー99」を読んだ記憶がありますが、その後、戦艦が空を飛ぶとは・・・
ただ、この設定は、私が小学生時代に映画館で見た石の森先生の「空飛ぶ幽霊船」が原点かな?
 

漢字間違い

 投稿者:いのうえとろろ  投稿日:2014年 9月15日(月)19時43分49秒
返信・引用
  「伊都貫」と「伊津貫」 漢字が違いますね…はずかしい(/ω\)

枕詞ですが。いわれてみればなんとなく雅な感じの女房名ですね。


天保5年の女房次第は 角田文衛著 「日本の女性名(下)」の巻末附録に載っています。
私が持っているのは教育社版全3巻ですが、古いので絶版です(なにせ昭和の本)
そのかわり国書刊行会から一冊にまとめたものがでています。たぶん附録もついているでしょう。

明治3年の方は「維新日誌」です。
国立国会図書館HPのサーチで「女房次第」と検索するとでてきます。
以前国会図書館に行った際コピーしたのが手元にあります。
 

三上文子さん墓碑銘から、昭憲皇太后実録などいろいろ

 投稿者:管理人・煌子  投稿日:2014年 9月15日(月)02時04分54秒
返信・引用
  ようやく九月らしい気候になったと言えるでしょうか。
十五夜は雨で残念でしたが、翌日はスーパームーンとかで、幸いにも巨大な月を見ることが出来ました。
用事のある方向へ歩いていたら、月に向かって歩くことになったと言う訳です。


◇天明公主さま
お久し振りでございます。
まだ8月が終わっていないのに涼しくなり、暑さから解放されてホッとしました。

今回はお忙しいなか、三上文子さんの墓碑銘を再度確認していただきありがとうございました。
そういえば、漢文調のこのような文章はどなたが作るのでしょう。
亡くなられた方に近い親族でなければ、専門に文章を作る人がいるのかな、とかこの方面に詳しくない私は考えてしまいます。

「はいからさんが通る」は、残念な終わり方だったのですね。
質の高いアニメだったとお聞きして、その感が強くなります。
なんと「宇宙戦艦ヤマト」の放送開始時期というのを聞いて、ああ、あの頃かと思い当りました。
ヤマトは初回あたりを見た記憶が・・・・

いえいえ、お礼を言われるほどのことでもないです。
大変なことは大変だと思いますが、それでも、いつかまたあちらの掲示板で書かれたものを読みたいと思いましたので。



◇いのうえとろろさま
お久し振りでございます。

『昭憲皇太后実録』、読み始められたのですね。
新しい本のぺりぺり、いいですね。
早速私も調べまして、予約をいれようと思います。
残念ながら、他区からの貸し出しですけれど。
それにしても、都立図書館は別として(ここは直接借りることは不可です)、某区立図書館で購入しているところがあるとは驚きです。
何か縁でもあるのでしょうかね。

さて、三上文子さんの墓碑銘について詳細な説明をありがとうございます。
文子さんは「伊都貫」と称したようですが、近衛維子の下﨟は『近世の朝廷と女官制度』では「伊津貫」です。
検索すると、枕詞にもなっているようで、「伊津貫川」が「伊都貫川」へとなったらしいです。
この名前の下﨟は他には、霊元天皇、光格天皇中宮欣子内親王、にそれぞれ仕えています。
ところで、天保5年正月と明治3年の女房次第はどちらに載っていましたか?
それとも、直接ご覧になられたのでしょうか。

状況証拠と仰りますが、勘違いせずにすみますしとても助かります。
ありがとうございます。


お二方とも、今後ともよろしくお願いいたします。
 

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